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バディの条件

ご覧いただきありがとうございます。

シュヴァルベ様にお願いをしなければならない。


そう決めた。


決めたのだけれど、決めたからといって、足が軽くなるわけではなかった。


むしろ重い。


かなり重い。


学園の廊下はきれいで、床はまっすぐで、どこも軋まない。


プラット家の古い廊下とは違って、歩いていて突然抜ける心配はない。


それなのに、私は一歩進むたびに床が沈むような気がしていた。


王都記念杯・学生人形使いトーナメント。


王立宇宙軍士官学園協力。


学外公開模擬戦大会。


人形の操作、基本動作などの精密さを競う競技。


一対一の個人模擬戦。


二人一組の模擬戦。


総合得点で判断される大会。


個人戦の方が賞金額は高い。


でも、大将と女将さんから、個人戦は駄目だと言われている。


無理はしない。


無理だと思ったらすぐに辞める。


信頼できる人とバディを組むこと。


そして、その人は私を止められる人でなければならない。


勝つことより、私を戻すことを優先できる人。


その条件を聞いた時、頭に浮かんだのはシュヴァルベ様だった。


セシリアさんは優しい。


ミリアはしっかりしている。


トムは頼りになる。


でも、人形に乗った私を止められる人。


赤い点を見て、私の指先が勝手に動きそうになった時、声で戻してくれる人。


私が自分でも気づかないうちに危ない方へ行きかけた時、止めると言える人。


そう考えると、どうしてもシュヴァルベ様になった。


それは、安心に近いものだった。


でも、安心だけではない。


怖い。


シュヴァルベ様は侯爵家令嬢だ。


ユンカース侯爵家の令嬢で、一年C組の中心で、隊長としての能力もある。


そんな人に、男爵家の私が個人的な事情で頼む。


ハネダ亭を助けるために大会へ出てください、と。


それは、かなり大きなお願いだと思う。


私の中では、宇宙に向かって大声で叫ぶくらい大きい。


しかも、ルイーゼ様がいる。


シュヴァルベ様の近くには、だいたいルイーゼ様がいる。


美しくて、優雅で、冷たい目をする侯爵令嬢。


プラットさんはまた分不相応なことをなさるのですね。


そう言われるかもしれない。


言われなくても、目が言うかもしれない。


目は言葉より逃げ場がない時がある。


私は廊下の途中で止まりかけた。


引き返したい。


でも、引き返したら何も始まらない。


今までなら、きっと一人で抱え込んでいた。


ハネダ亭のことも。


立ち退きのことも。


あの白くて冷たい書類のことも。


自分の中に押し込んで、どうにかしようとしたと思う。


誰にも言わずに。


誰にも頼らずに。


自分で調べて、自分で動いて、自分で何とかしようとしたと思う。


できることなんて、きっとほとんどないのに。


それでも、誰かに話せば迷惑になる気がした。


誰かの時間を奪う気がした。


困っていると言った瞬間、その困りごとが相手の荷物になってしまう気がした。


私はずっと、そうやってきた。


でも、今回は違う。


セシリアさんに話した。


ミリアに止められた。


トムに助けてもらった。


大将と女将さんにも相談した。


そして今、シュヴァルベ様に頼もうとしている。


頼る。


それは、私にとって戦うより難しいことかもしれない。


人形の操縦なら、指先が勝手に覚えている。


怖いけれど、動きはわかる。


でも、誰かに頼る動きはわからない。


どのくらい近づけばいいのか。


どこまで言えばいいのか。


断られた時、どう笑えばいいのか。


何もわからない。


「ローレ」


横からミリアの声がした。


私はびくっとする。


「はい」


「顔が固い」


「固いですか」


「うん。訓練機の固定架くらい固い」


「それは、かなり固いですね」


「かなり」


トムが後ろから覗き込む。


「ローレ、息してるか?」


「しています」


「ちょっと浅い」


セシリアさんが静かに言った。


「ローレさん、無理に一人でお話しされなくても、私たちも近くにおります」


「ありがとうございます、セシリアさん。でも、これは私がお願いしなければならないことなので」


そう言ったら、胸が少し震えた。


自分で言って、自分で怖くなる。


「倒れそうになったら、助けてください」


ミリアが少し目を丸くして、それから笑った。


「それを先に言えたなら、だいぶいい」


「いいのでしょうか」


「いい。大丈夫ですって突撃されるよりずっといい」


「突撃はしません」


「するよ、ローレは」


トムが真面目な顔で言った。


「小さい身体で、たまに真正面から行く」


「行っているつもりは」


「ある」


ミリアに断言された。


私は少しだけ肩を落とした。


どうやら、あるらしい。


でも、今回は突撃ではない。


相談だ。


お願いだ。


たぶん。


私は深く息を吸って、教室の前方を見た。


シュヴァルベ様は端末を確認していた。


隣にはルイーゼ様。


やっぱりいる。


予想通りなのに、胸の中で何かが小さく悲鳴を上げた。


私は手を握った。


一歩。


もう一歩。


逃げない。


「ユンカース様」


声をかけると、シュヴァルベ様が顔を上げた。


「プラットさん」


その声はいつも通りだった。


落ち着いていて、まっすぐで、少しだけ背筋が伸びる声。


「何かしら」


「少し、お話したいことがあります。お時間をいただけますでしょうか」


言えた。


言葉が途中でひっくり返らなかった。


えらい。


かなりえらい。


ルイーゼ様の視線がこちらへ向く。


冷たい。


まだ言葉にはなっていない。


でも、視線だけで十分に冷たい。


シュヴァルベ様は私の顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「わかりました。講義後でよろしいかしら」


「はい。ありがとうございます」


「ルイーゼ、少し席を外します」


ルイーゼ様の表情は整っていた。


「シュヴァルベ様、私も同席いたしましょうか」


「いいえ。プラットさんからの相談です」


柔らかい。


けれど、はっきりした声だった。


線を引く声。


私に向けられたものではない。


でも、その線が私を守ってくれているように感じて、胸の奥が少し痛んだ。


ルイーゼ様は優雅に微笑んだ。


「承知いたしました」


その微笑みが、とても怖い。


私は頭を下げた。


背中に視線が残る。


気のせいかもしれない。


でも、たぶん気のせいではない。



講義後、私はシュヴァルベ様と演習棟脇の休憩スペースへ向かった。


窓の外には訓練場が見える。


遠くに格納庫。


整備架。


その向こうに薄い空。


座る前から、指先が少し冷たかった。


人形に乗っているわけではないのに。


「プラットさん」


シュヴァルベ様が先に口を開いた。


「顔色がよくありません。急ぎの相談なら伺いますが、体調が悪いなら先に休んだ方がいいわ」


「あ、いえ。体調は悪くありません」


いつものように、大丈夫ですと言いかけた。


でも、止めた。


「緊張しています」


そう言うと、シュヴァルベ様の表情が少しだけ和らいだ。


「そう。では、座りましょう」


「はい」


私は向かいに座った。


端末を開く。


王都記念杯の告知。


赤い縁取り。


金色の文字。


人形のシルエット。


画面に映すだけで、胸が少し冷える。


私はまず、ハネダ亭のことを話した。


再開発地区のこと。


立ち退きのこと。


男たちが来たこと。


契約書類のこと。


セシリアさんがヒースロー家に確認してくれていること。


契約自体は、すぐ違法だと断定できるものではなさそうなこと。


異議申し立てには古い契約書や相手の計算根拠を崩す資料が必要で、時間がかかること。


そして、時間を稼ぐにはお金がいること。


言葉にすると、また胸が重くなる。


でも、言えた。


途中で少し詰まったけれど、最後まで言えた。


シュヴァルベ様は、黙って聞いてくれた。


急かさず、遮らず、勝手に結論を出さずに。


それが少しありがたくて、少し怖かった。


全部聞いた上で断られたら、私はどんな顔をすればいいのだろう。


「それで」


シュヴァルベ様は端末の告知に視線を落とした。


「王都記念杯に出ることを考えているのですね」


「はい」


「個人戦ではなく、二人一組の模擬戦」


「はい。大将と女将さんから、個人戦は駄目だと言われています」


「正しい判断です」


即答だった。


「個人戦は賞金額こそ高いですが、負担も注目度も大きい。あなたが出るべきではありません」


「はい」


私は素直に頷いた。


そこは自分でも怖い。


個人戦。


一人。


赤い点。


指示のない空間。


想像しただけで、胸の奥が冷える。


「大会の概要は理解していますか」


「はい。人形の操作、基本動作などの精密さを競う競技と、一対一、または二人一組の模擬戦。総合得点で判断される大会です」


「学外公開模擬戦大会です。観覧者には貴族、商会、軍関係者も含まれます。学生大会とはいえ、ただの学内訓練ではありません」


「はい」


「あなたが出れば、注目される可能性があります」


「……はい」


目立つ。


その言葉を言われる前に、胸が縮んだ。


目立ちたくない。


本当に目立ちたくない。


ハネダ亭のためと言っても、目立つのは怖い。


高い場所に立たされるような気がする。


みんなが見ている場所で、失敗するかもしれない。


それだけではない。


うまくいっても怖い。


うまくいきすぎたら、もっと怖い。


「プラットさん」


シュヴァルベ様の声が少し低くなった。


「あなたは、人形戦が好きではないのでしょう」


私は手を握った。


「はい。嫌いです」


嘘はつけなかった。


「戦うことも、人形に乗ることも、怖いです。模擬戦でも、赤い点を見ると……少し、怖くなります」


少しではない。


本当は、かなり。


でも、そこまでは声に乗らなかった。


マーリンの記憶が前に出る。


落とせる。


避けられる。


読める。


その感覚が怖い。


私は私でいたいのに、指先が別の誰かの戦場を覚えている。


そこまでは言えない。


まだ言えない。


「それでも、出たいのですか」


シュヴァルベ様は責めなかった。


ただ、まっすぐ聞いた。


私は視線を落としそうになって、踏みとどまった。


「出たい、というより、何もしないままでいたくありません」


言葉を探す。


「ハネダ亭を守りたいです。大将と女将さんは、私を関係ないと言って守ろうとしてくれました。でも、私はあそこで働いています。まかないをいただいて、お給料をいただいて、困った時は困ったと言えと教えてもらいました」


胸の奥が少し熱くなる。


「だから、関係ないままではいられません」


「王都記念杯に出れば、あなた自身が危険に近づくことになります」


「はい」


「賞金で全て解決できるわけでもない」


「はい」


それもわかっている。


この大会で優勝しても、ハネダ亭を完全に救えるわけではない。


初回納付に届くかどうかもわからない。


それでも、少しの時間を稼げるかもしれない。


他の方法と合わせれば、何かできるかもしれない。


ゼロではない。


「それでも?」


「はい」


声が震えた。


でも、止めなかった。


「私は、戦うのは嫌いです。人形に乗るのも怖いです。目立つのも嫌です。でも、守りたい場所があります。怖いから何もしない、だけではいたくありません」


言ってしまった。


自分から戦いに近づく言葉。


それは、胸の中で重かった。


重くて、怖くて、少しだけ温かい。


シュヴァルベ様はしばらく黙っていた。


その沈黙は、短かったのかもしれない。


でも、私には長かった。


二つ返事ではない。


それは当然だ。


シュヴァルベ様にも立場がある。


侯爵家令嬢として、ユンカースの名を背負う人として。


公開大会に出れば、誰と組むかも、どんな理由で出るかも、周囲は勝手に意味をつける。


私の個人的な事情に巻き込むことになる。


断られても仕方ない。


むしろ、断る方が自然かもしれない。


私は膝の上で手を握った。


「プラットさん」


「はい」


「私はユンカース侯爵家の令嬢です」


「はい」


「王都記念杯に出れば、私の行動は私だけのものとは見なされません。誰と組むか、どう戦うか、どのような結果を残すか。周囲はそこに意味を見いだそうとするでしょう」


「はい」


わかっている。


わかっているつもりだった。


でも、本人の口から聞くと、その重さがはっきりする。


「ですから、軽く引き受けることはできません」


「はい」


私は頭を下げかけた。


断られる。


そう思った。


「ですが」


顔を上げる。


シュヴァルベ様は、まっすぐ私を見ていた。


「これは、貴族としての義務でも、侯爵令嬢としての判断でもありません」


一つ一つの言葉が、静かに置かれる。


「私個人として、あなたの相談を受けます」


すぐには意味が入ってこなかった。


私個人として。


シュヴァルベ様が。


「……よろしいのですか」


声が少し変になった。


「ええ」


シュヴァルベ様は小さく頷いた。


「ただし、条件があります」


「はい」


条件。


大将と女将さんにも出された。


条件は、止まるための線だ。


線があるから、踏み越えずに済む。


「無理はしないこと」


「はい」


「バディとして、私を頼ること」


「はい」


「怖い、苦しい、限界だと思ったら、必ず言うこと」


「はい」


「それでも私が無理だと判断したら、あなたが続けたいと言っても辞めさせます」


胸が、きゅっと固くなった。


「……はい」


「勝つために、あなたを壊すつもりはありません」


その言葉は、静かだった。


静かなのに、胸の奥まで届いた。


壊すつもりはない。


勝つために。


人形戦で。


私を。


私は一瞬、何も言えなくなった。


プラット家では、壊さないようにと言われた。


使うために。


役に立つために。


必要な時に差し出せるように。


でも、今の言葉は違う。


勝つための部品にはしない、という言葉に聞こえた。


人形に乗る私を、道具ではなく人として見ている言葉。


そう思ったら、胸が少し痛くなった。


「ありがとうございます、ユンカース様」


私は頭を下げた。


深くしすぎないように気をつけた。


礼儀として。


逃げるためではなく。


「ただし」


シュヴァルベ様の声が少しだけ強くなる。


「出るからには、優勝を目指します」


「ゆ、優勝」


声がひっくり返った。


かなり情けない音が出た。


シュヴァルベ様は表情を大きく崩さなかった。


「賞金が目的なら、上位に入らなければ意味がありません。中途半端に参加して終わるなら、危険を負う理由が薄い。安全を守りながら、勝ちに行きます」


安全を守りながら、勝ちに行く。


両方。


そんなことができるのだろうか。


私には、その二つは別々の場所にあるように思える。


安全を取れば勝てない。


勝とうとすれば危ない。


でも、シュヴァルベ様は両方を見る。


隊長として、たぶんそういう人なのだ。


「が、頑張ります」


「頑張るだけでは足りません」


「はい」


厳しい。


かなり厳しい。


でも、嫌な厳しさではなかった。


シュヴァルベ様は端末に大会要項を映し直す。


「二人一組の模擬戦に出るとして、精密操作、基本動作、連携、模擬戦運用の総合点になります。あなたは制御の細かさに優れていますが、基礎体力と継続負荷に不安があります」


「はい。あります」


そこは自信を持って言える。


体力はない。


ない自信がある。


「まず基礎体力の補強が必要です。短期間で劇的に伸びるものではありませんが、呼吸の乱れと集中の切れを抑える訓練はできます」


「はい」


「次に、バディとしての連携。私が支援として後ろから指示を出します。あなたはその指示を聞いて動く。赤い点を見ても勝手に追わない」


胸が冷える。


赤い点。


追わない。


「はい」


「あなたが怖い時ほど、私を頼ってください」


私は少しだけ目を伏せた。


頼る。


また、その言葉。


「……はい」


「返事が遅れました」


「す、すみません」


「謝ることではありません。難しいことを求めている自覚はあります」


シュヴァルベ様は静かに言った。


「ですが、あなたが一人で戦おうとするなら、私はバディにはなれません」


その言葉は、まっすぐだった。


厳しくて、正しい。


「プラットさん。あなたが必要としているのは、賞金だけではないはずです」


「え?」


「一人で抱え込まずに、誰かと戦う形です」


息が止まりかけた。


心の中を見られたような気がした。


でも、シュヴァルベ様の目は穏やかだった。


私の奥まで踏み込んでくるというより、目の前にある事実を拾っている目。


「だから条件です。私を頼ること」


私は手を握った。


頼る。


難しい。


怖い。


断られるよりも、受け入れられる方が怖い時がある。


受け入れられると、その分、失うことが怖くなる。


でも、ここで頷かなければ、何のために来たのかわからない。


「頼ります」


声は小さかった。


でも、言えた。


「ユンカース様を、バディとして頼ります」


シュヴァルベ様は頷いた。


「よろしいです」


少しだけ、胸の奥が軽くなった。


少しだけ。


そのすぐあとに、別の重さが来た。


大会。


人形。


模擬戦。


優勝。


頼ると決めたからといって、怖くなくなるわけではない。


むしろ、いよいよ本当に近づいてしまった気がした。


「セスナ教官とボーイング補助員には、こちらからも申請します」


シュヴァルベ様が言う。


「大会参加には学園の許可が必要です。追加訓練を行う場合も、教官または補助員の監督が必要になります」


「はい」


「理由を聞かれるでしょう。どこまで話すかは、あなたが決めてください。ただし、嘘は避けた方がいい」


「はい」


嘘。


私は少し考えた。


ハネダ亭のことを全部言う必要はないかもしれない。


でも、賞金が必要なことは言うべきだと思った。


隠すと、また一人で抱え込む形になる。


「賞金が必要だと、言います」


「わかりました」


「ハネダ亭のことも、必要な範囲で話します」


「それがよいと思います」


シュヴァルベ様は端末に申請項目を開いた。


「大会種目は二人一組。個人戦には申請しません」


「はい」


「役割は、私が支援。あなたが前衛寄りの精密操作担当。ただし、訓練結果によって調整します」


前衛寄り。


その言葉だけで指先が冷える。


でも、一人ではない。


支援として後ろにシュヴァルベ様がいる。


その声を聞く。


追わない。


戻る。


「プラットさん」


「はい」


「怖いですか」


私は一瞬だけ迷って、それから頷いた。


「怖いです」


「では、怖いまま進めましょう」


怖いまま。


その言葉に、胸が少しだけ揺れた。


怖さを消してからではない。


怖くないふりをして進むのでもない。


怖いまま、誰かに頼って進む。


そんな方法があるのだと、私はまだ少ししか知らない。


でも、知り始めている。


「はい」


私は頷いた。


「お願いします、ユンカース様」


「こちらこそ、よろしくお願いします。プラットさん」


シュヴァルベ様は手を差し出した。


一瞬、何をすればいいのかわからなかった。


握手。


そう気づくのに、少し時間がかかった。


私は慌てて手を出す。


シュヴァルベ様の手は、温かかった。


強く握られすぎることもなく、弱すぎることもない。


バディとしての握手。


そう思ったら、指先の冷たさが少し和らいだ。



セスナ教官への申請は、予想通り簡単ではなかった。


演習棟の教官室で、セスナ教官は端末の申請書を見て、眉間に皺を寄せた。


「ユンカース、プラット。王都記念杯に出る理由を言え」


シュヴァルベ様は背筋を伸ばしたまま答えた。


「人形操作とバディ連携の実践経験を積むためです」


嘘ではない。


たぶん、とても整った理由だ。


セスナ教官の視線が私に向く。


「プラット」


「はい、セスナ教官」


「お前の理由は」


逃げられない。


私は手を握った。


「賞金が必要です」


言った瞬間、空気が少しだけ止まった気がした。


でも、言い切った。


「私がアルバイトをしているハネダ亭という店が、再開発の契約問題で困っています。賞金で全部を解決できるわけではありません。でも、時間を稼ぐ助けになるかもしれません」


セスナ教官は黙っていた。


怒られるかと思った。


学生が金のために人形大会へ出るのか、と。


軍学校を何だと思っている、と。


でも、セスナ教官はすぐには何も言わなかった。


端末の大会要項を確認し、次に私たちを見た。


「個人戦には出ないんだな」


「はい、セスナ教官」


「バディ戦のみか」


「はい」


「ユンカース」


「はい、セスナ教官」


「プラットの状態管理を優先できるか。勝つために無理をさせるなら許可は出さない」


「できます」


シュヴァルベ様の返事は迷いがなかった。


「勝つことは目指します。しかし、プラットさんの状態が危険だと判断した場合は中止を優先します」


セスナ教官は私を見る。


「プラット」


「はい」


「ユンカースが止めたら止まれるか」


胸が少し固くなる。


止まれるか。


赤い点を見ても。


賞金が必要でも。


ハネダ亭が危なくても。


「止まります」


声は小さくなりかけた。


でも、最後まで出した。


「止まるために、ユンカース様にお願いしました」


セスナ教官の目が、少しだけ鋭くなる。


でも、怒っているようではなかった。


「理由は理解した」


それから、端末に何かを入力する。


「条件付きで申請を受理する。正式許可はボーイング補助員の確認後だ。追加訓練は教官または補助員の監督下。魔力流量に異常が出た場合は即中止。プラットは個人戦に出ない。ユンカースはバディとしてプラットの状態管理を優先しろ」


「はい、セスナ教官」


「はい、セスナ教官」


声が重なった。


セスナ教官は最後に、少しだけ低い声で言った。


「賞金のために大会へ出ること自体は否定しない。だが、人形は金を拾う道具ではない。乗るなら、その危険も責任も持て」


胸に重いものが落ちる。


「はい」


私は頷いた。


「覚えておきます」



ボーイング補助員への確認は、別室で行われた。


ボーイング補助員は私の訓練記録を見て、やっぱり少し眉を寄せた。


「プラットさんは、魔力流量の揺れが出やすいです。緊張状態でリンク深度が深くなりすぎる傾向もあります」


「はい、ボーイング補助員」


「大会は公開環境です。観客、音、視線、普段と違う緊張があります。学内訓練と同じとは考えないでください」


「はい」


「ユンカースさん」


「はい」


「支援役として、プラットさんの魔力流量、反応遅れ、過集中の兆候を必ず確認してください」


「承知しました」


「プラットさん」


「はい」


「異常があれば申告してください。大丈夫です、ではなく、具体的に」


大丈夫です。


また封じられた。


私の大丈夫は、最近あちこちで包囲されている。


「はい。怖い、苦しい、指先が冷たい、視界が狭い、など、具体的に申告します」


ボーイング補助員は少しだけ頷いた。


「よろしいです」


それから端末に承認印を入れた。


「条件付きで追加訓練を許可します。無理はしないこと」


「はい、ボーイング補助員」


許可が出た。


出てしまった。


嬉しいのか、怖いのか、よくわからない。


たぶん両方。


私はシュヴァルベ様と一緒に演習棟を出た。


廊下には人が少ない。


窓の向こうで、訓練場の照明が白く光っている。


あの先に、人形がある。


大会がある。


戦うことに近い場所がある。


「プラットさん」


シュヴァルベ様が言った。


「これで、あなたは一人ではありません」


私は足を止めかけた。


一人ではない。


その言葉が、胸の中で静かに広がる。


「はい」


私は頷いた。


「頼ります。ユンカース様を」


「ええ。頼ってください」


その返事は短かった。


でも、確かだった。


私はハネダ亭の暖簾を思い出した。


大将の声。


女将さんの手。


まかないの湯気。


白くて冷たい書類。


立ち退きという言葉。


怖いものは、まだ何も消えていない。


大会も怖い。


人形も怖い。


目立つのも怖い。


でも、私は一人で何とかしようとしているわけではない。


誰かに頼って、戦うことを選んだ。


それは、私にとって、とても大きなことだった。


胸の奥はまだ冷たい。


でも、その冷たさの中に、小さな温かさもあった。


私はその両方を抱えたまま、シュヴァルベ様の隣を歩いた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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