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身の程

ご覧いただきありがとうございます。

シュヴァルベ様との交流は、少しずつ増えていた。


大会が終わってからも、特訓は続いている。


基礎体力。


姿勢維持。


呼吸。


魔力流量の確認。


リンク深度を上げすぎない訓練。


それから、訓練後の水分補給と糖分補給。


焼き菓子は訓練内容に含まれるのか、いまだに少し疑問だけれど、シュヴァルベ様が補給だと言うなら補給である。


補給は大事。


かなり大事。


私はそういうところは素直に受け入れたい。


そして、呼び方も変わった。


私はシュヴァルベ様を、シュヴァルベ様と呼ぶ。


前はユンカース様だった。


家名ではなく、名前。


たったそれだけなのに、口にするたび少し緊張する。


でも、嫌ではなかった。


むしろ、胸の奥が少し温かくなる。


シュヴァルベ様は、私をローレさんと呼ぶようになった。


最初にそう呼ばれた時は、耳の奥が熱くなった。


今も少し熱くなる。


慣れない。


慣れないけれど、うれしい。


うれしいけれど、怖い。


近づくと、失うのも怖くなる。


それでも、もう遠くに戻したいとは思えなかった。


ただ、私がそう思うのと、周りがそれをどう見るかは別だった。


視線は、増えていた。


王都記念杯で優勝してから、私は以前よりも見られるようになった。


男爵家の令嬢。


聞いたことのない小さな星系の名前。


それなのに、筆頭侯爵家の令嬢と組み、公開大会で優勝した。


そういうものは、人の目を引くらしい。


私は引きたくない。


全然引きたくない。


でも、視線は勝手に引かれてくる。


困る。


目立ちたくない人間にとって、注目は雨漏りに似ている。


止めたいのに、気づいた時にはぽたぽた落ちてくる。


そして、濡れるのはだいたい自分だ。


視線の中には、悪くないものもあるとセシリアさんは言った。


認める視線もあります、と。


たしかに、前よりもあからさまに見下すような視線は減った気がする。


でも、代わりに別の種類の視線が増えた。


探る目。


測る目。


期待する目。


そして、面白くないものを見る目。


その中で、一番冷たいものを向けてくるのは、ルイーゼ様だった。


表面上は、いつも美しい。


姿勢も、表情も、言葉遣いも、完璧に整っている。


侯爵家令嬢らしい優雅さ。


シュヴァルベ様の隣に立つ姿は、絵のようだった。


けれど、私へ向けられる目だけが違う。


冷たい。


鋭い。


間違えたら切れる薄い刃みたいな目。


シュヴァルベ様がいる場所では、ルイーゼ様は強く言わない。


むしろ、礼儀正しい。


「プラットさん、ごきげんよう」


そう言われれば、私は礼を返すしかない。


「ごきげんよう、ハインケル様」


そのやり取りだけなら、何の問題もない。


でも、目が言う。


あなたはそこにいるべきではない。


あなたは近づきすぎている。


あなたは、身の程を忘れている。


声に出されなくても、わかる。


たぶん私は、そういう目を読むのが得意になってしまっている。


あまり得意になりたくない種類の技能だった。



講義の合間、私は少し遅れて廊下を歩いていた。


セシリアさん、ミリア、トムは先に行っている。


シュヴァルベ様も、セスナ教官に呼ばれて別の確認に向かった。


私は端末に入っていた資料を確認しながら歩いていたせいで、少しだけ出遅れた。


少しだけ。


本当に少しだけ。


でも、その少しが良くなかった。


廊下の角を曲がったところで、前方にルイーゼ様がいた。


その周りには、同じクラスの令嬢が数人。


取り巻き、と心の中で言うのは少し失礼かもしれない。


でも、ルイーゼ様を中心にきれいに並んでいる姿を見ると、ほかの言葉が浮かばなかった。


私は足を止めた。


引き返そうかと思った。


でも、後ろからも別の生徒たちが来ている。


横に逃げる道はない。


完全に、通路である。


通路は通るための場所なのに、こういう時は逃げ道を奪う壁にもなる。


「プラットさん」


ルイーゼ様が、きれいに微笑んだ。


「ごきげんよう」


「ごきげんよう、ハインケル様」


私は礼をした。


声は震えていない。


たぶん。


少しは震えていたかもしれない。


「お急ぎかしら」


「いえ、次の講義室へ向かうところです」


「そう」


ルイーゼ様はゆっくり私を見る。


頭から足元まで。


礼儀として失礼にならない程度の視線。


けれど、値踏みされている感じがした。


「王都記念杯以降、ずいぶんお忙しそうですわね」


「いえ、そのようなことは」


「ご謙遜なさらなくてもよろしいのよ。優勝なさったのですもの。皆、あなたに注目しているでしょう」


注目。


その言葉で、胸が少し縮む。


「少し、慣れません」


正直に答えた。


すると、取り巻きの令嬢の一人が小さく笑った。


「慣れないでしょうね」


その声に、別の令嬢が続く。


「男爵家の方が、急にあのような舞台に立たれたのですもの」


笑い声は大きくない。


誰かに咎められるほどではない。


でも、私には聞こえる。


ちゃんと刺さる大きさだった。


「プラットさん」


ルイーゼ様の声は柔らかい。


「ご自分の立場は、理解していらっしゃる?」


「はい」


反射で答えた。


「そう。なら安心ですわ」


安心している声ではなかった。


「シュヴァルベ様は、王国を背負うお立場の方です。ユンカース侯爵家の令嬢であり、将来を期待される人形使いでもあります」


「はい」


「その隣に立つということが、どういう意味を持つか。あなたはおわかりかしら」


喉が少し乾く。


私は手を握りそうになって、指を開いた。


握りすぎると、肩も固くなる。


シュヴァルベ様に言われたことを思い出す。


呼吸。


吐く。


吸う。


でも、ここにはシュヴァルベ様の声はない。


自分でやるしかない。


「大会では、バディとしてご一緒しました」


「ええ。大会では、ですわ」


ルイーゼ様は微笑む。


「ですが、それが終わった後も、ずいぶん親しくなさっているように見えます」


胸が跳ねた。


呼び方。


シュヴァルベ様。


ローレさん。


そこを見られている。


「訓練の一環です」


私は答えた。


それは嘘ではない。


「基礎体力と、リンク深度の確認を続けるように指示されています」


「訓練」


ルイーゼ様はその言葉を、そっと指先でつまむように繰り返した。


「便利な言葉ですわね」


取り巻きの令嬢たちが、また小さく笑う。


「訓練という名目なら、侯爵家の令嬢に特別に見ていただける」


「優勝したから、ということでしょうか」


「ずいぶん幸運な方ですわ」


幸運。


私はその言葉に、少しだけ息が詰まった。


幸運だったのだろうか。


シュヴァルベ様に出会えたことは、たしかに幸運だ。


セシリアさん、ミリア、トムに出会えたことも。


ハネダ亭で働けたことも。


でも、王都記念杯は怖かった。


人形戦は怖かった。


模擬戦で、私は戻れなくなりかけた。


それを幸運と言われると、何かが胸の中でねじれる。


でも、言えない。


「はい。私は、恵まれています」


結局、そう言った。


笑った。


いつものように。


困った時は笑う。


父の前でも。


母の前でも。


姉たちの前でも。


使ってきた顔。


相手を怒らせない顔。


自分の痛みを軽く見せる顔。


ルイーゼ様の目が、ほんの少し細くなる。


「そういうところですわ」


「え?」


「何もわかっていない顔をなさるところ」


声は美しい。


でも、胸の奥を切ってくる。


「プラットさん。あなたは男爵家の令嬢です。しかも、王都ではほとんど名を知られていない家の方。王立宇宙軍士官学園にいる以上、身分だけで全てが決まるわけではない。セスナ教官もそう仰いますわね」


「はい」


「けれど、身分が消えるわけではありません」


その言葉は、父の声に似ていた。


身の程を弁えろ。


王都で目立つな。


余計なことをするな。


胸の奥で、古い屋敷の空気が少しだけ蘇る。


湿った廊下。


古い階段。


茶色く染めた髪。


「シュヴァルベ様のお名前を、気安く呼ぶことも」


ルイーゼ様は、少しだけ声を落とした。


「隣に並ぶことも」


言葉の一つ一つが、ゆっくり置かれる。


「周囲から見れば、あなたの家がユンカース家に取り入ろうとしているようにも見えますわ」


「そんなつもりはありません」


思わず言った。


声が、少しだけ強くなった。


自分でも驚く。


取り巻きの令嬢たちも、少しだけ目を見開いた。


ルイーゼ様は微笑んだままだった。


「つもりの問題ではありません。見え方の問題です」


見え方。


またそれだ。


私がどう思っているかではなく。


周りがどう見るか。


父も、母も、そうだった。


白い髪は家族と違って見えるから染めなさい。


余計なことを言うと面倒だから笑いなさい。


役に立つ時まで、大人しくしていなさい。


見え方。


身の程。


分不相応。


それらが私の周りに古い布のようにまとわりつく。


「王都記念杯の件も、そうです」


ルイーゼ様は続ける。


「優勝そのものは、見事でしたわ。ええ、本当に」


褒め言葉のはずなのに、背中が冷える。


「ですが、あの大会で最も見られていたのは、シュヴァルベ様です。ユンカース侯爵家の令嬢が、どなたと組むのか。どのように導くのか。そこに注目が集まっていました」


「……はい」


「あなたの動きが評価されたことも事実でしょう。でも、それがすべてあなたの力だと勘違いしてはなりません」


わかっている。


私は、一人で勝ったわけではない。


シュヴァルベ様がいたから勝てた。


戻れた。


一人では戻れなかった。


だから、そこは痛くないはずだった。


でも、ルイーゼ様の言葉は違うところへ刺さった。


あなた自身に価値があると思うな。


そう言われている気がした。


「わかっています」


私は笑った。


「私は、シュヴァルベ様に助けていただきました」


その名前を口にした瞬間、ルイーゼ様の微笑みが少しだけ固くなった。


「その呼び方ですわ」


心臓が跳ねた。


「シュヴァルベ様がお許しになったのかもしれません。けれど、許されたからといって、どこまでも近づいてよいわけではありません」


「……はい」


「あなたは、シュヴァルベ様の特別になったつもりかしら」


息が止まりかけた。


特別。


そんなふうに思ったことはない。


いや、少しだけ、思ってしまったのだろうか。


ローレさんと呼ばれて、うれしかった。


シュヴァルベ様と名前で呼べて、温かかった。


大会で声を聞いて戻れた。


その積み重ねを、大切だと思った。


でも、それを特別と言われると、急に怖くなる。


私が思い上がっているように聞こえる。


身の程を忘れているように聞こえる。


「そんなつもりは」


「では、距離をお考えなさい」


ルイーゼ様の声は、静かだった。


「侯爵家の令嬢と男爵家の令嬢。立場が違います。背負うものも、見られ方も違う。あなたが軽く近づくことで、シュヴァルベ様に余計な負担がかかることもあるのです」


余計な負担。


その言葉は、深く刺さった。


シュヴァルベ様に。


私が。


負担を。


大会へ誘ったのも私だ。


ハネダ亭のことで頼ったのも私だ。


特訓を続けてもらっているのも私だ。


名前で呼んでほしいと言ったのも、私だ。


私ばかり、お願いしている。


シュヴァルベ様は受け入れてくれた。


でも、受け入れてくれたからといって、負担ではないとは限らない。


「あなたは、よく周囲に守られていますわね」


ルイーゼ様の声が、さらに柔らかくなる。


「ヒースローさん、グラマンさん、サーブさん。ハネダ亭の方々。そして、シュヴァルベ様」


私は笑っている。


笑っているはずなのに、頬が少し引きつる。


「守られることに慣れすぎると、自分の重さに気づけなくなりますわ」


自分の重さ。


私は、重いのだろうか。


誰かにとって。


シュヴァルベ様にとって。


みんなにとって。


「私は……」


声が出かけて、止まった。


何を言えばいいのかわからない。


違います、と言えるほど自信がない。


負担をかけていません、と言えるほど軽くない。


私も頑張っています、と言うのは、なんだか言い訳みたいだ。


私は役に立っています、と言うのは、もっと怖い。


結局、笑うしかなかった。


「気をつけます」


自分でも、弱い返事だと思った。


でも、それしか出なかった。


ルイーゼ様は満足したようには見えなかった。


むしろ、その笑顔の奥で、少し苛立ちが増したように見えた。


「気をつける、では足りませんわ」


「はい」


「弁えることです」


身の程を。


その言葉は、直接言われなかった。


でも、聞こえた気がした。


「シュヴァルベ様はお優しい方です。だからこそ、あなたのように危うく、頼ることに慣れていない方を放っておけないのでしょう」


胸が冷える。


「ですが、優しさに甘えることと、信頼することは違います」


その言葉は、ひどく正しかった。


正しいから痛い。


私も、そう思っている。


頼ることと甘えることの違いが、まだよくわからない。


近づくことと迷惑をかけることの境目も、まだ見えない。


「プラットさん」


ルイーゼ様が、一歩近づいた。


距離は礼儀の範囲内。


でも、逃げ場がさらに狭くなる。


「あなたが本当にシュヴァルベ様を尊敬しているなら、あの方の隣に立つ意味を、もっと真剣にお考えなさい」


「……はい」


「名前で呼ばれたからといって、同じ高さに立てるわけではありません」


その瞬間、胸の奥で何かが小さく折れた気がした。


ローレさん。


シュヴァルベ様の声。


焼き菓子の甘さ。


訓練後の水。


怖いまま進めと言ってくれた声。


それらが、一気に遠くなる。


名前で呼ばれたことが、うれしかった。


それだけだった。


でも、それは間違いだったのだろうか。


私は、うれしいと思ってはいけなかったのだろうか。


侯爵家の令嬢に、名前で呼んでもらうことを喜ぶのは、身の程知らずなのだろうか。


「……すみません」


声が出た。


出してから、しまったと思った。


謝るところではない。


ミリアなら、きっとそう言う。


セシリアさんなら、困ったように手を添えてくれる。


トムなら、空気を変えようとしてくれる。


シュヴァルベ様なら、謝ることではありませんと言うかもしれない。


でも、ここには誰もいない。


私は一人だ。


一人だと、昔の癖がすぐ戻る。


笑う。


謝る。


小さくなる。


相手が満足する形に、自分を畳む。


「謝罪が必要な場面ではありませんわ」


ルイーゼ様が言った。


その声は、少しだけ冷えていた。


「理解が必要なのです」


「はい」


私はまた頷いた。


「理解します」


何を。


どこまで。


どうやって。


わからない。


でも、そう言うしかなかった。


廊下の向こうから、次の講義へ向かう生徒たちの声が近づいてきた。


ルイーゼ様はすっと表情を整えた。


美しく、礼儀正しい侯爵家令嬢の顔。


「長くお引き止めしてしまいましたわね」


「いえ」


「ごきげんよう、プラットさん」


「ごきげんよう、ハインケル様」


私は礼をした。


取り巻きの令嬢たちも、薄く笑って通り過ぎていく。


香りだけが残った。


甘い香水の匂い。


それが消えても、言葉は残った。


男爵家。


侯爵家。


身の程。


隣に立つ意味。


呼び方。


負担。


甘え。


私は廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。


講義に遅れてしまう。


それはわかっている。


でも、足が床に貼りついているようだった。


シュヴァルベ様の隣にいること。


ローレさんと呼ばれること。


私がうれしいと思ったものが、急に重くなった。


重くて、怖くて、手放したくない。


その三つが胸の中で絡まっている。


「……大丈夫」


小さく言いかけて、止めた。


大丈夫ではない。


でも、誰に言えばいいのかわからない。


言ったら、また誰かの荷物になる気がした。


ルイーゼ様の言葉が、そこに重なる。


守られることに慣れすぎると、自分の重さに気づけなくなる。


私は、自分の重さに気づいていないのだろうか。


誰かを潰しているのだろうか。


シュヴァルベ様に、余計な負担をかけているのだろうか。


呼吸が浅くなる。


指先が冷たい。


視界は狭くない。


そう確認する癖だけが、訓練のまま残っていた。


私はゆっくり息を吐いた。


講義室へ行かないと。


セスナ教官なら、遅れた理由を聞くだろう。


私はたぶん、少し遅れましたと答える。


何があったかまでは言えない。


言える気がしない。


まだ。


私は歩き出した。


廊下はまっすぐだった。


床は軋まない。


抜ける心配もない。


それなのに、足元がひどく頼りなかった。


胸の奥で、シュヴァルベ様の声が小さく残っている。


ローレさん。


その響きは、まだ温かい。


でも、そこにルイーゼ様の言葉が重なっている。


名前で呼ばれたからといって、同じ高さに立てるわけではありません。


私は唇を結んだ。


笑おうとした。


うまく笑えなかった。


それでも、講義室の扉の前に立つ頃には、いつもの顔を作っていた。


困っても笑う顔。


大丈夫そうに見える顔。


誰にも余計な心配をかけない顔。


その顔が、少しだけ苦しかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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