スペアの少女
ご覧いただきありがとうございます。
プラット男爵家のお屋敷は、広い。
とても広い。
広いけれど、私はその広さが少し苦手だった。
だって、広いぶんだけ寒い。
広いぶんだけ掃除が行き届かない。
広いぶんだけ、壊れている場所が多い。
東棟の客室は、雨の日になると天井からぽたぽた水が落ちる。西棟の廊下は床板が浮いていて、歩くとぎしぎし鳴る。北側の温室は、もう何年も前から閉じられたままだ。
温室という名前なのに、花は咲いていない。
今は、壊れた椅子や使わない箱が積まれているだけ。
お花より椅子のほうがよく育つのかもしれない。
……そんなことを言ったら、きっと怒られるけれど。
使える部屋は、屋敷の半分くらい。
残りの半分は、寒いか、暗いか、危ないか。
だいたい、そのどれかだった。
それでも門には、古い紋章が掲げられている。
プラット男爵家。
星系ひとつを治める貴族の家。
そう聞くと、とても立派に思える。
けれど私は知っている。
プラット星系には、あまり売れるものがない。
父と家令が、何度もそう話していた。
鉱山はよそほど豊かではない。魔力結晶もほとんど採れない。交易路からも外れていて、商人たちも長くは留まらない。
だから修理は後回し。
だから新しい使用人は雇えない。
だから食卓のお皿は、少しずつ少なくなる。
そういう話だけは、私はよく覚えていた。
貴族なのに貧しい。
でも、それは恥ずかしいことではないと思う。
少なくとも、私が恥ずかしがることではない。
家が貧しいなら、我慢すればいい。
服が古いなら、丁寧に着ればいい。
部屋が寒いなら、毛布を重ねればいい。
壊れた床は、避けて歩けばいい。
人は、足りないものに合わせて生きる。
私はずっと、そうしてきた。
それに、私にはちゃんと役目があった。
何もできない子では、なかった。
「ローレッタ」
朝食の席で、お母さまが私を呼んだ。
私は固くなったパンを急いで飲み込んで、顔を上げる。
「はい、お母さま」
「今日は検査の日でしょう。食後に支度をなさい」
「はい」
返事はすぐにできた。
遅れると、お母さまの眉がほんの少し動く。
怒鳴られるわけではない。
でも、その少しだけ動く眉が、私は苦手だった。
胸の奥が、きゅっとなる。
そういうふうに、身体が覚えている。
食卓の向こう側には、お姉さまたちが座っていた。
上のお姉さまは、静かに紅茶を飲んでいる。下のお姉さまは、お皿の果物だけを選んで食べていた。
二人とも、お母さまと同じ柔らかな茶色の髪をしている。
光に当たると、蜂蜜みたいに見える綺麗な色。
プラット家の色。
私だけが違う。
染めた髪の根元に、白がのぞいていた。
ほんの少し。
指で隠せるくらい。
でも、お母さまは見逃さなかった。
「また色が出ているわ」
私は思わず、髪の根元を押さえた。
「あ……すみません。今日、染め直します」
「今日では遅いわ。午前中にしなさい」
「はい」
お母さまは、それ以上何も言わなかった。
たぶん、叱るほどのことではなかったのだと思う。
私は少しだけ息をついた。
家族と違う色は、隠すもの。
そう決まっている。
私は鏡を見る時、自分の顔をあまり見ない。
目を見ると、落ち着かない。
頬の形や、唇や、鼻筋を見ても、それが良いのか悪いのかわからない。
たまに使用人が、私の顔を見て言葉を止めることがある。
お姉さまたちも、私をじっと見る時がある。
でも私は、その理由を知らない。
知っているのは、髪のことだけ。
白い髪は目立つ。
目立てば、余計なことを聞かれる。
余計なことを聞かれれば、お母さまが困る。
だから染める。
それだけの話だった。
「ローレッタ」
上のお姉さまが言った。
「はい、お姉さま」
「その髪、きちんと隠してちょうだい。使用人たちが妙な顔をするの」
「ごめんなさい」
「別に怒っていないわ」
お姉さまは、綺麗に笑った。
「ただ、気味が悪いだけ」
下のお姉さまが、くすりと笑った。
私は、少し遅れて笑った。
「すぐに直します」
そう言うと、お姉さまたちはもう私を見なかった。
話題は、来月届くかもしれないドレスのことに移った。
届くかもしれない、というのが大事だ。
本当に届くかどうかは、わからない。
仕立て屋への支払いが遅れていると、昨日、台所でメイドたちが話していた。
でも、お姉さまたちはドレスの話をする。
貴族の娘には、そういう話題が必要なのだと思う。
私には、あまり必要ない。
私に必要なのは、健康な身体だった。
「検査のあと、薬も忘れないように」
お母さまが言った。
「前回、血液の数値が少し落ちていたでしょう」
「はい」
「あなたの身体は大切なのよ」
静かな声だった。
その言葉だけなら、優しい言葉に聞こえたかもしれない。
胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが灯りかける。
でも、それはすぐに消えた。
「お姉さまたちに何かあった時、使えなくなっていては困ります」
「……はい」
私はうなずいた。
当然のことだった。
私はプラット男爵家の三女だ。
お姉さまたちより幼くて、お姉さまたちより家にとっての価値は低い。
でも、血はつながっている。
身体の型も近い。
もし、お姉さまたちに何かあった時、私の身体は役に立つ。
腕でも。
目でも。
臓器でも。
必要なら差し出す。
お姉さまたちが生きられるなら、それは良いことだ。
お母さまが困らないなら、それも良いことだ。
家に役立てるなら、私はここにいてもいい。
私は、そう思っていた。
そう思おうとしたわけではない。
最初から、そういうものだった。
朝食を終えると、私は椅子を引いた。
音が立たないように、そっと。
「ごちそうさまでした」
誰からも返事はなかった。
でも、それもいつものことだ。
検査室と呼ばれている部屋は、一階の奥にある。
もともとは書斎だったらしい。
古い本棚を壁際に寄せて、中央に医療用の簡易寝台と測定器が置かれている。窓枠は少し歪んでいて、冬になると隙間風が入る。
他の部屋よりは、まだ使える。
だから検査室になった。
たぶん、それだけだ。
寝台に横になると、背中がひやりとした。
「動かないで」
医師が言った。
屋敷に住んでいる医師ではない。近くの居住区から週に二度だけ来るおじいさんだ。
手つきは慣れている。
でも、機械は古い。
たまに、変な音を立てる。
私は袖をまくった。
白い腕に、細い針が入る。
痛い。
でも、声を出すほどではない。
私は天井を見つめた。
天井の隅に、小さな亀裂がある。
そのそばに、蜘蛛が巣を張っていた。
掃除の手が足りないのだと思う。
蜘蛛はいいな、と少し思った。
巣を張って、虫を捕まえて、生きていく。
役割がはっきりしている。
私も同じだ。
役割があれば、生きていていい。
「骨に異常はない。血液も、大きな問題はなさそうだ」
医師が測定器を見ながら言った。
「はい」
「よく食べて、よく眠ることだ」
「はい」
私はうなずいた。
それが難しい日もある。
食べ物はいつも十分ではないし、夜中に寒さで目が覚めることもある。
でも、言っても仕方がない。
医師が私を見た。
「痛むところは?」
「ありません」
「本当に?」
「はい。大丈夫です」
大丈夫。
便利な言葉だ。
そう言えば、たいていのことは終わる。
相手も安心する。
私も、それ以上聞かれずに済む。
検査が終わると、医師はお母さまに報告へ向かった。
私は袖を下ろして、廊下へ出る。
窓の外は薄曇りだった。
プラットの空は、いつも少し色が薄い。
青というより、洗いすぎた布みたいな色。
私は、その空が嫌いではなかった。
派手ではない。
豊かでもない。
でも静かだ。
静かなものは、壊れにくそうに見える。
本当は、そうでもないのだけれど。
屋敷の床は静かに腐る。
人の心も、たぶん静かに冷えていく。
それでも、静かなものは嫌いではない。
午前中に、髪を染め直さなければならない。
染料は二階の物置にある。
前はメイドが手伝ってくれていたけれど、最近は人手が足りない。今は私が自分で染めることのほうが多い。
難しくはない。
髪を分けて、根元に薬を塗って、少し待つ。
匂いがきついだけ。
失敗しても、怒られるのは私だけで済む。
私は西側の階段へ向かった。
本当なら、中央階段を使うべきだった。
でも中央階段は食堂に近い。
染める前の髪を、お姉さまたちにもう一度見られるかもしれない。
それは避けたかった。
西側の階段は古い。
家令からは、なるべく使わないようにと言われている。
なるべく。
つまり、絶対ではない。
私はスカートの裾を少し持ち上げて、一段目に足をかけた。
ぎし、と木が鳴る。
古い屋敷はよく鳴る。
二段目。
三段目。
踊り場の窓から、冷たい光が差し込んでいた。
その光が、私の髪の根元に触れる。
白い色が、ほんの少しだけ浮かび上がった。
私は反射的に、そこを手で隠した。
誰も見ていないのに。
少しおかしくなって、笑いそうになった。
「……えへへ」
小さく笑った。
その瞬間だった。
足元が、消えた。
「え」
短い声が出た。
踏み抜いた床板が、乾いた音を立てて割れる。
身体が傾いた。
手を伸ばす。
指先が手すりに触れた。
でも、古い手すりは私を支えてくれなかった。
根元から外れて、壁ごと崩れる。
視界が回った。
階段。
壁。
窓。
薄い空。
割れた木片。
床。
背中に、衝撃が走った。
息が止まった。
遅れて、肩と脇腹と頭に痛みが来た。
痛い。
痛い、では足りなかった。
身体の中で、何かがずれたみたいだった。
私は床に倒れたまま、指を動かそうとした。
動いた。
少しだけ。
よかった。
まだ使える。
そう思った。
変なことだとは思わなかった。
使えなくなったら、お母さまが困る。
お姉さまたちが困る。
だから、動かなければならない。
立たなければならない。
私は腕に力を入れた。
激しい痛みが走って、喉の奥で声がひっかかった。
「っ、あ……」
視界の端が暗くなる。
誰かを呼ばなければ。
でも、大きな声を出したら叱られるかもしれない。
西側の階段は危ないと言われていた。
壊したのは私だ。
修理費がかかる。
お母さまが困る。
また迷惑をかける。
どうしよう。
どうしよう。
謝らなければ。
「ごめ、んなさい……」
声は床に吸われた。
冷たい床だった。
古い木の匂いがする。
埃の匂いもする。
そこに、鉄みたいな匂いが混じった。
血だ。
私の血。
赤い。
当たり前なのに、少し不思議だった。
髪は白いのに、血は赤い。
そんな、どうでもいいことを考えた。
その時。
白い光が、目の奥で弾けた。
音がした。
屋敷の音ではない。
階段のきしみでも、木片が落ちる音でも、使用人の足音でもない。
もっと大きい。
もっと遠い。
金属が裂ける音。
警告音。
通信の怒号。
赤い表示が、視界いっぱいに走る。
違う。
ここは屋敷だ。
私は床に倒れている。
なのに、見える。
宇宙が。
暗い。
果てがない。
黒い海の中を、無数の光が流れていく。
息をしようとした。
でも、肺に入ってきたのは埃の匂いではなかった。
焼けた金属の匂い。
冷たい循環空気。
狭い、丸い場所。
全周囲を覆うモニター。
私はそこに座っている。
座っている?
違う。
私は倒れている。
屋敷の床に。
でも、違う。
私は、ここにいる。
指先から、何かが伸びていた。
糸。
糸のようなもの。
白い光を帯びたそれが、大きな鉄の人形の四肢に絡みついている。
関節を引く。
剣を握らせる。
機体を進ませる。
知らない。
こんなもの、私は知らない。
知らないはずなのに、指が覚えていた。
引けば進む。
緩めれば流れる。
握れば斬る。
考えるより先に、身体の奥が答えを知っている。
敵機が迫る。
左上。
死角。
違う、見えている。
そこだ。
白いスラスター光が尾を引く。
急加速。
身体が押し潰される。
肺が軋む。
胃の奥がせり上がる。
でも、止まらない。
止まれない。
前へ。
斬る。
敵の腕が飛んだ。
もう一機。
もう一機。
もう一機。
通信の向こうで、誰かが叫んでいる。
『撃墜女王だ!』
『マーリン=ロイスが出たぞ!』
『近づくな、喰われる!』
違う。
私はローレッタだ。
プラット男爵家の三女。
お姉さまたちのための身体。
白い髪を茶色に染める子。
違う。
違うのに。
記憶が流れ込んでくる。
帝国の宮廷。
高い天井。
大理石の床。
ロイス公爵家の紋章。
白いドレス。
軍服。
手袋。
血のついたリボン。
誰かの笑顔。
誰かの手。
誰かの死。
守りたかった。
守れなかった。
選ばされた。
奪われた。
殺した。
殺された。
称えられた。
恐れられた。
撃墜女王。
王国の兵士たちが、そう呼んだ。
帝国の公爵令嬢。
マーリン=ロイス。
その名前が、私の中で目を開けた。
痛みが遠くなる。
代わりに、胸の奥が焼けた。
悲しいのか。
苦しいのか。
怒っているのか。
わからない。
わからないほど大きなものが、私の身体の中に押し寄せてくる。
私は息を吸った。
今度は少しだけ、空気が入った。
喉が震える。
「……私」
自分の声なのに、自分の声ではないみたいだった。
私の声。
遠い戦場で名前を呼ばれた誰かの声。
どちらでもあって、どちらでもない声。
「私は……」
廊下の向こうで、誰かが悲鳴を上げた。
足音が近づいてくる。
お母さまの声も聞こえた気がした。
でも、そちらを見られなかった。
目の前には宇宙があった。
暗くて、冷たくて、果てしない宇宙。
その中で、白い光を引く人形がひとり、剣を構えている。
私はそれを知っていた。
知らないはずなのに、知っていた。
血の味がした。
涙は出なかった。
ただ、指先だけが小さく動いた。
見えない糸を、引くように。
「マーリン……ロイス……」
その名を口にした瞬間。
私の世界は、静かに暗くなった。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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