ひとりにしない
ご覧いただきありがとうございます。
聞き取りは、思っていたより淡々と行われた。
怒鳴り声はなかった。
泣き声もなかった。
誰かが机を叩くこともなかった。
白い壁の部屋に、端末の薄い光と、記録を取る指先の音だけがあった。
セスナ教官は、いつも通りの顔をしていた。
いつも通りすぎて、少し怖いくらいだった。
「プラット」
「はい、セスナ教官」
「答えられる範囲でいい。事実だけを言え」
事実だけ。
それが難しかった。
事実は、痛い。
テニスコートに連れていかれたこと。
断れなかったこと。
四方からボールを打たれたこと。
当たる場所が、服で隠れる場所ばかりだったこと。
転んだと言うように言われたこと。
シュヴァルベ様には心配をかけるなと言われたこと。
放課後を空けておくように言われたこと。
一つずつ口に出すたび、胸の奥が冷たくなった。
まるで、自分の中にしまい込んでいた小さな石を、机の上に並べていくみたいだった。
石は小さい。
一つずつなら、手のひらに隠せる。
でも、並べると数が見える。
重さが見える。
こんなに持っていたのだと、見えてしまう。
「それは何度あった」
セスナ教官が聞く。
「……数えられるほどでは」
言いかけて、止まる。
少なく言おうとした。
すぐに癖が出る。
「二度、テニスコートに呼ばれました。その前にも、物の位置が変わったり、なくなったりしました」
「誰が関わっていたか、わかる範囲で言え」
名前を出すのは、怖かった。
ルイーゼ様。
侯爵家の令嬢。
シュヴァルベ様の近くにいた人。
取り巻きの令嬢たち。
その名前を口にすれば、もう戻れない気がした。
でも、セスナ教官は待っていた。
急かさない。
責めない。
ただ、待つ。
「ハインケル様と、何人かの令嬢です」
声は小さかった。
それでも、部屋の中に落ちた。
セスナ教官は表情を変えず、記録を取った。
「確認する」
それだけだった。
私は膝の上で手を握った。
痛む腕に力が入らないよう、そっと。
大ごとにしたくない。
そう何度も思った。
けれど、もう私の手では止められなかった。
医務室の記録。
セスナ教官の聞き取り。
ボーイング補助員の訓練記録。
私の動きの変化。
セシリアさんやミリア、トムの証言。
全部が少しずつ繋がっていく。
私は、その真ん中で座っているだけだった。
聞き取りは静かに進んだ。
学園としても、大貴族の令嬢が起こした不始末を大きくしたくはなかったのかもしれない。
そう思った。
でも、静かだからといって、曖昧にされることはなかった。
セスナ教官は、そこだけは一切揺れなかった。
「学園内での暴力行為だ。名目が訓練であっても、許可のない私的な強制訓練は認められない」
「はい」
「爵位は関係ない。侯爵家の令嬢であろうと、大企業に連なる家であろうと、学園内では規則に従う」
その言葉を聞いた時、私は少し驚いた。
爵位は関係ない。
入学の時にも、似た言葉を聞いた。
けれど、実際には身分が消えるわけではないと知っている。
廊下の視線も、食堂の空気も、呼び方も、全部に身分は滲む。
だから、本当に関係ないのかと、どこかで疑っていた。
でも、少なくともセスナ教官は、そこを曲げなかった。
ルイーゼ様たちへの処分は、厳正なものになった。
一定期間の実技訓練参加停止。
個別指導。
学園奉仕活動。
被害生徒への接触制限。
保護者への報告。
行動記録の監督。
表向きには、規律違反による指導措置とされた。
大きく騒がれたわけではない。
掲示板に名が貼り出されることもなかった。
けれど、学園内部の必要な場所には記録が残った。
それは、消えない線のように思えた。
私の方も、しばらく実技訓練の授業は見学になった。
セスナ教官の判断だった。
「痛みを庇った動きが癖になる。しばらく乗るな」
「はい、セスナ教官」
人形に乗らなくていい。
そう思うと、ほっとするはずだった。
実際、少しほっとした。
でも同時に、胸の奥が沈んだ。
また、私のせいで予定が変わる。
シュヴァルベ様との特訓も、しばらく休みになった。
体力強化も、リンク深度の確認も、糖分補給も。
焼き菓子まで休みなのかはわからない。
いや、焼き菓子は訓練ではない。
補給ではある。
でも、今はそれを考えて少しだけ逃げたくなった。
「ローレさん」
医務室の前で、シュヴァルベ様が私を待っていた。
「はい、シュヴァルベ様」
「しばらく、一人にならないようにと言われました」
「はい」
「講義の移動、食堂、訓練棟、寮までの道。可能な限り、誰かが一緒にいます」
誰か。
その中で、主にシュヴァルベ様が傍にいるようになった。
セシリアさんも、ミリアも、トムも、できるだけ一緒にいてくれる。
でも、シュヴァルベ様は特に近くにいた。
近くにいる。
それは安心する。
でも、同時に罪悪感も強くなる。
私のせいで、シュヴァルベ様の時間を奪っている。
シュヴァルベ様は、ルイーゼ様たちを遠ざけるようになった。
以前は、ルイーゼ様や取り巻きの令嬢たちを伴って歩く姿をよく見た。
でも、処分が決まってからは、その姿が減った。
シュヴァルベ様は一人でいるか、私たちといる。
私、セシリアさん、ミリア、トム。
その輪に、シュヴァルベ様がいる。
それはうれしい。
とても。
でも、そのうれしさの下に、冷たいものが沈んでいる。
私が、シュヴァルベ様からルイーゼ様たちを遠ざけたのではないか。
そんな考えが、何度も浮かぶ。
「ローレさん」
シュヴァルベ様が、静かに言った。
「また謝ろうとしていますね」
「え」
「顔に出ています」
顔。
私の顔は、最近よく働きすぎる。
隠してほしいことを隠してくれない。
「すみません」
言った瞬間、シュヴァルベ様の眉が少しだけ下がった。
「それです」
「あ」
また謝った。
自分でも気づいて、口を閉じる。
「……ごめ」
言いかけて、止めた。
危なかった。
謝罪が二段重ねになるところだった。
ミリアに見つかったら、絶対に怒られる。
シュヴァルベ様は、少しだけ息を吐いた。
「ローレさん。あなたが謝ることではありません」
「でも、私が言わなかったから」
「言えないようにされていたのでしょう」
「それでも、もっと早く言えていたら、みんなに迷惑をかけずに」
「迷惑ではありません」
声が、少しだけ強くなった。
私は肩をすくめた。
シュヴァルベ様はそれに気づき、すぐに声を柔らかくした。
「強く言いすぎました」
「いえ」
「けれど、これははっきり言います。あなたが傷つけられたことを、あなたの責任にしてはいけません」
胸が痛い。
その言葉は、正しい。
正しいのに、すぐには入ってこない。
「私は、みんなの負担になっています」
「なっていません」
「ハネダ亭のことも、大会のことも、今回のことも」
「ローレさん」
シュヴァルベ様の声が静かに私を止めた。
「頼ることと、負担になることは同じではありません」
私は答えられなかった。
それは、ずっと難しいところだった。
頼る。
甘える。
迷惑をかける。
重くなる。
その境目が、私にはまだよくわからない。
だから怖い。
「それに」
シュヴァルベ様は少し目を伏せた。
「私にも責任があります」
「シュヴァルベ様に?」
「私が軽率でした」
その言葉に、私は首を振った。
「違います」
「私は、あなたとの距離が変わったことを、周囲がどう見るか十分に考えていませんでした。ルイーゼが何を感じるかも」
「それは、ハインケル様が」
「もちろん、行為そのものの責任はルイーゼたちにあります」
シュヴァルベ様は、そこで言葉を切った。
強く非難する口調ではなかった。
ルイーゼ様をかばっているようにも聞こえなかった。
ただ、事実を分けている。
「ですが、私は自分の立場が周囲に与える影響をもっと考えるべきでした」
「そんな」
言いかけた時、後ろから声がした。
「それ、違うと思います」
ミリアだった。
廊下の角から、セシリアさんとトムも来ていた。
どうやら少し前から聞こえていたらしい。
ミリアの顔は、かなり怒っている。
私にではない。
たぶん。
「ユンカース様が自分の立場を考えるのは大事だと思います。でも、だからって、ハインケル様たちがローレにしたことまで背負うのは違います」
「サーブさん」
シュヴァルベ様が名前を呼ぶ。
ミリアは少し背筋を伸ばした。
でも、引かなかった。
「失礼なのは承知で言います。ローレもユンカース様も、責任を自分のところへ引っ張りすぎです」
「それな」
トムが続く。
「悪いのは、やった側です。ローレが言えなかったのは、言えないように追い込まれてたからだし、ユンカース様が近くにいたからって、ボールぶつけていい理由にはならないです」
トムの言葉は少しまっすぐすぎる。
でも、そのまっすぐさが胸に響いた。
セシリアさんは静かに私たちを見て、それからシュヴァルベ様へ視線を向けた。
「ユンカース様のお気持ちは、少しわかります」
「ヒースローさん」
「ご自身の立場や影響を振り返ることは、大切だと思います。ですが、それと、今回の責任を負うことは別です」
セシリアさんの声は穏やかだった。
柔らかいけれど、芯がある。
「ローレさんも、ユンカース様も、ご自身を責める方向へ進みすぎないでください」
私は唇を噛みそうになって、やめた。
叱られている。
でも、温かい。
変な感じだ。
「ローレ」
ミリアが私の前に立つ。
「もう一回言うけど、ローレは悪くない」
「でも」
「でもは禁止」
「はい」
反射で返事をしてしまった。
ミリアは頷く。
「よろしい」
トムが笑いそうになって、すぐに真面目な顔に戻した。
「俺も気づくの遅かった。歩き方おかしいなとは思ったけど、筋肉痛かなって流した。そこは悪かった」
「トムは悪くないです」
「じゃあローレも悪くないな」
「それは」
「同じ理屈だろ」
同じなのだろうか。
よくわからない。
でも、トムは強引に笑った。
その強引さに、少し救われる。
「ローレさん」
セシリアさんがそっと言った。
「しばらくは、一人にならないようにしましょう。私もできる限り一緒にいます」
「私も」
ミリアが言う。
「トムも」
「おう。荷物持ちでも何でもする」
「荷物持ちは、今はローレの鞄じゃなくて、ローレの逃げ癖ね」
「逃げ癖って持てるのか?」
「持つの」
二人のやり取りに、少しだけ空気が緩んだ。
私は笑いそうになった。
笑うと脇腹が少し痛む。
でも、痛みごと少しだけ笑えた。
シュヴァルベ様も、ほんの少し表情を緩めた。
「では、皆でローレさんを一人にしないようにしましょう」
「はい、ユンカース様」
セシリアさんが頷く。
「任せてください、ユンカース様」
ミリアも頷く。
「了解です、ユンカース様」
トムも少し背筋を伸ばした。
私は、みんなを見た。
胸が熱くなる。
でも、同時に申し訳なさも消えない。
完全には受け取れない。
でも、拒むこともできなかった。
拒みたくもなかった。
「ありがとうございます」
私は小さく言った。
「ちゃんと、言えるようにします。すぐには無理かもしれません。でも、隠さないように、します」
ミリアが少しだけ笑った。
「一歩進んだ」
「一歩ですか」
「大事な一歩」
それなら、いいのかもしれない。
一歩だけでも。
ハネダ亭へ行くと、女将さんにすぐ見抜かれた。
店に入った瞬間だった。
「ローレ」
「はい、女将さん」
「こっち」
短い。
かなり短い。
私は大将を見る。
大将は鍋の前に立ったまま、こちらを見ていた。
顔がいつもより少し怖い。
怒っている。
でも、私に怒っているのではないと、なぜかすぐわかった。
奥の休憩用の椅子に座らされる。
女将さんは、私の顔をじっと見た。
「何をしまい込んでた」
胸が痛む。
「……言えませんでした」
「うん」
「ごめんなさい」
女将さんの眉が上がる。
「謝るところじゃない」
「はい」
「けど、叱るところではある」
私は背筋を伸ばしかけた。
「伸ばさなくていい。痛むんだろ」
止められた。
女将さんは深く息を吐いた。
「ローレ。胸の内にしまい込んで、誰にも言わずに済ませようとするのは、いい子じゃないよ」
いい子。
その言葉が、胸に刺さる。
私はずっと、いい子でいようとしていた。
迷惑をかけない子。
役に立つ子。
痛くても笑える子。
「言わなきゃ、助けられない。気づけなかった方も悔しい。でも、言ってくれなきゃ届かないこともある」
「はい」
「うちでも同じだよ。手を火傷した時も言っただろ。皿より手が大事。店より、ローレの身体が大事」
「でも、バイトが」
「休み」
即答だった。
「身体が良くなるまで、休み」
「でも、人手が」
「足りなければ、あんたがいなくても回す」
大将が奥から言った。
「うちは店だ。ローレちゃんを壊して回すような店じゃない」
喉が詰まった。
「私は、働きたいです」
「ありがたいよ」
女将さんの声は優しかった。
「でも、今は休むのが仕事」
休むのが仕事。
それは難しい仕事だった。
でも、女将さんの顔を見ると、逆らえなかった。
「わかりました」
「よろしい」
女将さんは、お茶を出してくれた。
それから、小さな器に柔らかい煮物を少し。
「まかないじゃないよ。見舞い」
「見舞い」
「そう。だから食べる」
「はい」
柔らかくて温かかった。
うまうま、とは声に出さなかった。
でも、女将さんが少し笑ったので、たぶん顔に出ていた。
それ以来、ルイーゼ様からのいじめはなくなった。
少なくとも、私に直接向けられることはなくなった。
物がなくなることもなくなった。
テニスコートに呼び出されることもない。
廊下で顔を合わせることはある。
挨拶もする。
「ごきげんよう、ハインケル様」
「ごきげんよう、プラットさん」
それだけ。
ルイーゼ様は必要以上に近づかない。
声もかけない。
取り巻きの令嬢たちも、距離を置くようになった。
学園の処分が効いているのだと思う。
シュヴァルベ様が取り巻きを連れなくなったことも大きいのだと思う。
その代わり、シュヴァルベ様は私たちと過ごす時間が増えた。
食堂で一緒に座ることもある。
講義の移動で隣になることもある。
セシリアさんは最初少し緊張していたけれど、だんだん自然に話すようになった。
ミリアはシュヴァルベ様相手でも、必要なことは言う。
トムは少し背筋が伸びるけれど、すぐいつもの調子に戻る。
私は、その輪の中にいる。
変な感じだ。
男爵家の私。
伯爵家のセシリアさん。
選抜生のミリアとトム。
侯爵家のシュヴァルベ様。
身分は違う。
立場も違う。
それでも、同じ机に座って、同じ食事をして、同じように次の講義の話をする。
完全に安心したわけではない。
まだ、廊下で一人になると胸がざわつく。
テニスボールの音に似た音を聞くと、体が少し固まる。
痛みは少しずつ引いているけれど、痣はすぐには消えない。
服の下にある色が、私だけにわかる。
でも、一人で隠していた時とは違う。
痛い場所を知っている人がいる。
大丈夫ではないと知ってくれている人がいる。
それだけで、少し呼吸がしやすかった。
「ローレさん」
食堂で、シュヴァルベ様が私を見る。
「痛みはどうですか」
「少し良くなりました」
「少し、ですか」
「はい。少しです」
正直に言うと、シュヴァルベ様は頷いた。
「よろしいです」
よろしい。
少し前なら、大丈夫ですと答えていた。
痛くありません、と笑っていた。
今も、言いたくなる。
でも、言わずに済んだ。
それをセシリアさんが静かに見て、ミリアが満足そうに頷き、トムがなぜか得意そうな顔をした。
「トム、なんで得意げなの」
「いや、ローレがちゃんと言えたから」
「トムの手柄じゃない」
「そこは気持ちの問題だろ」
ミリアが呆れた顔をする。
私は少し笑った。
脇腹はもう、笑っても強く痛まない。
それがうれしかった。
ただ、終わったわけではない。
それは、私にもわかっていた。
ルイーゼ様とは、顔を合わせる。
挨拶もする。
表面上は何もない。
でも、時々感じる視線がある。
遠くから。
ほんの一瞬だけ。
美しく整った顔の奥に、何かが残っている。
怒りなのか、悔しさなのか、別の何かなのかはわからない。
ルイーゼ様はもう近づかない。
声もかけない。
でも、完全に消えたわけではない。
そのことが、胸の隅に小さく残る。
それでも、今は。
私は目の前の温かい食事を見た。
隣にはセシリアさんがいて、向かいにはミリアとトムがいる。
少し離れた席ではなく、同じ机にシュヴァルベ様がいる。
大将と女将さんは、休むように叱ってくれた。
セスナ教官は、私が小さく見せようとした痛みを、小さく扱わなかった。
守られることは、まだ怖い。
頼ることも、まだ下手だ。
でも、差し出された温かさを全部押し返すほど、私はもう強くない。
いや、前から強くなかったのかもしれない。
ただ、弱さを見ないふりしていただけで。
「ローレ」
ミリアが言う。
「食べてる?」
「食べています」
「量は?」
「普通です」
「ローレの普通は少ない」
「では、少し普通より多めに食べます」
トムが笑った。
セシリアさんも小さく笑う。
シュヴァルベ様の口元も、ほんの少し緩んだ。
その光景が、胸にゆっくり染み込む。
痛みはまだある。
怖さもある。
罪悪感も、完全には消えない。
でも、それだけではなかった。
周りから向けられる優しさと温かさが、少しずつ、痣のない場所から私を包んでいく。
私はそれを、今度こそ全部なかったことにはしないでいたかった。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
面白いと思っていただけましたら、評価、ブックマークをお願いいたします。
励みになります!




