賞金
ご覧いただきありがとうございます。
私は、今までならきっと一人で抱え込んでいた。
ハネダ亭のこと。
立ち退きのこと。
あの白くて冷たい書類のこと。
大将と女将さんが、私を守るために「関係ない」と線を引いてくれたこと。
そして、その線の向こう側に残された二人の背中が、いつもより少し小さく見えたこと。
全部、自分の中に押し込んで、どうにかしようとしたと思う。
誰にも言わずに。
誰にも頼らずに。
自分で調べて、自分で動いて、自分で何とかしようとしたと思う。
できることなんて、きっとほとんどないのに。
それでも、誰かに話せば迷惑になる気がした。
誰かの時間を奪う気がした。
困っていると言った瞬間、その困りごとが相手の荷物になってしまう気がした。
私はずっと、そうやってきた。
でも、女将さんは言った。
一人で抱え込まないこと。
話す相手がいるなら話しな。
潰れるのは、うちの望むところじゃない。
だから私は、話すことにした。
食堂の端の席。
いつもより少し人の少ない時間を選んで、私はセシリアさん、ミリア、トムにハネダ亭であったことを話した。
声は途中で何度か小さくなった。
でも、止めなかった。
地上げ屋らしい男たちが来たこと。
再開発の契約精査だと言われたこと。
古い借地契約に不備があるかもしれないと言われたこと。
期限までにお金を用意できなければ、立ち退き手続きに進むと言われたこと。
大将と女将さんが、私を奥へ行かせたこと。
関係ないと言われたこと。
そこまで話すと、トムが唇を結んだ。
普段の明るい顔ではない。
ミリアは腕を組んで、じっと考えている。
セシリアさんは、私の話を最後まで遮らずに聞いてくれた。
「ローレさん」
セシリアさんの声は、いつもより少し低かった。
「その書類の内容は、確認できますか」
「私は詳しくは見ていません。大将と女将さんが持っています。ただ、男の人たちは正式な手続きだと言っていました」
「正式、ですか」
セシリアさんが小さく息を吐く。
「やり方が悪質でも、契約上の根拠がある場合は厄介です」
厄介。
その言葉が、胸に重く落ちる。
「ヒースロー家に確認できる範囲で問い合わせてみます。古い借地契約や再開発に伴う負担金について、似た例がないか調べてもらえると思います」
「いいんですか、セシリアさん」
「もちろんです。大将さんと女将さんには、私もお世話になりましたから」
大将さん。
女将さん。
セシリアさんが丁寧にそう呼ぶと、胸の奥が少し温かくなった。
ハネダ亭は、私だけの場所ではない。
トムも知っている。
ミリアも知っている。
セシリアさんも一緒に行ってくれた。
それが、少し心強かった。
「俺も商会の方で聞いてみる」
トムが言った。
「食材の取引もあるし、再開発地区の商いの噂くらいなら拾えるかもしれない」
「トム、無茶はしないで」
ミリアがすぐに言う。
「わかってる。父さんにいきなり金出してくれって言うとかはしない」
「言いそうだったから先に言った」
「言わないって。商会は簡単に資金を出せるわけじゃない。貸すにしても理由と回収の見込みがいる。店が好きだから、だけじゃ動かせない」
トムの声は真面目だった。
商会の次男。
いつもの明るさの奥に、商売の家の人としての現実がある。
それが少し新鮮で、少しだけ寂しかった。
好きだから助けたい。
それだけで全部が動けばいいのに。
動かない。
世界はそういうふうにはできていない。
「契約自体が違法なら止められる可能性がある。でも、相手はたぶんそこを外してくる」
ミリアが言った。
「表向きは合法。書類も整えて、期限も設定して、手続きも踏む。だから面倒なんだと思う」
「はい……」
私は膝の上で手を握った。
「では、どうすれば」
セシリアさんが端末を開く。
「異議申し立てを行うには、まず古い契約書が必要です。先代からの契約なら、原本か写しを探さなければなりません。相手の計算根拠も崩す必要があります。補修義務や負担金の算定が妥当かどうか。それを確認するには時間がかかります」
時間。
その言葉も重い。
「時間を稼ぐには、お金が必要になる可能性が高いです」
セシリアさんは静かに続けた。
「初回納付を行えば、すぐの立ち退き手続きは避けられるかもしれません。もちろん、それで根本的に解決するわけではありませんが」
結局、お金。
私は息を吐いた。
お金は、いつも大事なところに立っている。
髪染め代も。
お菓子代も。
ハネダ亭のことも。
同じお金という言葉なのに、重さが違いすぎる。
「資金集めの方法はいくつかあります」
セシリアさんが指を折る。
「寄付。支援者探し。商会からの短期借入。常連の方々の協力。再開発への異議を持つ周辺店舗との連携」
「ただ、どれもすぐに十分な額が集まるとは限らない」
ミリアが続けた。
「それに、相手が嫌がらせもしてくるなら、表立って協力するのを怖がる人もいるかもしれない」
「ハネダ亭は愛されてる店だけど、常連だけで簡単にどうにかなる金額じゃなさそうだしな」
トムが苦い顔をする。
私は鞄に手を伸ばした。
三人が話している間、ずっと頭の隅にあったもの。
ブラックワーク。
封印したはずの求人誌。
高額時給のページ。
全額が賄えるわけではない。
きっと、どうにもならない。
それでも、少しは。
私がもっと働けば。
もっと、たくさん働けば。
「ローレ」
ミリアの声が鋭くなった。
私はびくっとした。
まだ鞄を開けてもいないのに。
「今、ブラックワークを出そうとしたでしょ」
「……少しだけ」
「駄目」
即答。
前より速い。
「でも、少しでもお金が」
「駄目」
「危ない求人は避けます」
「その判断ができないから止めてるの」
ミリアの声が少し強くなった。
怒っている。
でも、私を責める怒りではない。
「ローレ、自分を安く見積もりすぎ。少しでもお金になるなら、自分が危ない場所に行ってもいいって考えてるでしょ」
胸が詰まった。
言い返せなかった。
その通りだったから。
私一人なら。
少しくらいなら。
危なくても、役に立てるなら。
そう考えていた。
「ローレさん」
セシリアさんが、静かに言った。
「ハネダ亭を守りたい気持ちはわかります。でも、大将さんと女将さんは、ローレさんが危ない働き方をして得たお金を喜ばないと思います」
「そうだぞ」
トムも言う。
「大将も女将さんも、絶対怒る。特に女将さん、めちゃくちゃ怒る」
想像できた。
とてもできた。
ローレ、と低い声で呼ばれる。
困った時は困ったって言いな、と言っただろう。
自分を粗末にするんじゃないよ。
たぶん、そんなふうに怒られる。
私は鞄から手を離した。
「……すみません」
「謝るより、やらない」
ミリアが言う。
「はい。やりません」
「よし」
ミリアはまだ少し怒っていた。
でも、すぐに息を吐いた。
「ごめん。きつく言った」
「いいえ。止めてくれて、ありがとうございます」
本当にそう思った。
一人なら、きっと求人誌を開いていた。
危ないかもしれないとわかっていても、少しは、と思ってしまった。
相談してよかった。
一人で抱え込まなくてよかった。
そう思えること自体が、少し不思議だった。
前なら、誰かに話しても迷惑をかけるだけだと思っていた。
今も、そう思う気持ちはある。
でも、話したことで止まれた。
それは、たぶん大事なことだった。
放課後、私たちは掲示棟の前を通りかかった。
学園の掲示棟には、授業予定や訓練告知、部活動、学外イベント、許可された求人、商会の依頼などが貼り出されている。
大きな透明板が何枚も並び、更新された情報は光る文字で表示される。
紙の掲示も残っていて、古いものと新しいものが混ざっていた。
私は普段、あまり見ない。
見ても、私に関係ありそうなものは少ないから。
部活動に入る余裕はない。
学外イベントに参加する勇気もない。
商会の依頼は難しそう。
求人は、ハネダ亭で働いているから今は見なくていい。
そう思いながら通り過ぎようとした時、一枚の大きな告知が目に入った。
赤い縁取り。
金色の文字。
人形のシルエット。
私は足を止めた。
王都記念杯・学生人形使いトーナメント。
王立宇宙軍士官学園協力。
学外公開模擬戦大会。
個人戦。
二人一組の模擬戦。
精密操作競技。
総合得点による表彰。
そして、優勝賞金。
大きい。
とても大きい。
ハネダ亭の初回納付に届くほどではない。
たぶん、届かない。
でも、私がブラックワークの高額求人をいくつも回るより、ずっと大きい。
比べものにならない。
「学生人形使いトーナメント……」
ミリアが読み上げた。
「これ、毎年やってるやつだ。公開模擬戦で、貴族とか商会とか軍関係者も見に来るって聞いたことある」
トムも掲示を見上げる。
「ああ、知ってる。王都記念杯ってやつだろ。学生でも出られるけど、結構目立つぞ」
目立つ。
その言葉で、胸がきゅっとなる。
私は目立ちたくない。
本当に目立ちたくない。
でも、掲示の賞金額から目が離せなかった。
「ローレさん」
セシリアさんの声が少し硬くなった。
「これは人形戦の大会です」
「はい」
「公開模擬戦とはいえ、危険がないわけではありません」
「はい」
わかっている。
人形戦。
模擬戦。
訓練機。
ソード。
赤い警告。
全周囲モニター。
魔力の糸。
私は戦うのが嫌いだ。
人形使いになりたいわけではない。
むしろ、できれば一生避けたい。
人形に乗るたび、指先が覚えているものが起き上がる。
マーリンの記憶が、私の前に出ようとする。
落とせる。
避けられる。
読める。
そういう感覚が、私をローレッタから遠ざける気がする。
だから怖い。
戦うのは怖い。
目立つのも怖い。
でも、掲示の数字から目を離せなかった。
守りたい場所がある。
ハネダ亭。
大将の声。
女将さんの手。
まかないの湯気。
皿より手が大事だと言ってくれた場所。
そこを守るために、お金がいる。
そして目の前に、お金を得る方法がある。
危険で。
目立って。
私が一番避けたいものに近い方法。
「ローレ」
ミリアが私の顔を覗き込んだ。
「考えてるでしょ」
「……はい」
嘘はつけなかった。
「個人戦は駄目だよ」
トムがすぐに言う。
「賞金高いけど、負担も目立ち方も全然違う」
「二人一組もあるんですね」
私は掲示の下段を見る。
二人一組の模擬戦。
個人戦より賞金は低い。
でも、支援競技や精密操作の加点もある。
戦闘だけではない。
それでも、人形戦であることに変わりはない。
「ローレさん、決める前に大将さんと女将さんに相談してください」
セシリアさんが言った。
「勝手に進めてはいけません」
「はい」
それは、その通りだった。
ハネダ亭を守るためだと言って、勝手に大会へ出る。
それはたぶん、大将と女将さんを困らせる。
怒らせる。
心配させる。
私はもう、一人で抱え込まないと約束した。
「相談します」
私は掲示をもう一度見た。
王都記念杯。
学生人形使いトーナメント。
人形のシルエットが、金色の文字の下で立っている。
怖い。
でも、目を逸らせなかった。
ハネダ亭の暖簾をくぐる時、足が少し重かった。
働きに行く時の重さとは違う。
怒られるかもしれないとわかっている時の重さ。
かなり重い。
店はまだ開店前で、大将が仕込みをしていた。
女将さんは帳面と端末を見比べている。
あの書類も、カウンターの端に置かれていた。
白い。
冷たい。
私は前掛けをつける前に、二人の前に立った。
「大将、女将さん。少し、お話があります」
大将が顔を上げる。
「どうした、ローレちゃん」
女将さんもこちらを見る。
「また大丈夫って言う顔じゃないね」
「はい。大丈夫では、ないです」
言えた。
女将さんの目が少しだけ柔らかくなる。
私は鞄から、掲示を写した端末画面を出した。
王都記念杯・学生人形使いトーナメント。
それを見せる。
「これに、出ることを考えています」
大将の手が止まった。
女将さんの表情が、すぐに変わる。
「駄目だね」
早い。
ミリアより少し遅いけれど、かなり早い。
「まだ何も」
「聞かなくても駄目」
女将さんの声は低かった。
「人形戦の大会だろう。危ない」
「模擬戦です」
「模擬でも危ない」
「安全管理はあると思います」
「思います、で出るものじゃない」
返す言葉がない。
本当に、その通りだ。
大将も、珍しく難しい顔をしている。
「ローレちゃん、気持ちはありがたい。でも、うちのことでローレちゃんが危ないことをするのは違う」
「でも、お金が必要です」
「それは大人の問題だ」
「私も、ここで働いています」
また、その言葉が出た。
「学生です。子どもです。何も知らないです。でも、ハネダ亭で働いています。まかないを食べています。お給料もいただきました。だから、何もしないのは嫌です」
声が震える。
でも、目は逸らさなかった。
「戦うのは嫌いです。人形に乗るのも怖いです。目立つのも嫌です。でも、ハネダ亭をなくしたくないです」
言ってしまった。
自分から戦いに近づく言葉。
口にした瞬間、胸が冷えた。
私は本当に、これを言っているのだろうか。
戦いたくないのに。
避けたいのに。
怖いのに。
でも、言葉は戻らない。
大将と女将さんは黙っていた。
しばらく、仕込みの鍋が小さく音を立てるだけだった。
女将さんが、長く息を吐いた。
「……ローレ」
「はい」
「私は反対だよ」
「はい」
「でも、あんたが考えもせず言ってるわけじゃないのは、わかった」
胸の奥が少し動く。
女将さんは腕を組んだ。
「条件がある」
「条件、ですか」
「無理はしない。無理だと思ったらすぐに辞める。具合が悪くなったら隠さない。これは絶対」
「はい」
「個人戦には出ない」
「はい」
そこは自分でも怖かった。
個人戦は、賞金が高い。
でも、ひとりになる。
ひとりだと、私は止まれないかもしれない。
マーリンの感覚が前へ出るかもしれない。
「信頼できる人とバディを組むこと」
大将が続けた。
「ローレちゃんをちゃんと止められる人だ。無理するなって言える人。勝つことより、ローレちゃんを戻すことを優先できる人」
バディ。
私はすぐにセシリアさんの顔を思い浮かべた。
でも、セシリアさんは支援向きだ。
私と組めば、たぶん私が前衛になる。
それは危ない。
ミリアは分析ができる。
でも、トムと組む形が自然だし、ミリア自身も人形操縦の負担は大きい。
トムは前衛向き。
でも、私を止めるというより、一緒に前に出そうだ。
いや、トムは成長している。
でも、女将さんの条件には少し違う。
私を止められる人。
勝つことより、私を戻すことを優先できる人。
その時、頭に浮かんだのはシュヴァルベ様だった。
淡い金色の髪。
まっすぐな声。
隊長機としての指示。
怖いものを怖いまま見られるなら、それは強さの一つだと言ってくれた人。
シュヴァルベ様なら、止めてくれるかもしれない。
でも。
同時に、ルイーゼ様の冷たい視線も浮かんだ。
シュヴァルベ様にお願いする。
きっと、ルイーゼ様に睨まれる。
怖い。
かなり怖い。
目で凍りそうだ。
「心当たりがあるのかい」
女将さんが聞いた。
私は手を握った。
「あります」
「その人は、ローレを止められる?」
少し考える。
シュヴァルベ様は、きっと止める。
必要なら、厳しいことも言う。
優しいだけではない。
だから。
「はい。たぶん、止めてくださいます」
「たぶん?」
女将さんの眉が上がる。
「止めてくださると思います!」
「よし」
大将が少しだけ笑った。
「じゃあ、その人に話してみな。断られたら、この話は終わりだ」
「はい」
「それと」
女将さんが私の額を軽く指で押した。
痛くはない。
でも、びしっと来た。
「あんたは一人で勝手に決めない。大会に出るにしても、学園の許可、バディの同意、店への報告。全部通すこと」
「はい」
「返事はいい」
「はい!」
女将さんは少しだけ困ったように笑った。
「まったく。戦うのが嫌いな子が、店のために大会に出たいなんて言うんだからね」
「すみません」
「謝るところじゃない」
大将が言った。
「ありがたいんだよ。だからこそ、心配なんだ」
ありがたい。
心配。
その二つが一緒に来ると、どう受け取ればいいのかわからなくなる。
私は頭を下げた。
「ありがとうございます。ちゃんと、相談します」
「うん」
女将さんが頷く。
「それで、無理ならやめる」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「ローレは返事がいいからねぇ」
疑われている。
でも、仕方ない。
私は大丈夫ですの前科が多い。
「約束します」
そう言うと、女将さんはしばらく私を見て、ようやく頷いた。
「なら、まかないは食べていきな」
「えっ、まだ働いて」
「話をしたら腹が減る」
大将が笑う。
「食べてから考えた方がいい」
ハネダ亭らしい。
大事な話のあとに、食べなさいが来る。
私は少しだけ笑った。
「はい。いただきます」
その返事は、自分でも少し温かかった。
学園へ戻る道で、私はずっと考えていた。
シュヴァルベ様にお願いする。
バディになってください、と。
それは、とても大きなことだった。
シュヴァルベ様は侯爵家令嬢で、隊長としての能力もある。
きっと王都記念杯に出れば注目される。
そんな人に、私の個人的な事情で頼む。
ハネダ亭を助けるために。
お金のために。
人形戦に出るために。
迷惑ではないだろうか。
分不相応ではないだろうか。
ルイーゼ様は、きっとそう思う。
プラットさんは、またシュヴァルベ様に近づくのですね。
そんな声が聞こえた気がした。
怖い。
怖いけれど、逃げたら何も始まらない。
私は戦うのが嫌いだ。
人形で誰かを傷つけたくない。
目立ちたくない。
できれば、ずっと普通にしていたい。
でも、ハネダ亭を守りたい。
誰かを守るためなら、嫌いなものにも近づかなければならない時があるのかもしれない。
それが正しいのかは、まだわからない。
マーリンの記憶は、戦うことを知っている。
でも、私はマーリンではない。
私はローレッタだ。
だから、これはマーリンの戦いではない。
ハネダ亭の暖簾と、まかないと、大将と女将さんの声を守りたいと思った、私の選択だ。
怖いまま、私は歩いた。
戦うのは嫌い。
でも、守りたい場所がある。
そのために、自分から戦いに近づこうとしている。
まずは、シュヴァルベ様を説得しなければならない。
そのことを考えるだけで、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
それでも、足は学園へ向かっていた。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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