まかない
ご覧いただきありがとうございます。
ハネダ亭への道は、もう少しだけ覚えた。
学園の門を出て、大通りをまっすぐ。
三つ目の案内塔を右。
硝子張りの高い建物の前を抜けて、白い石の広場を横切る。
そこから少し細い道へ入る。
最初は、トムがいなければ絶対にたどり着けないと思っていた。
今も、自信満々に一人で行けるかと聞かれたら、少しだけ目を泳がせると思う。
でも、少しだけならわかる。
たぶん。
道の途中に、青い看板のカフェがある。
角に小さな植え込みがある。
夕方になると、オフィスから出てくる人たちの流れが少し速くなる。
その流れに飲まれず、端を歩く。
王都の人は歩くのが速い。
私は小さいので、流れに巻き込まれると、わりと本気で運ばれてしまう。
人混みは怖い。
でも、ハネダ亭の暖簾が見えると、胸のあたりが少しだけほっとする。
少し汚れた暖簾。
商い中の木の立て札。
周りの綺麗な店とは少し違う、古い店構え。
そこだけ浮いている。
でも、今の私には、その浮き方が目印だった。
「お疲れさまです!」
引き戸を開けて、私はできるだけお腹から声を出した。
最初に比べると、少しは声が出るようになったと思う。
たぶん。
「おう、ローレちゃん! 来たか!」
カウンターの奥から大将の声が飛んでくる。
声が大きい。
でも、もう肩は跳ねない。
少しだけ。
「ローレ、手洗い。鞄は奥。前掛け忘れない」
女将さんの声も飛ぶ。
こちらは大きいというより、的確に飛んでくる。
矢みたいだ。
でも、刺さっても痛くない矢。
「はい、女将さん!」
私は返事をして、奥の小さな控え場へ向かった。
ハネダ亭で働き始めて、しばらく経つ。
働ける時間は短い。
学業優先。
訓練優先。
体調が悪ければ休む。
女将さんは何度もそう言う。
だから私は、放課後の短い時間だけ働いている。
それでも、ハネダ亭にいる時間はあっという間に過ぎた。
最初は、皿を持つだけで緊張した。
注文を聞く時は、声が小さいと女将さんに何度もやり直しをさせられた。
卓を拭く方向にも決まりがある。
皿洗いは、思ったより手早さがいる。
働くというのは、思っていたよりたくさんの小さなことを覚えるものだった。
そして、思っていたより忙しい。
かなり忙しい。
私は前掛けをつけ、手を洗い、髪をきちんとまとめ直した。
茶色に染めた髪。
根元が少し気になる。
でも、初めてのお給料まではもう少し。
大丈夫。
いや、女将さんの前で大丈夫を多用すると怒られる。
心の中でも少し気をつけた方がいいのかもしれない。
店へ戻ると、常連らしい男性客がこちらを見て笑った。
「お、来た来た。すっかり看板娘だな」
「か、看板娘」
私は足を止めた。
看板。
娘。
どちらも自分には似合わない気がする。
「ローレちゃんが来ると店が明るくなるからな」
「いえ、私はまだ皿を落とさないようにするので精一杯で」
「それがいいんだよ」
何がいいのかわからない。
お客さんはにこにこしている。
悪い意味ではないのだと思う。
でも、褒められるとすぐ困る。
私は笑って頭を下げた。
「ありがとうございます」
「声、まだ細いねぇ」
女将さんが横から言う。
「ありがとうございます!」
「うん、それくらい」
お客さんが笑った。
店の中は、夕飯時が近づくにつれて少しずつ騒がしくなっていく。
扉が開く。
「いらっしゃいませ!」
声を出す。
客が増える。
注文が飛ぶ。
水を出す。
卓を拭く。
皿を下げる。
大将の鍋が鳴る。
女将さんの声が飛ぶ。
「ローレ、三番卓、水!」
「はい!」
「五番卓、注文聞いて!」
「はい!」
「トムが来ても手を止めない!」
「はい!」
「いや、俺まだ来てないぞ」
誰かが笑った。
私は慌てて三番卓へ水を運ぶ。
ハネダ亭は戦場ではない。
もちろん違う。
ここでは誰も撃たないし、誰も撃たれない。
赤い警告も鳴らない。
全周囲モニターもない。
けれど、夕方の食堂は戦場に近い何かだった。
ただし、ここで飛ぶのは砲弾ではなく注文である。
しかも、砲弾より種類が多い。
煮込み定食。
焼き魚。
野菜増し。
飯大盛り。
汁少なめ。
小鉢変更。
注文は、敵機よりずっと自由に動く。
私は端末に注文を入れながら、頭の中で卓番号を並べる。
三番卓は水。
四番卓は配膳待ち。
五番卓は注文確認。
二番卓は皿を下げる。
奥の一番卓は追加の茶。
大変。
本当に大変。
でも、不思議と嫌ではない。
忙しいのに、胸が冷たくならない。
誰かを落とすためではなく、誰かに食べてもらうために動いているからかもしれない。
「ローレちゃん、四番上がった!」
大将の声。
「はい!」
私はカウンターへ向かった。
湯気の立つ皿。
煮込みと、焼いた野菜と、ご飯。
おいしそう。
いや、見とれている場合ではない。
私は盆を持ち、四番卓へ向かった。
「お待たせしました。煮込み定食です」
置く。
下がる。
次。
そう思った時、指先に熱が走った。
「あっ」
皿の縁が思ったより熱かった。
私は反射的に手を引きかけたが、盆が傾く。
まずい。
皿が落ちる。
私はそのまま指に力を入れ、皿を置き切った。
こと、と音がして、皿は無事に卓へ乗った。
よかった。
割れなかった。
料理もこぼれなかった。
私はすぐに笑った。
「失礼しました。ごゆっくりどうぞ」
そのまま下がる。
指先がじんじんする。
少し赤い。
熱い。
でも、皿は割れなかった。
よかった。
皿を割ったら迷惑だ。
料理をこぼしたら大将にも女将さんにも、お客さんにも迷惑だ。
私は指を軽く握り、次の卓へ向かおうとした。
「ローレ」
女将さんの声がした。
低い。
私は足を止めた。
「はい、女将さん」
「手、見せな」
「あ、いえ、大丈夫です」
言った瞬間、女将さんの目が細くなった。
しまった。
大丈夫。
禁句に近い言葉。
「ローレ」
「……はい」
私は手を差し出した。
指先が少し赤くなっている。
大したことはない。
本当に。
火傷というほどではない。
少し熱かっただけ。
でも、女将さんはすぐに私の手を取った。
「大将、冷やす」
「おう」
大将が厨房の奥から小さな冷却パックを持ってくる。
「ローレちゃん、こっち来な」
「でも、注文が」
「注文より手」
女将さんの声は短かった。
逆らえない。
私はカウンターの内側へ連れていかれ、冷たいパックを指先に当てられた。
ひんやりする。
ほっとする。
けれど、胸の方が落ち着かない。
「すみません」
「何を謝ってるんだい」
「皿は落としませんでした」
言ってから、違う、と自分でも思った。
女将さんは眉を上げた。
「皿を落とさなかったことは、えらい。でもね、熱かったなら熱いって言いな」
「はい」
「ここで働くなら、我慢はするな」
女将さんの声は、怒っている。
でも、責めているのとは少し違った。
「困った時は困ったって言いな。皿を割る前に。手を火傷する前に。倒れる前に。大丈夫って笑ってたら、こっちはわからないんだから」
私は言葉に詰まった。
わからない。
そうだ。
黙っていたら、わからない。
わからなければ、助けられない。
それは学園でも言われた。
セシリアさんにも、ミリアにも。
でも、私はまだすぐに言ってしまう。
大丈夫です。
慣れています。
平気です。
その言葉で、自分も相手も遠ざけてしまう。
「ローレちゃん」
大将が少し困ったように笑った。
「うちは皿より手の方が大事だよ」
「でも、お皿も大事です」
「そりゃ皿も大事だ。でも、皿は買える。手は買えない」
手は買えない。
私は冷却パックの下にある自分の指を見た。
この手。
人形を動かすかもしれない手。
皿を運ぶ手。
髪染めの瓶を持つ手。
大事だと思ったことは、あまりなかった。
壊さないようにとは思っていた。
壊れたら役に立たなくなるから。
でも、大事という言葉は、少し違う。
「……気をつけます」
「声」
女将さんが言う。
私は息を吸った。
「気をつけます!」
「よし。痛みは?」
「少し熱いです」
言えた。
大丈夫ではなく。
少し熱い。
それだけなのに、胸がどきどきした。
女将さんは頷いた。
「じゃあ少し冷やしてから戻る。今は皿洗いじゃなくて注文取り。熱い皿は大将がこっちへ回す」
「はい」
「返事はいいね」
「はい!」
お客さんの一人が笑う。
「女将さんに鍛えられてるな、看板娘」
「はい。鍛えられています」
私は答えた。
店が笑った。
その笑いが、温かかった。
馬鹿にする笑いではない。
店の一部にしてくれる笑い。
まだ慣れない。
でも、嫌ではない。
指先は少し赤いままだったけれど、冷やしたら痛みは落ち着いた。
私は注文取りに戻る。
「五番卓、焼き魚ひとつ、煮込み定食ひとつ、ご飯大盛りです!」
「おう!」
大将が返事をする。
「ローレ、声出るようになったじゃない」
女将さんが言う。
「はい!」
忙しさは続く。
足は疲れる。
手も疲れる。
頭の中は卓番号でいっぱいになる。
でも、時間はあっという間に過ぎる。
働ける時間は短いのに、その短い時間がぎゅっと詰まっていた。
客の波が、少しずつ引いていく。
空いた卓を拭く。
皿を下げる。
水を替える。
店の中の音が、少し低くなる。
大将の鍋の音も、少しゆっくりになる。
女将さんが腰に手を当てて、店内を見回した。
「よし。ローレ、まかない」
「はい」
まかない。
この言葉は、いつ聞いても強い。
私は前掛けを少し整え、カウンターの端へ座った。
働いた後の足は、少し重い。
でも、座るとその重さがじんわり広がる。
疲れた。
ちゃんと疲れた。
何かをして疲れるのは、少し不思議だった。
家で疲れる時は、胸の中ばかりが重かった。
ここでは、足と手と声が疲れる。
その疲れは、少しだけわかりやすい。
「ほい、ローレちゃん」
大将が皿を置いた。
湯気の立つまかない。
煮込みと、野菜と、小さな卵焼き。
ご飯。
汁物。
多い。
「大将、これは」
「食べられるだけ食べな」
「多いです」
「最初に言えた。えらい」
女将さんが横から言う。
「では、少しだけ減らしていただけると」
「よし」
大将はご飯を少し減らした。
少し。
本当に少し。
減ったような気もするし、変わっていないような気もする。
でも、最初に言えたので、私は少しだけ胸を張った。
「いただきます」
箸を取る。
湯気が顔に当たる。
煮込みを一口。
やわらかい。
味が染みている。
疲れた身体に、温かいものが落ちていく。
「……うまうま」
また出た。
もう店では少し慣れてきた。
大将は嬉しそうに笑う。
「ローレちゃんのうまうまが出たなら、合格だな」
「おいしいです」
「たんと食べな」
女将さんが私の前に小鉢を追加した。
「えっ」
「野菜も食べる」
「はい」
私は素直に食べた。
女将さんは、私が食べている様子を少し眺めてから、ふっと声を柔らかくした。
「うちにいる間は、実の娘みたいに食べさせるからね」
箸が止まった。
実の娘。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
重く。
温かく。
少し痛く。
私は顔を上げられなかった。
実の娘。
私は、実の娘だった。
プラット家の。
父の娘。
母の娘。
血はつながっている。
戸籍にも、家名にも、私はプラット男爵家三女として載っている。
でも、実の娘らしく扱われた記憶は、あまり多くない。
身体を壊すなと言われた。
髪を染めなさいと言われた。
役に立つようにと言われた。
大切に食べなさい、とはあまり言われなかった気がする。
食べなさい。
無理をするな。
困ったと言いなさい。
実の娘みたいに。
その言葉が、温かいのに痛かった。
温かいものは、痛い時がある。
胸の内側で、知らない場所が少しだけ溶けるような感じがした。
怖い。
泣きそうで怖い。
ここで泣いたら困る。
まかないの上に涙が落ちたら、味が変わる。
いや、そういう問題ではない。
「ローレ?」
女将さんの声。
私は慌てて顔を上げた。
笑う。
いつものように。
でも、うまく笑えなかったかもしれない。
「ありがとうございます、女将さん」
声が少し小さかった。
女将さんは何も言わなかった。
声が小さい、とも言わなかった。
ただ、私の前に温かいお茶を置いた。
「ゆっくり食べな」
それだけだった。
その優しさが、また少し痛い。
大将も、何も聞かなかった。
ただ、カウンターの向こうで鍋を片づけながら、少しだけ鼻歌を歌っている。
店の中には、まだ数人の客がいる。
誰かの笑い声。
皿の音。
湯気。
私は箸を動かした。
食べる。
温かい。
おいしい。
胸が痛い。
でも、食べられる。
「うまうまです」
今度は、少しだけ声にして言った。
女将さんが笑った。
「そうかい」
それだけで、十分だった。
帰る前、大将に呼ばれた。
「ローレちゃん、ちょっとこっち」
「はい、大将」
私は前掛けを外し、手を拭いてからカウンターへ向かった。
大将は、小さな封筒を差し出した。
「はい。最初の分」
「えっ」
私は封筒を見た。
厚いわけではない。
むしろ薄い。
でも、それが何かはすぐにわかった。
お給料。
私が働いた分のお金。
「え、あの、もういただけるんですか」
「区切りがいいからね。最初は早めに渡しておいた方がいいだろうってナツと話したんだ」
「金額は多くないよ」
女将さんが言う。
「ローレはまだ短時間だし、できる仕事も限られてる。でも、自分で働いた分だ。ちゃんと受け取りな」
私は封筒を両手で受け取った。
軽い。
でも、重い。
硬貨を数えた時とは違う重さ。
父から渡されたお金とも違う。
家から持ってきた残りのお金とも違う。
これは、私がハネダ亭で働いてもらったお金だ。
水を出して。
注文を聞いて。
皿を運んで。
卓を拭いて。
皿を洗って。
少し火傷しかけて怒られて。
まかないを食べて。
その時間が、この封筒に入っている。
「ありがとうございます」
声が震えた。
「大事に使います」
髪染めを買わなければならない。
小さなお菓子も、少しだけ買えるかもしれない。
でも、何より。
この封筒をすぐに使ってしまうのが、少しもったいなかった。
初めて自分で働いてもらったお金。
大切に使おう。
本当に必要なものに。
私のために。
そう思ってから、少しだけ戸惑った。
私のために使う。
それは、まだ慣れない考えだった。
「ローレちゃん」
大将が笑う。
「ちゃんと自分のためにも使うんだぞ」
心を読まれたのかと思った。
私は目を丸くした。
女将さんが腕を組む。
「全部必要なものに回して、楽しみをゼロにするのは駄目だよ。働いたら、少しは自分に甘いものでも買いな」
甘いもの。
その言葉で、少しだけ胸が軽くなる。
「少しなら、いいでしょうか」
「いいに決まってるだろ」
大将が笑った。
「ローレちゃんは、少しじゃ足りないくらい働いてるよ」
「いえ、まだ全然です」
「全然かどうかは、店が決める」
女将さんの声。
強い。
でも、温かい。
私は封筒を胸の前で持った。
「ありがとうございます。大将、女将さん」
「おう」
「次も、無理せず来な」
「はい!」
今度は声がちゃんと出た。
店を出ると、王都の夜の光が歩道に落ちていた。
再開発地区の硝子の壁に、灯りが反射している。
その中で、ハネダ亭の暖簾はもう店じまいのために少し寄せられていた。
私は鞄の中の封筒をそっと確認した。
そこにある。
なくなっていない。
自分で働いてもらったお金。
指先には、少しだけ火傷の名残がある。
痛みはほとんどない。
でも、赤みを見ると、女将さんの声を思い出す。
我慢はするな。
困った時は困ったって言いな。
皿を割る前に。
手を火傷する前に。
その言葉は、プラット家では聞かなかった種類のものだった。
実の娘みたいに食べさせる。
その言葉も。
重くて、温かくて、少し痛い。
私は歩きながら、空を見上げた。
王都の空は明るい。
星はあまり見えない。
でも、店の湯気みたいなものが、まだ胸の中に残っていた。
ハネダ亭は、私の家ではない。
大将も女将さんも、私の父母ではない。
そんなことはわかっている。
でも、あの店にいる間だけ、私はただの役割ではなかった。
皿より手が大事だと言われた。
食べろと言われた。
声を出せと言われた。
困ったと言えと言われた。
それは、少し怖いくらい温かかった。
私は封筒を鞄の奥へしまった。
大切に使おう。
そして、少しだけ甘いものも買おう。
そう思った瞬間、歩く足が少し軽くなった。
でも、ハネダ亭の前の通りを離れる時、再開発地区の角に立つ男たちの視線が、ほんの少しだけ店の方へ向いているのが見えた。
きれいな上着。
笑っていない口元。
店を見る目。
私は立ち止まりかけた。
でも、すぐに人の流れに押されて歩き出す。
気のせいかもしれない。
王都には、いろいろな人がいる。
ただ、それだけかもしれない。
そう思うことにした。
でも、鞄の中の封筒を握る指先に、さっきとは違う冷たさが少しだけ戻っていた。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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