守りたいもの
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トーナメントがもたらした変化は、ローレッタだけのものではなかった。
王都記念杯・学生人形使いトーナメント。
学外公開模擬戦大会。
その優勝結果は、学園内でもすぐに広まった。
廊下を歩けば、ローレッタ=プラットの名が小さく囁かれる。
食堂では、視線が彼女の背中を追う。
訓練棟では、精密競技の記録について話す声が聞こえる。
あの停止誤差。
あの魔力流量の安定。
模擬戦での切り返し。
優勝候補相手に判定を取った動き。
そして、ユンカース侯爵家令嬢のバディ。
それらが一つの塊になって、ローレッタへ向けられていた。
シュヴァルベは、その変化を見ていた。
見ようとしたわけではない。
見えてしまう。
教室の端で、ローレッタが肩を少し丸める。
ミリア=サーブが何かを言うと、彼女は慌てて肩を戻す。
トム=グラマンが笑って空気を軽くし、セシリア=ヒースローが静かに隣で支える。
ローレッタは小さく笑う。
笑っている。
けれど、その笑みの奥に、まだ慣れない視線を受ける硬さがあった。
シュヴァルベは、それを見逃せなかった。
以前から、そうだった。
最初に彼女を見た時も、見逃せなかった。
入学直後の検査場。
茶色の髪。
小柄な身体。
少し慌てた表情。
下級貴族の令嬢だろう、と思った。
気にする必要はないはずだった。
シュヴァルベ=ユンカースにとって、あの場にいた生徒の一人。
それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
けれど、顔を見た瞬間、胸の奥が妙に苦しくなった。
理由はわからなかった。
知っている相手ではない。
家同士の縁もない。
名前すら、その時ははっきり知らなかった。
それなのに、目が離せなかった。
守らなければならない。
唐突に、そう感じた。
なぜ。
何から。
誰を。
答えはなかった。
ただ、胸の奥に小さな違和感が残った。
その違和感は、日が進むごとに消えるどころか、少しずつ形を持っていった。
王国軍史の講義で、ローレッタの顔色が悪くなった時。
人形の訓練で、彼女の動きに不自然なほど細い制御が滲んだ時。
合同演習で、彼女が自分の怖さを押し込めながら必要な言葉を出そうとした時。
ハネダ亭のために、賞金を得る方法を探した時。
そして、トーナメントのバディになってほしいと頼まれた時。
小さな違和感は、もう無視できないものになっていた。
あの相談を受けた時、シュヴァルベはすぐには答えられなかった。
答えてはいけないと思った。
プラットさんが望むなら。
そんな言葉で受けてよい話ではなかった。
王都記念杯は公開大会だ。
観覧席には貴族も、商会関係者も、軍関係者も来る。
シュヴァルベが出場すれば、ユンカースの名も見られる。
誰と組むか。
どう戦うか。
どのような結果を残すか。
それらは、本人の意志とは別に意味をつけられる。
シュヴァルベ=ユンカースという名は、彼女一人のものではない。
家の名であり、立場であり、周囲が勝手に期待する形でもある。
だから、軽くは引き受けられない。
それは本当だった。
けれど、もう一つの理由もあった。
ローレッタが、怖いと言ったからだ。
戦うのは嫌いだと。
人形に乗るのも怖いと。
それでも、守りたい場所があると。
そう言った時、シュヴァルベの胸の奥が静かに揺れた。
その少女は、戦いたいから戦うのではなかった。
名誉のためでもない。
家のためでもない。
誰かに命じられたからでもない。
温かい店を守るため。
自分を大切に扱ってくれた人たちを守るため。
怖いものへ、自分から近づこうとしていた。
危うい。
あまりにも危うい。
放っておけば、彼女は自分を差し出す。
賞金のため。
ハネダ亭のため。
誰かを困らせないため。
自分の痛みを、必要経費のように扱う。
その予感がした。
だから、断ることもできた。
危険だからやめなさい。
あなたが背負うことではない。
そう言う方が、簡単だった。
けれど、シュヴァルベは知っていた。
ローレッタは止められても、別の方法を探す。
一人で。
たとえそれが危険だと分かっていても。
自分だけで何とかしようとする。
ならば、傍にいる方がいい。
止められる位置にいる方がいい。
声が届く距離にいる方がいい。
そう考えた時、すでに答えは決まっていた。
貴族としての義務ではない。
侯爵令嬢としての判断でもない。
ユンカースの名のためでもない。
シュヴァルベ自身が、彼女の相談を受けると決めた。
その決定を口にした瞬間、胸の奥で何かが静かに収まった。
同時に、別のものが増した。
守らなければ。
そういう感情。
けれど、それを言葉にするには、まだ早すぎた。
それに、言葉にしてしまえば、何かが違う形になる気がした。
特訓の間、ローレッタは何度も怖いと言った。
最初は、声が小さかった。
言ってよいのか迷うように。
怖いと言えば、止められるかもしれない。
迷惑になるかもしれない。
弱いと思われるかもしれない。
そんな考えが、彼女の言葉の端に見えた。
けれど、回数を重ねるうちに、少しずつ変わった。
指先が冷たいです。
呼吸が浅いです。
視界は狭くありません。
怖いです。
具体的に言えるようになっていった。
シュヴァルベは、そのたびに胸の奥が少し痛んだ。
なぜ、この少女はそれを今まで一人で抱えていたのだろう。
なぜ、怖いと言うだけのことに、これほど勇気が必要なのだろう。
問うても、答えはすぐ出ない。
ただ、ローレッタが怖いと言えた時、シュヴァルベはそれを否定しないようにした。
怖くないと言わない。
大丈夫だと決めつけない。
怖いまま、進む。
怖いまま、戻る。
その線を作る。
それがバディとしての役割だと思った。
そして、トーナメント本番。
模擬戦の途中で、ローレッタの動きが変わった。
ほんの一瞬だった。
だが、シュヴァルベにはわかった。
機体の反応が鋭くなりすぎた。
魔力の糸が深く入りすぎた。
前へ出ようとする気配があった。
勝つための動きではない。
何かに飲まれる動きだった。
機体が、ローレッタの身体から離れていくように見えた。
その瞬間、シュヴァルベの胸が冷えた。
プラットさん。
そう呼んでも、届ききらなかった。
戻って。
それでも、足りなかった。
だから、彼女は名前を呼んだ。
ローレッタ=プラット。
彼女が彼女であるための名。
その名を呼んだ時、シュヴァルベ自身もわずかに動揺していた。
なぜそこまでしなければならないと思ったのか。
なぜ、あれほど強く引き戻したかったのか。
勝利のためではない。
大会のためでもない。
ただ、失いたくないと思った。
どこか遠くへ行ってしまう彼女を、こちら側へ戻したかった。
ローレッタは戻った。
聞こえています、と答えた。
その声を聞いた時、シュヴァルベは自分でも気づかないほど深く息を吐いていた。
勝ったのは、そのあとだった。
だが、シュヴァルベにとって、あの模擬戦で最も重かったのは勝利判定ではない。
ローレッタが戻ったことだった。
戻ってきた。
その事実が、胸の奥に残り続けている。
「シュヴァルベ様」
呼ばれて、シュヴァルベは顔を上げた。
教室の窓際。
昼の光が机の端に落ちている。
ルイーゼが傍に立っていた。
背筋は正しく、表情は整っている。
いつものルイーゼだった。
「何かしら、ルイーゼ」
「少し、お疲れのように見えましたので」
「そう見えた?」
「はい。王都記念杯の件で、周囲も騒がしくなっておりますから」
ルイーゼの視線が、教室の後方へ向いた。
そこにはローレッタがいた。
セシリア、ミリア、トムと話している。
ローレッタは何かを言われ、少し困った顔をして、それから小さく笑った。
笑い方が柔らかくなった。
以前より、ほんの少しだけ。
けれど、視線を向けられるたび、肩が内側へ入りそうになる。
それをミリアが指摘し、ローレッタが慌てて直す。
その一つ一つが、シュヴァルベの目に入る。
「プラットさんは、随分と注目を集めるようになりましたわね」
ルイーゼの声は穏やかだった。
だが、穏やかであるほど、奥にあるものが見えにくくなる。
「王都記念杯で結果を出したのだから、当然でしょう」
シュヴァルベは答えた。
「もちろんですわ。ですが、あの方は男爵家の令嬢です。急に注目を浴びることに、戸惑っておられるようにも見えます」
「ええ。慣れてはいないでしょう」
「でしたら、あまりお近くに置きすぎるのも、かえってご負担になるのではありませんか」
ルイーゼの言葉は、間違ってはいなかった。
間違っていないからこそ、すぐには否定できない。
シュヴァルベの傍にいれば、ローレッタは目立つ。
ユンカースの名の近くにいるだけで、視線は増える。
それは事実だった。
けれど、離れればよいのか。
視線から守るために、距離を置く。
そうすれば、ローレッタは本当に守られるのか。
シュヴァルベには、すぐに頷けなかった。
「ルイーゼ」
「はい、シュヴァルベ様」
「王都記念杯に出ると決めたのは、私の意志です」
「承知しております」
「プラットさんを利用したわけでも、彼女に引きずられたわけでもない。私が判断し、引き受けました」
「はい」
ルイーゼはすぐに頭を下げた。
反論はしない。
シュヴァルベの前では、彼女はいつも正しくあろうとする。
だが、その正しさの中に、時々鋭い棘が混ざる。
それは、ローレッタへ向く。
シュヴァルベは、それも見逃せなくなっていた。
以前なら、注意はしても、ここまで胸がざわついただろうか。
ルイーゼの言葉は、高位貴族としては理解できる範囲だった。
家格。
立場。
距離。
それらを気にすることは、貴族社会では当然だ。
だが、ローレッタが相手になると、当然で済ませにくい。
彼女はその言葉を受け取ってしまう。
必要以上に。
自分のせいだと思う。
自分が分不相応だからだと思う。
そうして、また小さくなる。
それが、シュヴァルベには耐えがたかった。
「プラットさんに対しても、必要以上に刺すような言い方は控えてください」
ルイーゼの瞳が、一瞬だけ揺れた。
「……そのように聞こえましたか」
「ええ」
「失礼いたしました。以後、気をつけますわ」
「ありがとう、ルイーゼ」
責めたいわけではなかった。
ルイーゼは悪意だけで動いているわけではない。
シュヴァルベを案じ、ユンカース家の名を案じ、侯爵家令嬢としての距離を守ろうとしている。
それはわかる。
わかるから、余計に難しい。
ルイーゼは一礼して下がった。
その背を見送りながら、シュヴァルベは小さく息を吐いた。
彼女を遠ざけたいわけではない。
ローレッタを囲い込みたいわけでもない。
けれど、ローレッタへ向けられる棘は、できるだけ取り除きたい。
その思いが、自分の中で少しずつ強くなっている。
それをどう扱えばよいのか、シュヴァルベにはまだわからなかった。
放課後の訓練棟では、セスナ教官が王都記念杯の記録について簡単に触れた。
「ユンカース、プラット。大会結果は良好だった。だが、学外大会は目的ではなく経験の一つだ。浮かれるな」
「はい、セスナ教官」
シュヴァルベは答えた。
少し遅れて、ローレッタも答える。
「はい、セスナ教官」
その声は真面目だった。
浮かれてはいない。
むしろ、浮かれ方がわからないように見える。
セスナ教官は端末を見ながら続けた。
「精密競技の数値は高い。特にプラット、魔力流量の細かさは目を引く。だが、模擬戦中盤で一度、リンク深度が急に上がっている」
ローレッタの肩が、わずかに揺れた。
「はい」
「ユンカースの指示で戻しているが、次に同じ状況が起きるとは限らない。自覚しておけ」
「はい、セスナ教官」
ローレッタの声は小さかった。
けれど、消えてはいなかった。
シュヴァルベは、その横顔を見た。
怖がっている。
だが、逃げてはいない。
以前より、彼女は自分の危うさを少しだけ見られるようになっている。
その成長を喜ぶべきだ。
そう思う一方で、シュヴァルベの中には別の感情もあった。
見ていられない。
一人で抱えさせたくない。
あのリンク深度の変化。
あの一瞬、機体が遠くへ行きかけた感覚。
思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。
「ユンカース」
セスナ教官の声で、シュヴァルベは意識を戻した。
「はい、セスナ教官」
「お前の支援判断は悪くなかった。だが、プラットに寄りすぎるな。支援役は相手だけでなく、戦域全体を見る必要がある」
「はい」
「バディを守ることと、視野を狭めることは違う」
その言葉は、短く、まっすぐだった。
シュヴァルベは一瞬、答えが遅れそうになった。
「……はい、セスナ教官」
視野を狭めること。
自分は、そうなっているのだろうか。
ローレッタを見すぎている。
ローレッタが傷つかないように、ローレッタが飲まれないように、ローレッタが戻れるように。
そのことばかりを考えすぎているのだろうか。
セスナ教官は、それ以上何も言わなかった。
だが、言葉は残った。
バディを守ることと、視野を狭めることは違う。
シュヴァルベは、それを胸の内で繰り返した。
正しい。
正しい言葉だ。
しかし、正しいからといって、すぐに心が従うとは限らない。
訓練後、ローレッタはボーイング補助員に呼ばれ、簡単な状態確認を受けていた。
大会中の記録について、魔力流量やリンク深度を確認しているのだろう。
ローレッタは少し緊張した顔で頷いている。
その横で、セシリアが静かに待っていた。
ミリアとトムは少し離れた場所で話している。
ローレッタの周りには、人が増えた。
彼女を気にかける人が増えた。
それはよいことだ。
一人ではなくなっている。
以前より、彼女は困った時に言葉を出せるようになっている。
ハネダ亭の件でも、一人で抱えず相談した。
王都記念杯でも、バディを頼った。
それは確かな変化だ。
それなのに、シュヴァルベの胸には、どこか落ち着かないものが残っていた。
ローレッタが誰かに頼れるようになることは、喜ばしい。
そのはずだ。
彼女が一人で傷つくより、ずっといい。
けれど、同時に、シュヴァルベの中の何かが囁く。
自分が守らなければ。
他の誰かではなく。
自分が。
その感情は、穏やかではない。
だが、激しい恋情でもなかった。
甘さはない。
胸が浮き立つようなものでもない。
もっと硬く、切実で、少し息苦しい。
崩れかけたものを両手で支えようとする感覚。
落ちそうなものへ手を伸ばす感覚。
今度こそ、と言いかけて、シュヴァルベはそこで思考を止めた。
今度こそ。
なぜ、そんな言葉が浮かぶのか。
以前、何かを守れなかったことがあったような。
けれど、思い当たる記憶はない。
シュヴァルベ=ユンカースとしての人生の中に、ローレッタ=プラットを失った過去は存在しない。
そもそも、出会ってからまだ長くはない。
それなのに、胸の奥は時々、もっと長い時間を知っているように痛む。
説明できない。
説明できないものは、扱いに困る。
シュヴァルベは感情を整えることに慣れていた。
侯爵家令嬢として。
人前で揺れを見せないように。
必要な言葉を選び、必要な距離を取り、必要な表情を保つ。
それは難しいことではなかった。
少なくとも、今までは。
だが、ローレッタが関わると、わずかに乱れる。
少しだけ、判断が早くなる。
少しだけ、声が強くなる。
少しだけ、視線が彼女を追う。
その少しが、積み重なっている。
シュヴァルベ自身も、それを自覚し始めていた。
完全には理解していない。
理解したと言えるほど、形にはなっていない。
ただ、ローレッタを放っておけないという感情だけが、少しずつ強くなっている。
「ユンカース様」
声に振り向くと、ローレッタが立っていた。
状態確認が終わったらしい。
少し疲れた顔をしている。
けれど、視線は逃げていない。
「プラットさん。確認は終わりましたか」
「はい。ボーイング補助員から、しばらくはリンク深度に注意するように言われました」
「そうでしょうね」
「はい」
ローレッタは少しだけ手を握った。
「大会の時、戻れたのはユンカース様のおかげです。改めて、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げる。
深すぎない礼。
彼女なりに、逃げるためではなく感謝を示そうとしているのがわかった。
シュヴァルベは、その姿に少し胸が詰まった。
「あなたが聞いたからです」
同じ言葉を返す。
ローレッタは、少し困ったように笑った。
「聞けたのは、ユンカース様の声だったからです」
その言葉は、真っすぐだった。
まっすぐすぎて、シュヴァルベは一瞬返事を忘れかけた。
信頼されている。
それはわかる。
頼られている。
それもわかる。
だが、その信頼の重さを受け取るたび、胸の奥で別の感情が増していく。
守りたい。
守らなければならない。
この少女が、自分を壊す前に。
どこか遠くへ行ってしまう前に。
「プラットさん」
「はい」
「次に同じようなことがあっても、一人で戻ろうとしないでください」
ローレッタが小さく頷く。
「はい。頼ります」
その言葉は、少し前より自然だった。
自然になっていることが嬉しい。
そして、少し怖い。
頼られることを望んでいる自分がいる。
彼女が自分を必要としてくれることに、安堵している自分がいる。
それは正しいのか。
バディとしてなら、正しい。
隊長としてなら、必要なことだ。
しかし、それだけではない感情が混ざっている気がした。
「ユンカース様?」
ローレッタが不思議そうに首を傾げた。
小さな仕草。
茶色の髪が肩のあたりで揺れる。
本来の色ではないことを、シュヴァルベは知らない。
その髪の奥に、どれだけの事情があるのかも知らない。
知らないことが多すぎる。
それでも、守りたいと思ってしまう。
「いいえ。無理をしないように、という話です」
「はい。気をつけます」
「気をつける、だけでは足りません。周囲にも言ってください」
「はい」
「サーブさんやヒースローさんにも」
「はい」
ローレッタは素直に頷く。
その素直さがまた危うい。
言われたことは守ろうとする。
けれど、自分が苦しい時ほど、守るべき言葉を後回しにする。
だから、周りが見なければならない。
そう思った時、シュヴァルベは自分の思考に気づいた。
周りが。
本当は、今、自分がと言いかけていた。
それを言い換えた。
無意識に。
「ユンカース様」
ローレッタが少しだけ笑う。
「心配してくださって、ありがとうございます」
「バディとして当然です」
すぐに答えた。
答えは間違っていない。
間違っていないはずだった。
ローレッタは嬉しそうに頷いた。
「はい」
その笑みに、シュヴァルベの胸が静かに痛んだ。
当然。
本当にそれだけだろうか。
バディとして。
隊長として。
同じクラスの生徒として。
侯爵令嬢として。
どの言葉を置いても、胸の奥の感情は収まりきらない。
だが、今はまだそれでよいのかもしれない。
無理に名をつければ、きっと歪む。
これは愛情ではない。
恋ではない。
そんな甘いものではない。
もっと不器用で、切実で、理由の見えない庇護欲。
放っておけない。
守りたい。
失わせたくない。
その程度の言葉なら、今のシュヴァルベにも受け止められる。
「プラットさん」
「はい」
「食事は、きちんと取ってください」
ローレッタは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「はい。大将と女将さんにも言われています」
「なら、よいです」
「ユンカース様も、ハネダ亭にまた来てください。大将も女将さんも喜びます」
「ええ。機会があれば」
ローレッタの顔が少し明るくなる。
その変化を見るだけで、胸の奥がわずかに緩む。
守りたいものは、壊れかけたものだけではない。
こういう小さな明るさも、守りたいのだとシュヴァルベは思った。
思ってしまった。
ローレッタはセシリアたちの方へ戻っていく。
その背中を、シュヴァルベは少しだけ見送った。
小柄で、まだ危うい背中。
けれど、以前よりも少しだけ、自分の足で立とうとしている背中。
守りたい。
けれど、囲い込んではいけない。
支えたい。
けれど、縛ってはいけない。
その境目が、まだ見えない。
シュヴァルベは窓の外へ目を向けた。
訓練場の光が、静かに整備架を照らしている。
胸の奥に残る感情は、まだ整理できない。
ただ一つだけ、はっきりしていた。
ローレッタ=プラットを、もう見過ごすことはできない。
その事実だけが、静かに、けれど確かに、シュヴァルベの中で重くなっていた。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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