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立ち退きの書類

ご覧いただきありがとうございます。

ハネダ亭は、王都の中で少しだけ時間の流れが違う場所だった。


再開発地区の通りは、いつ見てもぴかぴかしている。


硝子張りのオフィス。


白い石の歩道。


店先に並ぶ、細い足の椅子。


何語かわからない名前の飲み物を出すカフェ。


その中で、ハネダ亭だけは、少し古い。


少し汚れた暖簾。


商い中の木の立て札。


磨かれてはいるけれど、角の丸くなったカウンター。


大将の大きな声。


女将さんの飛んでくる声。


私はその古さが好きだった。


きれいすぎる場所は、少し緊張する。


足跡をつけてはいけない気がする。


そこに私が立つと、何かを汚してしまうような気がする。


でも、ハネダ亭は違う。


卓を拭けばきれいになる。


皿を洗えばまた使える。


汚れた手は洗えばいい。


声が小さければ、もう一回と言われる。


失敗しても、終わりではない。


それは、私には少し不思議で、少し温かい場所だった。


「ローレ、四番卓、茶!」


「はい、女将さん!」


私は湯飲みを盆に乗せて、四番卓へ向かった。


最近は、ハネダ亭での動きにも少し慣れてきた。


少しだけ。


本当に少しだけ。


注文を聞く。


配膳する。


卓を拭く。


皿を下げる。


皿洗いをする。


熱い皿は無理をしない。


困ったら困ったと言う。


女将さんに何度も言われたことを、私は頭の中に並べている。


忘れるとすぐ、大丈夫です、と言ってしまうから。


「お茶です。熱いのでお気をつけください」


「ありがとよ、看板娘」


常連のお客さんが笑う。


「か、看板娘では」


「まだ慣れないか」


「かなり」


「正直でいいなぁ」


お客さんが笑い、大将も厨房の奥で笑った。


「ローレちゃんはまだ照れるからいいんだよ。慣れすぎると客を転がすようになる」


「大将」


女将さんの声が飛ぶ。


「妙なこと教えない」


「ナツ、俺は何も教えてないぞ」


「顔が教えてる」


「顔かぁ」


大将は自分の頬を撫でた。


店の中に、軽い笑いが広がる。


私はその笑いの中で、少しだけ肩の力を抜いた。


忙しいけれど、嫌ではない。


ハネダ亭は戦場ではない。


でも、夕飯時の店は、やっぱり戦場に近い何かだ。


飛んでくるのは砲弾ではなく注文。


鳴るのは警告音ではなく鍋の音。


赤い点ではなく、お客さんの手が上がる。


「ローレちゃん、五番卓、煮込み二つ!」


「はい、大将!」


私は返事をして、カウンターへ向かう。


皿を受け取る。


熱いかどうかを確かめる。


熱ければ布を使う。


手を火傷する前に。


皿を割る前に。


女将さんの声が、もう私の中に少し住み着いていた。


いいことなのだと思う。


たぶん。


そんなふうに店がいつもの音で満ちていた時、引き戸が開いた。


「いらっしゃいませ!」


私は反射的に声を出した。


入ってきたのは、三人の男だった。


服がきれいだった。


王都のオフィス街にいるような、仕立ての良い上着。


手袋。


細い端末ケース。


靴も磨かれている。


ハネダ亭のお客さんとしては、少しだけ浮いていた。


でも、この地区にはオフィスも多い。


そういう人が入ってきてもおかしくはない。


おかしくはない、はずだった。


男たちはにこやかだった。


礼儀正しく、笑っている。


なのに、店の空気が少し変わった。


大将の鍋を動かす手が止まる。


女将さんの顔から、さっと笑みが消える。


私は盆を持ったまま、少しだけ動きが遅れた。


「ハネダ亭様ですね」


先頭の男が言った。


声は柔らかい。


きちんとした発音。


「このようなお忙しい時間に失礼いたします」


「客なら席へどうぞ」


女将さんが言った。


声はいつものように強い。


でも、少し低かった。


「ご用件なら、店が閉まってからにしてもらえるかい」


「ええ、本来であればそうすべきところなのですが」


男は申し訳なさそうに眉を下げた。


上手な表情だった。


「期日の関係で、どうしても確認だけ先にさせていただきたく」


「客がいるんだ」


大将がカウンターの奥から出てきた。


いつもの大きな声ではない。


低くて、重い声。


「話ならあとにしてくれ」


「ごもっともです。ですが、これは営業許認可にも関わる確認でして」


営業許認可。


言葉が難しい。


私は五番卓へ煮込みを運ばなければならないことを思い出し、慌てて動いた。


「お待たせしました。煮込みです」


皿を置く。


こぼさない。


手を火傷しない。


戻る。


でも、耳は男たちの声を拾ってしまう。


「この地区の土地権利および営業許認可に関し、いくつか確認すべき点が見つかりました」


「うちは正規に借りて、正規に営業してる。税も払ってるよ」


女将さんが即座に言った。


「もちろん、現時点ではそのように記録されています」


男は笑ったままだった。


現時点では。


その言い方が、少し冷たかった。


私は意味を全部はわからない。


でも、危ない話だということはわかった。


プラット家でも、父が難しい書類を見ている時の空気があった。


お金。


権利。


契約。


そういう言葉は、声を小さくしても重い。


「ですが、先代から引き継がれた借地契約の一部に、不備がある可能性が確認されまして」


「不備?」


大将の声がさらに低くなる。


「ええ。建物補修義務、周辺道路整備負担金、そして営業継続に伴う再評価分の納付義務です」


わからない。


言葉の一つ一つは聞こえる。


でも、意味が遠い。


建物補修。


道路整備。


再評価分。


納付義務。


どれも、皿の熱さよりずっとつかみにくい。


それでも、わかる。


この人たちは、ハネダ亭に何かを払えと言っている。


「そんな話、今まで一度も聞いてないよ」


女将さんが言う。


「古い契約ではよくあることです」


男は端末を操作した。


空中に書類が表示される。


細かい文字。


表。


印章。


古い契約書らしい画像。


「長年、見落とされていたのでしょう。ですが、再開発に伴い、全契約の精査が行われます。ハネダ亭様の場合、未納分および補修義務相当額を含めますと……」


そこで、男は金額を口にした。


私は皿を落としそうになった。


落とさなかった。


本当に、落とさなかった。


でも、手が止まった。


持っていた空の皿が、かた、と小さく鳴る。


金額は大きかった。


私の髪染め代どころではない。


お菓子を我慢すればどうにかなる額でもない。


店が一つ、軽く潰れるような金額だった。


いや、軽くなんてない。


重い。


とても重い。


「馬鹿言うんじゃないよ」


女将さんの声が低くなった。


「そんな金、急に払えるわけないだろう」


「分割も可能です」


男はあくまで丁寧だった。


「ただし、期限までに初回納付が確認できない場合、契約不履行として立ち退き手続きに移ります」


立ち退き。


その言葉で、胸の奥が冷たくなった。


ハネダ亭が、なくなる。


頭がすぐには理解しなかった。


なくなる。


この店が。


暖簾がなくなる。


木の立て札がなくなる。


カウンターがなくなる。


大将の鍋の音が聞こえなくなる。


女将さんの声が飛んでこなくなる。


まかないの湯気が消える。


そんなことがあるのだろうか。


あっていいのだろうか。


「再開発に伴う正式な手続きです。もちろん、当方としても円満な解決を望んでおります」


円満。


その言葉が、店の空気に合っていなかった。


お客さんたちは黙っている。


さっきまで笑っていた人も、湯飲みに手を置いたまま動かない。


店内の和やかな匂いが、急に冷えた気がした。


煮込みの匂いも、湯気もある。


それなのに、冷たい。


「円満ってのは、客のいる時間に押しかけてくることかい」


女将さんが言う。


「ご不快に思われたなら謝罪いたします」


男は頭を下げた。


丁寧に。


きれいに。


でも、引かない。


帰らない。


そこが怖かった。


怒鳴る人より、笑って動かない人の方が怖いことがある。


私はそれを知っている。


家でも、声を荒げない命令ほど、逃げ場がない時があった。


先頭の男の視線が、ふとこちらへ向いた。


私は皿を持ったまま固まる。


その目は、私の顔から制服へ、そして手元へ動いた。


値踏みするような視線。


ぞわりと背中が冷える。


「可愛らしいお嬢さんですね」


男がにこりと笑う。


「あなたは宇宙軍士官学園の学生さんかな?」


足がすくんだ。


声が出ない。


ただ聞かれただけ。


そう思う。


でも、その視線はただの質問ではなかった。


私がどこの学生か。


誰とつながっているか。


どれくらい使えるか。


そういうことを、笑顔で測っている気がした。


「バイトの子だ」


大将が私の前へ一歩出た。


「この子は関係ない」


関係ない。


その言葉が胸に引っかかった。


守ってくれている言葉だ。


わかる。


私を巻き込まないための言葉。


それなのに、少し痛かった。


関係ない。


私はここで働いている。


まかないを食べた。


お給料をもらった。


女将さんに、実の娘みたいに食べさせると言われた。


でも、関係ない。


守るための線。


その線が、急に私と店の間に引かれたように感じた。


「ローレちゃん、奥へ」


大将が言った。


声は強い。


逆らえない声だった。


「はい」


私はすぐに従った。


皿を置き、奥の控え場へ下がる。


すぐに従ったのに、足の裏が床に貼りついたみたいだった。


関係ない。


関係ない。


その言葉が頭の中で繰り返される。


奥へ入っても、店の声は聞こえた。


壁一枚。


引き戸一枚。


それだけでは、冷たい話は遮れない。


「こちらはオービット都市整備管理から正式に委託を受けております」


男の声。


「書類も、通知も、すべて規定に則ったものです」


「規定に則ってるなら、なんで客の前で話すんだい」


女将さんの声。


「早期のご理解をいただくためです」


「脅しだろう」


大将の声がした。


低い。


静か。


「いいえ。ご説明です」


説明。


ご理解。


円満。


言葉はきれいなのに、店を追い詰めている。


私は控え場の小さな棚の前で、手を握った。


何かできるだろうか。


できない。


契約もわからない。


お金もない。


私はただのアルバイトだ。


王立宇宙軍士官学校の学生ではあるけれど、それで何かができるわけではない。


人形に乗れば戦えるかもしれない。


でも、これは人形で斬れるものではない。


書類。


契約。


納付義務。


そういうもので作られた壁だ。


ソードで斬ったら、たぶん余計に大変なことになる。


いや、そもそも斬ってはいけない。


「期限までに初回納付が確認できない場合、立ち退き手続きに移ります」


また、その言葉。


立ち退き。


胸が冷たい。


「書類を置いていきます。ご確認ください」


紙の束が置かれる音がした。


端末データだけではなく、印刷された書類。


わざとだと思った。


重さを持たせるため。


そこにある、という事実を見せるため。


「なお、任意退去に応じていただける場合は、移転支援金の対象となります。ご高齢の方には、新しい地区での営業は負担も大きいでしょう。早めのご判断をおすすめいたします」


「余計なお世話だよ」


女将さんの声が、きっぱりと返した。


しばらく沈黙。


そのあと、引き戸が開く音。


「それでは、失礼いたします」


礼儀正しい声。


店を冷たくしておいて、最後まで丁寧だった。


引き戸が閉まる。


外のざわめきが少し入って、すぐ消えた。


しばらく、誰も喋らなかった。


鍋の煮える音だけが聞こえる。


ことこと。


小さな泡が立つ音。


いつもならお腹が空く音なのに、その時は胸が詰まった。


常連のお客さんの誰かが、低く舌打ちした。


「地上げ屋か」


その言葉で、店の空気がさらに重くなる。


地上げ屋。


聞いたことはある。


再開発や土地の売買で、店や住まいを追い出す人たち。


でも、もっと乱暴な人たちを想像していた。


怒鳴る。


壊す。


脅す。


なのに、来た男たちは違った。


きれいな服で、礼儀正しく、にこやかに、書類を置いていった。


それが、余計に怖かった。


「ローレ」


女将さんの声がした。


私は控え場から顔を出す。


「はい、女将さん」


女将さんは、少しだけ笑った。


でも、それはいつもの笑顔ではなかった。


無理に作った笑顔。


私でもわかる。


「今日はここまででいい。片づけたら上がりな」


「でも」


「いいから」


大将の声がした。


強い声だった。


私は口を閉じた。


いいから。


その声には、こちらへ来るなという線があった。


私を守る線。


でも、その向こう側で大将と女将さんだけが重いものを持つのは、嫌だった。


私はカウンターの前まで歩いた。


常連のお客さんたちは、気まずそうに席を立ち始めていた。


誰も大きな声を出さない。


支払いをして、小さく「また来る」と言って出ていく。


その言葉も、少し重かった。


また来る。


でも、店がなくなったら。


私は考えたくなくて、手を握った。


「大将、女将さん」


二人がこちらを見る。


「何か、できることはありませんか」


女将さんが少し目を細めた。


「学生が気にすることじゃないよ」


「でも」


「でもじゃない」


女将さんの声が、少し強くなる。


「あんたは学園に戻って、寝て、授業に出る。それが仕事だ」


仕事。


私は一瞬、黙った。


学園に通うこと。


訓練を受けること。


それが私の仕事。


わかる。


わかっている。


でも。


「私、ここでも働いています」


言葉が、思わず出た。


自分でも少し驚いた。


大将も女将さんも黙った。


私は手を握った。


指先が少し冷たい。


でも、言ってしまったなら、続けるしかない。


「役に立てることは、少ないです。契約のことも、お金のことも、私はよくわかりません。でも、何かあるなら言ってほしいです」


声が震えた。


それでも、止めなかった。


「私は、ここで働いています。大将と女将さんに、食べさせてもらっています。お給料もいただきました。だから、関係ない、だけでは……」


そこまで言って、言葉が詰まった。


関係ない。


それは私を守る言葉だった。


否定したいわけではない。


でも、完全に線を引かれると、胸が痛い。


温かい場所が危ない時に、奥へ下がって何も聞こえないふりをするのは、もっと痛い。


女将さんが静かに近づいてきた。


私は怒られるかと思った。


学園に戻れと言われるかと思った。


でも、女将さんは私の頭にぽんと手を置いた。


大きな手だった。


温かい。


「ありがとう」


それだけだった。


それだけ。


でも、その一言が胸に落ちた。


重くて、温かくて、苦しい。


大将は書類を見下ろしていた。


いつもの笑顔はない。


「ローレちゃん」


「はい」


「今は、片づけを頼む」


「……はい」


「それは助かる」


その言葉に、私は小さく頷いた。


できること。


今できること。


皿を下げる。


卓を拭く。


鍋を洗う。


書類をどうにかすることはできない。


でも、店を片づけることはできる。


私は前掛けを締め直した。


「片づけます」


「声」


女将さんが、いつものように言った。


その声が少しだけ戻っていて、私は泣きそうになった。


でも、泣かなかった。


「片づけます!」


「よし」


女将さんは頷いた。


私は皿を集めた。


空になった湯飲みを下げる。


卓を拭く。


椅子を整える。


床に落ちた小さな紙片を拾う。


いつもと同じ作業。


でも、店の中の空気は違う。


カウンターの端には、男たちが置いていった書類がある。


厚くて、白くて、冷たい。


大将も女将さんも、それを見ないようにしているようで、見ている。


私はそれを横目で見て、胸がまた冷たくなった。


表向きは合法。


そんな言葉は知らないけれど、そんな感じがした。


きれいな書類。


丁寧な言葉。


正しい手続き。


でも、やり方が汚い。


客のいる時間に来て、店の空気を壊し、金額を告げ、立ち退きという言葉を置いていく。


あれは、皿の熱さより危ない。


熱い皿なら、布を使えばいい。


でも、あの書類には何を使えばいいのだろう。


私には、まだわからなかった。



片づけが終わるころには、店の中は静かになっていた。


鍋の火も落ちている。


暖簾も内側へ入れられた。


大将が書類をまとめ、女将さんが端末で何かを確認している。


二人の背中は、いつもより少し小さく見えた。


そんなはずはない。


大将は大きいし、女将さんも強い。


でも、そう見えた。


「ローレ、帰り道は気をつけるんだよ」


女将さんが言った。


「はい」


「変な人に話しかけられても答えない。寄り道しない。学園に戻ったら、ちゃんと食べて寝る」


「はい、女将さん」


「それと」


女将さんは少し間を置いた。


「このことは、あんた一人で抱え込まないこと」


私は顔を上げた。


「でも」


「でもじゃない」


女将さんの声は、いつもの強さだった。


「抱え込んで倒れられたら困る。話す相手がいるなら話しな。学園の友達でもいい。教官でもいい。あんたが潰れるのは、うちの望むところじゃない」


潰れる。


その言葉に、胸が少し痛んだ。


私はすぐ抱え込む。


自分でどうにかしようとする。


どうにもできなくても、黙ってしまう。


それを、女将さんはもう知っているのかもしれない。


「はい」


私は頷いた。


「約束します」


「よし」


大将が、少しだけ笑った。


「ローレちゃん、ハネダ亭は簡単にはなくならないよ」


その笑顔は、いつもより少し無理をしていた。


でも、私を安心させようとしてくれているのはわかった。


「はい」


私は笑い返そうとした。


うまくできたかは、わからない。



店を出ると、再開発地区の夜の光がまぶしかった。


硝子の建物はきれいに光っている。


カフェの前では、誰かが笑っている。


小型車両が滑るように通り過ぎる。


王都は、何も変わっていないみたいだった。


ハネダ亭だけが、冷たい書類を置かれたのに。


私は暖簾の下がった店を振り返った。


商い中の立て札は、もう内側へ片づけられている。


扉の向こうには、大将と女将さんがいる。


書類もある。


立ち退き。


その言葉も。


私は鞄の紐を握った。


ハネダ亭を救いたい。


そう思った。


でも、自分に何ができるのかは、今は見当もつかない。


お金はない。


契約もわからない。


権利も、許認可も、再評価分もわからない。


わからないことだらけだ。


それでも、関係ないとは思えなかった。


関係ないと言われても、関係ないままではいられなかった。


私は歩き出した。


学園へ戻る道は、もう少しだけ覚えている。


でも、この胸の冷たさをどこへ運べばいいのかは、まだわからなかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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