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焼き菓子のあとで

ご覧いただきありがとうございます。

トーナメントは終わった。


優勝の文字も、賞金目録も、表彰台の光も、全部ちゃんと現実だった。


ハネダ亭には必要な分だけお金を貸すことになった。


セシリアさんが書類を整えてくれて、トムが商会の方で確認してくれて、ミリアは私が変なところへ走り出さないように見張ってくれている。


大将と女将さんは、利子をつけて返すと言った。


私は最初、全部渡してしまうつもりだった。


でも、それは受け取ってもらえなかった。


助けることと、全部背負うことは違う。


そういうことを、また一つ教えられた気がする。


そして、日常に戻った。


講義。


食堂。


訓練。


寮。


ハネダ亭。


ただし、戻った日常は、前と同じではなかった。


廊下で名前を囁かれる。


食堂で視線が増える。


訓練棟で、精密競技の話をされる。


「プラットさんの停止誤差が」


「ユンカース様と組んだ」


「王都記念杯の」


聞こえる。


聞こえないふりをしたい。


けれど、聞こえる。


耳は、聞きたくない時ほど働き者だ。


少し休んでほしい。


でも、一番変わったのは、そこではなかった。


シュヴァルベ様との特訓が、続いていることだった。


大会は終わった。


本来なら、そこで終わりでよかったはずだ。


でも、ボーイング補助員から、模擬戦中のリンク深度の上昇についてしばらく確認が必要だと言われた。


セスナ教官からも、基礎体力とバディ連携は続けておけ、と短く命じられた。


教官命令。


とても強い。


逃げられない。


いや、逃げるつもりではない。


少しだけ、ほんの少しだけ、体力訓練からは逃げたいと思ったけれど、それは心の中だけにした。



放課後、基礎訓練区画。


私の前には、低負荷走行レーンがある。


また走る場所だ。


走るためだけに存在している。


大変まじめな設備である。


私はまじめではあるけれど、走ることにはあまり向いていない。


「プラットさん」


隣でシュヴァルベ様が端末を確認している。


訓練服姿でも背筋はきれいで、汗をかく前から涼しげだ。


ずるい。


いや、ずるくはない。


努力の結果だ。


たぶん。


「大会は終わりましたが、基礎体力は継続してつける必要があります」


「はい、ユンカース様」


「短時間で無理に伸ばすのではなく、少しずつです」


「はい」


「まず走行。速度は上げません。呼吸と姿勢を保ってください」


「はい」


私は走り出した。


ゆっくり。


本当にゆっくり。


それなのに、足はすぐに重くなる。


トーナメントで優勝した人間の足とは思えない。


いや、人形に乗って優勝したのであって、生身の足が優勝したわけではない。


足はまだ、かなり平民的である。


いや、私も男爵家とはいえ貧しい家の人間なので、平民的というのは少し変かもしれない。


考えているうちに、呼吸が乱れた。


「プラットさん、肩」


「はい」


「息を吐いて」


「はい」


吐く。


吸う。


吐く。


足が重い。


息が苦しい。


でも、前より少しだけわかる。


これは倒れる苦しさではない。


疲れている苦しさ。


「疲れてきました」


「では、次の線まで走ったら歩行へ移ります」


「はい」


言えた。


まだ限界ではない。


限界より前に言えた。


それだけで、シュヴァルベ様は少し頷いた。


「良い申告です」


褒められた。


走る速さではなく、疲れたことを言えたのを褒められる。


少し不思議だけれど、私にはそれが必要なのだと思う。


私は次の線まで走って、歩行に切り替えた。


膝が少し笑っている。


膝はよく笑う。


私はそれほど楽しくない。


「いあー……足が遠いです」


「足は逃げていません」


「でも、戻ってきません」


「休憩すれば戻ります」


「足は休憩で戻るんですね」


「ええ」


シュヴァルベ様はまじめに答えてくれた。


まじめに答えられると、変なことを言った自分が少し恥ずかしくなる。


でも、嫌ではなかった。



基礎走行のあとは、姿勢維持と反応訓練。


片足立ち。


低い姿勢からの立ち上がり。


光った方向への反応。


重心の確認。


地味。


本当に地味。


人形の華やかな戦いとは遠い。


でも、シュヴァルベ様は一つ一つ見てくれる。


「今の立ち上がりは腰から逃げています」


「腰が逃げました」


「逃がさないでください」


「はい」


「腕で支えすぎです。脚を使って」


「脚に相談します」


「相談ではなく、使ってください」


厳しい。


でも、少しだけ会話が柔らかくなっている気がする。


大会前の特訓では、私は緊張して返事をするだけだった。


今も緊張はする。


でも、少しだけ変なことを言えるようになった。


言ってから慌てるけれど。


シュヴァルベ様も、それを完全には止めない。


むしろ、たまに口元が少しだけ緩む。


その小さな変化が、なんだか嬉しい。



「休憩しましょう」


シュヴァルベ様が言った。


私はすぐに座った。


すぐに座る。


これも大事な訓練である。


無理に立ったままではいない。


大将と女将さんにも、無理をするなと言われている。


セシリアさんにも、ミリアにも、トムにも言われている。


言われすぎて、最近は頭の中に小さな見張り番がいる気がする。


その見張り番は、ミリアに少し似ている。


訓練後の休憩ベンチ。


シュヴァルベ様が小さな包みを取り出した。


「糖分を取りましょう」


強い言葉だ。


訓練後の糖分。


これはもう、ほとんど命令である。


私は素直に頷いた。


「はい」


包みの中には焼き菓子が入っていた。


小さな円形で、表面に砂糖が薄くかかっている。


香ばしい匂い。


甘い匂い。


疲れた身体には、少し危険なくらい魅力的だった。


「焼き菓子です」


「見ればわかります」


言ってから、しまったと思った。


シュヴァルベ様に対して、少し軽すぎたかもしれない。


「あ、すみません」


「構いません」


シュヴァルベ様は一つ私に差し出す。


「補給です」


補給。


また正当な言葉がついた。


ありがたい。


私は受け取って、そっと口に入れた。


さくり、と音がする。


甘い。


香ばしい。


中に少しだけ果実の風味がある。


「うまうま……」


小さく出た。


もう隠せない。


シュヴァルベ様は少しだけ目を細めた。


「気に入っていただけたならよかったです」


「とてもおいしいです、ユンカース様」


「それはよかった」


私は焼き菓子を大事に食べた。


急いで食べるのはもったいない。


でも、身体はすぐ次を求める。


困る。


焼き菓子は強い。


水筒の水も受け取る。


甘さのあとに水を飲むと、喉がほっとした。


二人だけの休憩だった。


少し離れた場所に訓練機材はあるけれど、人はいない。


セスナ教官もボーイング補助員も、別の訓練確認へ回っている。


訓練棟の音が遠い。


静かだ。


静かすぎて、普段なら緊張する。


でも、焼き菓子がある。


シュヴァルベ様もいる。


だから、少しだけ話してみたいと思った。


「ユンカース様」


「はい」


「どうして、人形使いになろうと思ったのですか」


聞いてから、心臓が跳ねた。


踏み込みすぎただろうか。


でも、シュヴァルベ様は怒らなかった。


すぐ答えるでもなく、焼き菓子を持ったまま少し考えた。


「貴族としての義務があります」


静かな声だった。


「ユンカース家は王国の貴族です。民を守り、国に仕える責務があります。力を持つ者は、それを自分のためだけに使ってはならない。私はそう教えられてきました」


「はい」


貴族の義務。


責務。


前に聞いた言葉。


私にはまだ重すぎる言葉。


でも、シュヴァルベ様が言うと、形がある。


背筋に沿っている。


「人形使いは、ただ戦う者ではありません。守るべき人を守るために、戦場で判断し、支え、時には前に出る者です」


「守るために、戦う」


私は小さく繰り返した。


その言葉は、胸に重く入る。


私も、ハネダ亭を守るために大会へ出た。


でも、戦場で人を守るという言葉は、もっと重い。


私は戦争が嫌いだ。


人形戦も怖い。


それでも、守りたいと思ったら、戦いに近づいてしまう。


それを私は、まだうまく受け止められない。


「それから」


シュヴァルベ様は少しだけ視線を落とした。


「憧れもあります」


「憧れ、ですか」


意外だった。


シュヴァルベ様にも、憧れという言葉があるのだと思った。


いや、当たり前だ。


失礼だ。


でも、シュヴァルベ様はいつも整っていて、最初から完成しているように見える。


誰かに憧れる側ではなく、誰かに憧れられる側の人に見える。


「はい」


シュヴァルベ様は焼き菓子を皿の上に置いた。


「マーリン=ロイスに」


指先が、止まった。


口の中の甘さが、一瞬だけ遠くなる。


マーリン。


その名前は、いつも突然胸の中へ入ってくる。


王国軍史の講義室。


白い人形。


撃墜女王。


怪物。


赤い警告。


黒い宇宙。


違う。


ここは訓練棟の休憩ベンチ。


手元には焼き菓子。


隣にはシュヴァルベ様。


私はローレッタ。


「マーリン、ですか」


声が少し小さくなった。


シュヴァルベ様はこちらを見た。


「顔色が変わりましたか」


「少し、驚きました」


嘘ではない。


全部ではないけれど。


「王国軍史の講義でも、彼女の記録は扱われましたね」


「はい」


「プラットさんは、あまり得意ではなさそうでした」


見られていた。


あの時も。


私は焼き菓子を見つめた。


「戦争の話が、苦手です」


「そうでしたね」


シュヴァルベ様は、否定しなかった。


「ですが、私にとってマーリン=ロイスは、ただの撃墜記録の人ではありません」


ただの撃墜記録の人。


その言い方に、胸の奥が少し揺れた。


マーリンは、記録ではない。


私の中にある記憶では、息をして、迷って、怖がって、戦争を嫌っていた。


でも、私はそれを言えない。


「映像や記録を見る限り、彼女は圧倒的でした。魔力出力、反応、機動、判断。どれも並外れている。けれど、私が強く惹かれたのは、そこだけではありません」


「強さ、だけでは」


「ええ」


シュヴァルベ様は少しだけ言葉を選ぶようにした。


「彼女の機動は、とても鋭い。美しいと言う人もいます。けれど、私は時々、危ういと思います」


胸が冷える。


危うい。


「危うい、ですか」


「はい。勝つために、自分を削っているように見える時がある。敵を落とすためだけではなく、何かを守るために自分の限界を越えてしまうような。記録映像だけで、すべてがわかるわけではありませんが」


シュヴァルベ様の声は静かだった。


憧れを語っているのに、浮かれていない。


むしろ、少し痛そうに聞こえた。


「強く、けれど壊れそうな人。そのように感じます」


私は息を吸うのを忘れかけた。


壊れそう。


マーリンは強かった。


撃墜女王と呼ばれた。


怪物とも言われた。


でも、私の中の記憶では、マーリンはずっと疲れていた。


戦いが嫌いだった。


それでも、守るために戦っていた。


守れないものがあるたびに、自分を削っていた。


シュヴァルベ様は、それを記録から感じ取ったのだろうか。


それとも、ただの偶然だろうか。


「プラットさん」


「はい」


「苦しい話でしたか」


「少し」


正直に言えた。


「でも、聞きたいです」


言ってから、自分で少し驚いた。


聞きたい。


マーリンの話は怖い。


でも、シュヴァルベ様がどう見ているのか知りたい。


マーリンを、ただ撃墜女王としてだけ見ていない人がいる。


それが、少し怖くて、少しだけ救いのようにも思えた。


「私は、マーリン=ロイスのように戦いたいわけではありません」


シュヴァルベ様は言った。


「彼女と同じ機動をしたいわけでも、同じ名を得たいわけでもない」


「はい」


「ただ、守るために戦うという在り方に、憧れがあります。けれど同時に、あの危うさをそのまま肯定してはいけないとも思っています」


焼き菓子の甘さが、もう一度戻ってきた。


少し遅れて。


「守るために戦う人が、自分を壊してしまったら、守られた側もきっと苦しい」


シュヴァルベ様は、自分に言い聞かせるように続けた。


「だから私は、強さだけではなく、支える力も必要だと思っています」


支える力。


その言葉が、胸に落ちた。


トーナメントの模擬戦。


赤い点。


黒い宇宙。


飲まれかけた私を呼んだ声。


あれは、支える力だった。


「ユンカース様は、もう持っていると思います」


思わず言っていた。


シュヴァルベ様がこちらを見る。


私は慌てて焼き菓子を持ち直した。


「少なくとも、私は支えていただきました。大会で」


言うと、少し恥ずかしくなった。


でも、これは言いたかった。


「私、一人では戻れませんでした。ユンカース様の声だったから、戻れました」


シュヴァルベ様はしばらく黙っていた。


長い沈黙ではなかった。


でも、私には少し長く感じた。


「プラットさん」


「はい」


「あなたは、私を少し高く見ています」


「そうでしょうか」


「ええ」


少し困ったような声だった。


「私は、まだ足りないものばかりです」


「私から見ると、ユンカース様はすごいです」


「それは、あなたもです」


「私ですか」


変な声が出そうになった。


かなり出そうになった。


「あ、私は、全然」


「精密競技の結果を忘れましたか」


「いえ、あれは、たまたまというか、ユンカース様の指示があったからで」


「それも含めて、あなたの力です」


さらっと言われて、私は困った。


自分の力と言われると、受け取り方がわからない。


怖い。


嬉しいより先に、怖い。


「……怖いです」


私は小さく言った。


「力があると言われるのは、怖いです。力があるなら、使わないといけない気がして」


「使わない選択もあります」


「でも、誰かが困っていたら」


「その時は、一人で決めないことです」


シュヴァルベ様の声は優しかった。


でも、しっかり線があった。


「あなたはすぐ、自分の痛みを必要なものにしようとします」


胸が少し痛む。


否定できない。


「そういう時は、誰かを頼ってください」


「……はい」


「私でも、ヒースローさんでも、サーブさんでも、グラマンさんでも」


「はい」


私は頷いた。


それから、少しだけ迷った。


呼び方。


トーナメントから、距離が少し変わった気がしていた。


でも、言い出すのはとても緊張する。


言い出さない方が安全。


でも、言いたい。


「ユンカース様」


「はい」


「その……お願いが、あるのですが」


「何でしょう」


「もし、よろしければ」


声が小さくなる。


けれど、止めなかった。


「私のことを、ローレと呼んでいただけませんか」


言った。


言ってしまった。


胸が爆発しそうだった。


侯爵令嬢に何をお願いしているのだろう。


いや、前にもバディをお願いした。


それよりは軽いはず。


でも、こちらの方が別の意味で怖い。


「ローレ、ですか」


シュヴァルベ様が静かに繰り返す。


その声で呼ばれる前から、耳が熱い。


「はい。セシリアさんや、ミリアや、トムも、そう呼んでくれています。もし、ユンカース様が嫌でなければ」


嫌でなければ。


言いながら、断られる準備をしてしまう。


断られても笑えるように。


大丈夫ですと言えるように。


でも、シュヴァルベ様は少し考えたあと、ゆっくり頷いた。


「わかりました。では、ローレさん」


胸の中で、何かが小さく跳ねた。


ローレさん。


シュヴァルベ様の声で。


なんだろう。


くすぐったい。


嬉しい。


怖い。


全部一緒に来た。


「は、はい」


声がひっくり返った。


シュヴァルベ様の口元が少し緩む。


「ローレさんも、私のことを名前で呼んでも構いません」


「お名前で」


「ええ。無理にとは言いません」


シュヴァルベ様。


ユンカース様ではなく。


シュヴァルベ様。


頭の中で、その音をそっと置いてみる。


近い。


とても近い。


でも、嫌ではない。


むしろ、言ってみたいと思った。


「……シュヴァルベ様」


声は小さかった。


でも、ちゃんと届いた。


シュヴァルベ様は、静かに頷いた。


「はい、ローレさん」


顔が熱い。


訓練の時より熱い。


耐Gスーツも着ていないのに。


私は慌てて焼き菓子を食べた。


甘い。


とても甘い。


たぶん、焼き菓子のせいだけではない。


「なんだか、少し変な感じです」


「嫌ですか」


「いいえ。嬉しいです。……少し、怖いくらいに」


「怖い?」


「近くなると、失うのも怖くなるので」


言ってしまってから、胸が縮んだ。


重いことを言ったかもしれない。


休憩中に焼き菓子を食べながら言う内容ではなかったかもしれない。


でも、シュヴァルベ様は笑わなかった。


「それでも、近づくことを選んだのですね」


「はい」


私は焼き菓子の端を見つめた。


「たぶん、もう、全部遠ざけて安全でいるのは、少し違う気がして」


言葉にすると、まだ曖昧だ。


でも、今の私はそう思っている。


怖いけれど、近づきたい。


頼りたい。


自分で立ちたい。


全部矛盾している。


私は矛盾だらけだ。


でも、それでもいいのかもしれない。


「ローレさん」


「はい、シュヴァルベ様」


また名前で呼ばれる。


また返す。


そのたび、胸の奥に小さな灯りがつく。


「怖いままでも構いません。近づくことも、頼ることも、少しずつでいい」


「はい」


「ただ、自分を壊す方向へは進まないでください」


その言葉は、少しだけ強かった。


私は頷いた。


「気をつけます」


「気をつけるだけではなく、言ってください」


「はい。言います」


「本当に?」


「本当に、言います」


シュヴァルベ様はまだ少し疑っている顔だった。


私の大丈夫の信用は、まだ回復していない。


仕方ない。


過去の私が積み上げた信用の低さである。


これから少しずつ返済していくしかない。


利子はつくのだろうか。


たぶん、つく。


「焼き菓子、もう一つ食べますか」


シュヴァルベ様が包みを差し出した。


私は一瞬迷った。


「補給、でしょうか」


「補給です」


「では、いただきます」


正当な補給。


私はありがたく受け取った。


二つ目も、やっぱりおいしい。


うまうま。


小さく呟くと、シュヴァルベ様がまた少し笑った。


その笑みを見て、胸の奥が温かくなる。


マーリンの名前は、まだ胸の中に残っていた。


憧れ。


危うさ。


守るために戦う人。


自分を削ってしまう人。


その言葉は、私の中の記憶を静かに揺らしている。


シュヴァルベ様の憧れの人がマーリンだと知った。


それは怖い。


もし、いつか私の中にあるものを知られたら。


シュヴァルベ様は、私を見るのだろうか。


それとも、マーリンを見るのだろうか。


考えると、胸が冷える。


でも、今、目の前のシュヴァルベ様は、私をローレさんと呼んだ。


私は、シュヴァルベ様と呼んだ。


その事実も、ちゃんと胸にある。


怖さと温かさ。


どちらも本物だった。



訓練棟の外から、遠くの足音が聞こえる。


休憩の時間はもうすぐ終わる。


また走るのだろうか。


できれば、焼き菓子の余韻でもう少し座っていたい。


でも、たぶん走る。


体力は逃げるから、捕まえに行かなければならない。


「ローレさん」


「はい、シュヴァルベ様」


「次は軽めの姿勢維持です」


走らなかった。


少しだけ神に感謝した。


この世界の神がどこを見ているのかは知らないけれど。


私は立ち上がる。


足はまだ少し重い。


でも、前より少しだけ動く。


隣にはシュヴァルベ様がいる。


焼き菓子の甘さが、まだ舌に残っている。


マーリンの名前は、胸に残っている。


怖い。


でも、逃げたくはなかった。


私はシュヴァルベ様の隣に並んだ。


名前で呼ぶことに、まだ慣れない。


けれど、もう戻したいとは思わなかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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