テニスコート
ご覧いただきありがとうございます。
暴力的な内容となっております、苦手な方はご注意ください。
ハネダ亭へ向かう日は、少しだけ足が軽くなる。
講義が終わって、訓練がない時間。
制服を整えて、寮へ戻る前に外出許可を確認して、それから王都へ出る。
まだ道は完全には覚えきれていない。
それでも、最初の頃よりは迷わなくなった。
大将の声。
女将さんの手。
まかないの湯気。
少し古い暖簾。
それを思い出すと、胸の奥が温かくなる。
だから、廊下でルイーゼ様の姿を見た時、その温かさはすぐに小さくなった。
廊下の先。
大きな窓から光が入る場所。
ルイーゼ様は、数人の令嬢と一緒に立っていた。
姿勢は美しい。
髪も制服も乱れていない。
周りにいる令嬢たちも、礼儀正しく整っている。
外から見れば、ただの高位貴族の令嬢たちの集まりだと思う。
けれど、私の足は勝手に止まりかけた。
呼吸が少し浅くなる。
指先が冷たい。
視界は狭くない。
大丈夫。
そう言いかけて、止める。
大丈夫ではない。
でも、ここで立ち止まるわけにもいかない。
私は小さく息を吐いて、礼をした。
「ごきげんよう、ハインケル様」
「ごきげんよう、プラットさん」
ルイーゼ様は、いつものように美しく微笑んだ。
「お急ぎかしら」
「ハネダ亭へ向かう予定があります」
言えた。
予定がある。
それは本当だ。
私は働きに行く。
遊びではない。
必要なことだ。
「そう」
ルイーゼ様は、少しだけ首を傾けた。
「ですが、その前に少しお付き合いいただけないかしら」
胸の奥が冷える。
「申し訳ありません。外出許可の時間が」
「長くはかかりませんわ」
柔らかい声。
でも、逃げ道を塞ぐ声。
「王都記念杯で優勝なさった方ですもの。少し、身体を動かすくらい問題ありませんでしょう」
周囲の令嬢たちが、静かにこちらを見る。
笑ってはいない。
けれど、目の端だけが少し楽しそうだった。
「一緒にテニスでもどうかしら」
テニス。
私は一瞬、意味をうまく受け取れなかった。
講義。
訓練。
ハネダ亭。
その流れの中に、突然テニスが入ってきた。
「私、あまり経験がありません」
「だからこそ、練習になりますわ」
「ですが」
「体力強化にもよろしいでしょう。シュヴァルベ様とも、特別に訓練なさっているのですもの」
その名前が出た瞬間、胸がきゅっとなった。
シュヴァルベ様。
名前で呼べるようになった、大切な人。
そして、ルイーゼ様が一番鋭く反応する人。
「それに、これはあなたのためでもありますわ」
ルイーゼ様の声は、あくまで優しい。
「王都記念杯の優勝者が、基礎体力で遅れを取るのは不名誉でしょう?」
断りたい。
ハネダ亭に行かないと。
大将と女将さんが待っている。
でも、ここで強く断ればどうなるのか。
ルイーゼ様は侯爵家令嬢。
周囲には取り巻きの令嬢たち。
私は男爵家の令嬢。
そして今、ルイーゼ様が言っていることは、表面上は親切だ。
体力強化。
練習。
お誘い。
私が拒めば、角が立つ。
それがわかる。
わかってしまう。
「少しだけ、でしたら」
私はそう言った。
声は、思ったより小さかった。
ルイーゼ様は満足そうに微笑んだ。
「ええ。少しだけですわ」
連れてこられたのは、学園のテニスコートだった。
運動区画の端にある、少し奥まった場所。
外側からは見えにくい。
人気も少ない。
大きなコートは何面かあったけれど、ルイーゼ様たちは一番奥のコートへ向かった。
そこは、周囲を低い壁と植え込みで囲まれている。
声を上げれば、届くかもしれない。
でも、届かないかもしれない。
そういう場所だった。
私はラケットを渡された。
持ち慣れない重さ。
人形のインタフェースとは全然違う。
細い魔力の糸もない。
ただ、自分の腕と脚だけで動かなければならない。
それがすでに不安だった。
「プラットさん」
ルイーゼ様がコートの反対側に立つ。
取り巻きの令嬢たちは、私を囲むように左右と後方へ散った。
一緒に練習する形。
でも、逃げ道がない形にも見えた。
「王都記念杯で見せた反応速度を、ぜひ拝見したいですわ」
「私は、人形での操作と、生身の運動は」
「言い訳は不要ですわ」
柔らかい声のまま、言葉だけが切る。
「始めましょう」
最初のボールは、普通だった。
やや速いけれど、正面。
私は慌ててラケットを振る。
当たる。
変な方向へ飛ぶ。
令嬢たちが小さく笑った。
「まあ」
「かわいらしい打ち方ですこと」
顔が熱くなる。
でも、これはまだ、ただの下手なテニスだ。
私は初心者。
笑われても仕方ない。
そう思おうとした。
次のボールは、少し右へ飛んできた。
私は走る。
追いつく。
ラケットに当てる。
今度はネットにかかった。
「もう少し足を動かしませんと」
ルイーゼ様が言う。
「はい」
三球目は左。
四球目は後ろ寄り。
五球目は前。
走る。
止まる。
戻る。
また走る。
息が乱れる。
訓練で少しは体力がついたはずなのに、急に方向を変える動きはきつい。
足が重い。
膝が笑う。
また膝が笑っている。
笑う余裕があるなら働いてほしい。
私は息を整えようとした。
でも、ボールは次々に来る。
「プラットさん、遅いですわ」
「王都記念杯の動きは、機体が優れていたからかしら」
「ユンカース様の指示がなければ、こんなものなのですね」
言葉が飛んでくる。
ボールも飛んでくる。
どちらを避ければいいのかわからない。
正面。
右。
左。
前。
後ろ。
大きく動かなければ届かない位置へ、わざと打たれている。
わかる。
わかるけれど、どうにもできない。
「頑張ってくださいませ」
「訓練ですもの」
「体力強化にはちょうどよろしいでしょう?」
表向きは、練習。
訓練。
実際は違う。
これは、私を走らせるためのものだ。
疲れさせるためのものだ。
でも、私はやめてくださいと言えない。
相手は高位貴族で、人数も多い。
私は一人。
それに、これはテニスの形をしている。
ボールを打ち返せなかっただけ。
転んだだけ。
疲れただけ。
言い訳はいくらでも向こうにある。
私の方には、声がない。
私は走った。
息が苦しい。
胸が痛い。
足が重い。
ラケットを振る腕がだんだん上がらなくなる。
ボールが見えているのに、身体が追いつかない。
人形なら動ける。
指先なら、糸なら、もっと細く、速く。
でも、ここにあるのは私の身体だけ。
ローレッタの身体。
体力がなくて、すぐ息が上がって、無理をすると壊れそうになる身体。
「プラットさん、足が止まっていますわ」
ルイーゼ様の声。
「は、い」
返事をしたつもりだった。
声になったかはわからない。
次のボールが右へ来る。
避けようとした。
けれど、足が思ったように動かなかった。
ボールが二の腕に当たる。
ぱしん、と乾いた音がした。
痛い。
声は出さなかった。
服で隠れる場所。
袖の下。
見えにくいところ。
偶然かと思った。
次は太ももに当たった。
その次は背中。
全部、顔ではない。
手首でもない。
目立つ場所ではない。
服で隠れる場所。
狙っている。
そう気づいた瞬間、体の中が冷えた。
「プラットさん、避けてばかりでは練習になりませんわ」
取り巻きの一人が笑う。
「打ち返してくださいませ」
「はい」
私はラケットを持ち直した。
腕が痛い。
太ももが熱い。
背中がじんとする。
赤くなっているかもしれない。
でも、見えない。
見えないなら、なかったことにできる。
いや、できない。
痛い。
でも、声を出したら負ける気がした。
負けるとは何にだろう。
わからない。
でも、私はまた笑った。
「すみません、下手で」
笑うと、ルイーゼ様の目が少しだけ冷たくなった。
「下手なのは構いませんわ」
ルイーゼ様がゆっくりボールを構える。
「身の程を知らない方が問題なのです」
ボールが飛んできた。
速い。
脇腹。
避けようとした。
足が滑った。
ラケットは間に合わない。
ボールが脇腹に当たった。
息が止まる。
「っ」
声が出た。
短い、変な声。
膝が落ちる。
コートに片膝をついた。
ラケットが少し床を擦る。
痛い。
脇腹が熱い。
息が吸いにくい。
大丈夫。
違う。
大丈夫ではない。
でも、ここで大丈夫ではないと言ったらどうなるのか。
「プラットさん」
ルイーゼ様の声が上から降ってくる。
「お休みになるの?」
私は顔を上げた。
ルイーゼ様は微笑んでいる。
取り巻きの令嬢たちも、少し離れた場所でこちらを見ている。
誰も手を貸さない。
「立てます」
私は言った。
「そう。では、立ちなさい」
立つ。
足に力を入れる。
脇腹が痛む。
息をゆっくり吸う。
痛い。
でも立てる。
まだ立てる。
私は立ち上がった。
ラケットを持ち直す。
手が少し震えている。
「続けられますか」
ルイーゼ様が聞く。
答えは一つしかない。
「はい」
言ってしまった。
言わされたのかもしれない。
自分で言ったのかもしれない。
どちらでも、結果は同じだった。
ボールはまた飛んできた。
今度は少し遅くなった。
でも、私はもう大きく動けなかった。
届かない。
当たる。
避ける。
少し打ち返す。
また当たる。
太もも。
背中。
二の腕。
全部、服で隠れる場所。
痛みはある。
でも、骨が折れるほどではない。
血が出るほどでもない。
赤くなる程度。
打ち身になる程度。
加減されている。
その加減が、逆に怖かった。
偶然ではなく、わかってやっている。
見えない程度に。
言い逃れできる程度に。
「もうよろしいでしょう」
ルイーゼ様がラケットを下ろした時、私は息を切らしていた。
立っているのがやっとだった。
「良い訓練になりましたわね」
「はい」
私は頭を下げた。
「ありがとうございました」
その言葉は、自分でも薄く感じた。
ありがとう。
何に。
痛みに。
逃げられなかったことに。
服で隠れる場所を狙われたことに。
でも、礼を言うしかなかった。
立場が違う。
人数が違う。
ここで怒れば、もっと悪くなる。
そう思ってしまう。
「プラットさん」
ルイーゼ様が近づく。
距離は近すぎない。
礼儀の範囲内。
でも、逃げ場はない。
「念のため申し上げておきますけれど、これは訓練ですわ」
「はい」
「もし、どなたかに聞かれたなら、慣れないテニスで転んだとお答えなさい」
「……はい」
「特に、シュヴァルベ様には余計なご心配をかけないように」
胸が冷えた。
シュヴァルベ様。
その名前だけで、脇腹の痛みより深いところが縮む。
「あなたは、これ以上あの方の負担になりたくないでしょう?」
声は優しい。
でも、確実に刺してくる。
負担。
それは、前にも言われた言葉だ。
シュヴァルベ様に近づくことで、私が負担になる。
頼ることで、甘えることで、私が重くなる。
「はい」
私は答えた。
言わない。
シュヴァルベ様には言えない。
言ったら、また心配させる。
また守らせてしまう。
また、私のことでシュヴァルベ様の時間を奪う。
「賢明ですわ」
ルイーゼ様は微笑んだ。
「しばらく、放課後は空けておきなさい。あなたには、もう少し体力をつけていただく必要がありますもの」
しばらく。
放課後。
ハネダ亭。
胸がぎゅっとなる。
「ハネダ亭の仕事が」
「調整なさい」
短い言葉だった。
「王都記念杯で優勝した方ですもの。それくらいできるでしょう」
私は返事ができなかった。
大将。
女将さん。
約束した勤務時間。
外出許可。
お店の人手。
でも、ここで断れない。
断れる材料が、自分の中にない。
「返事は」
「……はい」
声がやっと出た。
「よろしい」
ルイーゼ様は、取り巻きの令嬢たちへ目を向けた。
「では、戻りましょう」
「あら、片付けは?」
一人が言った。
ルイーゼ様は私を見る。
「プラットさんがしてくださるでしょう。練習にお付き合いしたのですもの」
「はい。片付けます」
私はまた頭を下げた。
ルイーゼ様たちは、優雅にコートを出ていった。
足音が遠ざかる。
甘い香水の匂いが残る。
それも少しずつ薄れていく。
コートには、私一人が残った。
片付けは、思ったより時間がかかった。
散らばったボールを拾う。
ラケットを戻す。
ネット周りを確認する。
動くたびに、二の腕が痛む。
太ももが熱い。
背中が突っ張る。
脇腹は、息を深く吸うと痛い。
でも、動ける。
骨は折れていない。
血も出ていない。
赤くなっているだけ。
たぶん。
服で隠れる。
見えない。
なら、大丈夫。
私はボールを一つ拾った。
指先が少し震える。
「大丈夫」
小さく言った。
言ってから、また止める。
大丈夫ではない。
でも、ここには誰もいない。
誰もいない場所で大丈夫ではないと言っても、何も変わらない。
だから、もう一度言った。
「まだ、大丈夫」
今度は、少しだけ違う。
自分を騙す言葉。
自分を立たせる言葉。
私は、それを知っている。
プラット家でずっと使っていた。
怪我をしても、怖くても、寂しくても。
大丈夫。
役に立てる。
まだ壊れていない。
まだ使える。
その言葉が、体の奥から出てくる。
本来の性質、というなら、きっとこれだ。
人に迷惑をかけないようにする。
自分の痛みを軽く扱う。
助けを求める前に、自分の中へしまう。
最近、少し変われたと思っていた。
セシリアさんに相談できた。
ミリアに止めてもらえた。
トムに助けてもらえた。
シュヴァルベ様を頼れた。
でも、一人に戻ると、簡単に昔の形へ戻ってしまう。
それが悔しい。
でも、悔しいと思う余裕もあまりなかった。
私はボールを籠に入れる。
一つ。
また一つ。
最後の一つを拾った時、脇腹がずきりとした。
息を止める。
ゆっくり吐く。
呼吸は浅い。
視界は狭くない。
指先は冷たい。
痛みはある。
申告するなら、そう言うのだろう。
でも、誰に。
ボーイング補助員。
セスナ教官。
ミリア。
セシリアさん。
トム。
シュヴァルベ様。
顔が順番に浮かんで、私は首を振った。
言えない。
特に、シュヴァルベ様には。
余計な心配をかけないように。
負担になりたくないでしょう。
ルイーゼ様の声が、胸の中で繰り返される。
言葉は、ボールより長く痛む。
私は片付けを終えて、コートを出た。
歩くたび、太ももが少し痛い。
それでも、歩ける。
ハネダ亭へは遅れる。
どう説明しよう。
転びました。
そう言うしかない。
慣れない運動で、少し転びました。
大将と女将さんは気づくだろうか。
女将さんは、きっと顔を見る。
大将は、まかないを増やそうとする。
そこで大丈夫ですと言ったら怒られる。
でも、本当のことは言えない。
どうすればいいのか、わからなかった。
それからも、小さなことは続いた。
資料端末の位置が変わる。
ロッカーの中の髪留めが見当たらなくなる。
訓練用の手袋が片方だけ奥へ押し込まれている。
講義室で席に戻ると、置いていたはずの筆記具が床に落ちている。
一つ一つは、小さい。
偶然と言える。
自分の不注意だと言える。
大騒ぎするほどではない。
でも、積み重なると、足元が少しずつ削られる。
誰かに言えばいい。
そう思う。
でも、言葉が喉まで来て止まる。
証拠はない。
大したことではない。
私がうまく管理していればいい。
大丈夫。
まだ、大丈夫。
そう思うたび、胸の奥に小さな石が増えていく。
誰にも言わない石。
一つずつなら軽い。
でも、増えれば重くなる。
それを私は知っているはずだった。
それでも、私は抱え直してしまう。
ハネダ亭へ向かう廊下で、足が少しだけ重かった。
太ももの赤みは服で隠れる。
二の腕も、背中も、脇腹も。
見えない。
見えないものは、誰にも知られない。
知られなければ、心配をかけない。
そう思おうとした。
けれど、胸の奥で、シュヴァルベ様の声が小さく響いた。
ローレさん。
頼ってください。
私は立ち止まりそうになる。
でも、歩いた。
言えない。
まだ言えない。
大丈夫。
まだ、大丈夫。
その言葉を胸の奥に押し込んで、私はハネダ亭の明かりへ向かった。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
面白いと思っていただけましたら、評価、ブックマークをお願いいたします。
励みになります!




