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ハネダ亭

ご覧いただきありがとうございます。

外出許可というものは、思っていたより手続きが多かった。


申請書に、行き先。


同行者。


目的。


帰寮予定。


責任者名。


ハネダ亭。


ゴロウ=ハネダ。


私は端末に表示された項目を見ながら、何度も入力内容を確認した。


間違えたら許可が下りないかもしれない。


許可が下りなければ、面接に行けない。


面接に行けなければ、働けない。


働けなければ、髪染めが買えない。


そして、髪染めが買えなければ。


そこまで考えて、私は手を止めた。


だめ。


それは考えると胸が冷える。


私は今、アルバイトの面接に行くだけだ。


世界の終わりではない。


髪染めの瓶の底が見えてきているだけで、まだ終わってはいない。


まだ。


「ローレさん、確認できました。申請は問題ないと思います」


セシリアさんが、私の端末画面を見て静かに頷いた。


「ありがとうございます、セシリアさん」


「校外への外出は初めてですから、念のため余裕を持って戻りましょう」


初めて。


そう言われて、私は少しだけ瞬きをした。


そういえば、学園に入ってから一度も王都へ出ていない。


王都星へ着いた時は、軌道エレベーターから学園へ向かっただけ。


街を歩いたわけではない。


高い塔。


広い道。


人の多さ。


あの時、窓越しに見た景色は、全部遠かった。


今からそこへ行く。


自分の足で。


……迷子にならないだろうか。


かなり不安だ。


「ローレ、顔がすごく不安そう」


ミリアが横から言った。


「少しだけ不安です」


「少し?」


「かなりです」


「正直でよろしい」


ミリアは満足そうに頷いた。


トムが鞄を肩にかけて笑う。


「大丈夫だって。ハネダ亭まで俺が案内するから」


「ありがとうございます、トム。でも、皆さんに来ていただくのは申し訳ないです。面接ですし、私一人で」


「だめ」


ミリアが即答した。


かなり早かった。


「即答ですね」


「即答するところだから」


「ローレさん、王都は広いですし、初めての外出ですから」


セシリアさんも、やんわりと逃げ道を塞ぐ。


「それに、ハネダ亭の場所は少しわかりにくいんだ。再開発地区って道が新しくなってる場所と古い場所が混ざってるから」


トムまで塞いだ。


三方向から塞がれると、人は諦める。


私は諦めた。


「では、よろしくお願いします」


「よし」


トムが嬉しそうに頷く。


ミリアが私の鞄を見る。


「申請書、身分証、学園許可証、持った?」


「はい」


「財布は?」


「はい」


「求人誌は?」


「置いてきました」


「えらい」


求人誌ブラックワークは机の引き出しに封印してきた。


特に高額時給のページ。


あれは危険だ。


見ると心が揺れる。


王都の時給は強い。


強すぎる。


ハネダ亭に向かう途中で変な求人を見つけないよう、私は心を強く持つことにした。


かなり弱い心だけれど。



学園の門を出ると、王都の空気は少し違った。


学園の中は、整っている。


建物の配置も、道も、植え込みも、全部が規則正しい。


でも、王都はもっと大きくて、もっと騒がしい。


空中を小型車両が滑り、歩道には学生、軍人、商人、役人らしい人たちが流れている。


遠くには高層建築が並び、その間を連絡橋が結んでいた。


建物の壁面には立体広告が浮かび、光る文字がゆっくり回転している。


私は思わず足を止めた。


「大きい……」


王都は大きい。


知っていた。


知っていたけれど、歩くと違う。


窓越しに見た景色とは違って、音がある。


匂いがある。


人の流れがある。


自分が小さな点になった気がした。


いや、実際小さい。


私は元々小さい。


でも、王都の中ではさらに小さい。


小さいの二段重ねだ。


「ローレ、こっち」


ミリアが声をかけてくれる。


「あ、はい」


慌てて歩き出す。


トムは慣れた様子で前を行く。


横断通路を渡り、昇降歩道に乗り、案内表示の少ない脇道へ入る。


私はすぐに思った。


一人では無理だった。


絶対に無理だった。


たぶん学園の門を出て三つ目の交差路で、自分がどこにいるのかわからなくなっていた。


「トムがいてくださって、本当によかったです」


「そんな大げさな」


「いえ、本当に。私一人なら、たどり着けていません」


「ローレ、そこは自信持って言うんだな」


「はい。迷う自信があります」


「それは持たなくていい自信」


ミリアが呆れたように言い、セシリアさんが小さく笑った。


その笑い声で、少し緊張がほどける。


王都は大きい。


怖い。


でも、一人ではない。


それだけで、景色の色が少し変わる。



再開発地区に入ると、街並みがさらに綺麗になった。


硝子の壁面を持つオフィス。


白い石材の歩道。


植え込みに沿って並ぶ小さな照明。


新しいカフェの前では、きれいな服を着た人たちが飲み物を片手に話している。


どこも明るくて、整っていて、少し緊張する。


私が入ると、床を汚してしまいそうな場所ばかりだった。


「このあたり、本当にきれいですね」


「再開発されたばかりだからね」


トムが言う。


「でも、ハネダ亭はちょっと違う」


「違う?」


「見ればわかる」


少し歩くと、本当にわかった。


新しい建物の間に、ぽつんと古い店があった。


木造風の低い外観。


少し色の褪せた看板。


入口の横には、商い中と書かれた木の立て札。


軒先には、少し汚れた暖簾が揺れている。


周りの綺麗なオフィスやカフェの中で、そこだけ時間が違うみたいだった。


浮いている。


でも、不思議と嫌な浮き方ではなかった。


新しい街の中で、そこだけ人の手の温度が残っているように見えた。


「ここがハネダ亭」


トムが言った。


私は暖簾を見上げた。


ハネダ亭。


ここで働くかもしれない。


ここで、お金をもらうかもしれない。


ここで、まかないが出るかもしれない。


最後の考えで少しだけ気合いが入った。


まかないは強い。


「緊張してる?」


ミリアが聞く。


「はい。とても」


「大丈夫。大将も女将さんも、変な人じゃないから」


「変ではないんですね」


「変ではない。勢いはあるけど」


勢い。


それは少し怖い。


トムが引き戸に手をかける。


「入るぞ」


からり、と音を立てて戸が開いた。


「いらっしゃい!」


大きな声が飛んできた。


私は肩を跳ねさせた。


声が大きい。


でも、怒っている声ではない。


店の中には数名の客がいた。


作業服の男性。


端末を見ながら食事をしている女性。


近くの店員らしい人。


昼食の時間からは少し外れているのに、温かい匂いが満ちていた。


出汁。


焼いた肉。


湯気。


ソースに似た、少し甘い香り。


お腹が小さく鳴りそうになった。


鳴っていない。


たぶん。


カウンターの奥には、人のよさそうな初老の男性がいた。


肩幅が広く、白い手拭いを首にかけている。


目が細く、笑うと顔全体がくしゃっとする。


その隣には、恰幅のいい初老の女性。


髪をきっちりまとめ、腰に手を当てている。


見るからに強そうだった。


物理的にも、精神的にも。


「おう、トム! 来たか!」


男性が笑った。


この人が、大将。


ゴロウ=ハネダ。


「お久しぶりです、大将」


トムが慣れた様子で挨拶する。


「久しぶりってほどじゃないだろ。こないだも顔出してただろうが」


「その時は食べに来ただけです」


「食べに来るのが一番大事だ」


大将は大きく頷いた。


隣の女性が、トムを見て少し笑う。


「それで、その子が話に聞いてた子かい?」


「はい。ローレッタ=プラットです」


トムが私を示す。


私は慌てて一歩前に出た。


「は、初めまして。ローレッタ=プラットと申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


頭を下げる。


深く。


きちんと。


失礼のないように。


働かせてもらえるかもしれない場所だ。


第一印象が大事。


たぶん。


「硬い硬い」


女性がすぐに言った。


顔は怖くない。


でも声には力があった。


「ここは学園じゃないよ。仕事はきっちり、挨拶は元気に。はい、もう一回」


「えっ」


「もう一回」


言い直し。


いきなり。


私は目を瞬かせた。


セシリアさんが少し驚いた顔をし、ミリアは小さく笑いをこらえている。


トムは慣れている顔だった。


私は背筋を伸ばした。


元気に。


腹から。


「初めまして! ローレッタ=プラットです! よろしくお願いします!」


思ったより大きな声が出た。


店の客がこちらを見る。


恥ずかしい。


かなり恥ずかしい。


でも、女性は満足そうに頷いた。


「うん。さっきよりずっといい。私はナツ。こっちはゴロウ。店ではみんな女将さんと大将でいいよ」


「あ、はい。女将さん。大将」


「ローレッタかい」


大将が腕を組む。


じっと私を見た。


怒られるのかと思って、少し身構える。


「じゃあ、ローレちゃんでいいね」


「えっ」


いきなり短くなった。


かなり近い。


「ローレちゃん。うん、呼びやすい」


大将は勝手に納得した。


女将さんも私を見る。


「私はローレって呼ぶよ。その方が声をかけやすい」


「あ、はい」


返事をしたあとで、胸の奥が少し揺れた。


ローレ。


学園で、ミリアやトムが呼んでくれる名前。


セシリアさんはローレさん。


家名でも、役割でもない音。


それを、初めて会った大将と女将さんが、何でもないことみたいに口にした。


嫌ではなかった。


むしろ、少し温かい。


でも、温かいものには慣れていないので、受け取り方に困る。


「可愛らしい子だねぇ」


女将さんが言った。


「でも、少し細いな」


「ですねぇ」


大将がしみじみ頷く。


「ちゃんと食べてるかい、ローレちゃん」


「はい。学園の食堂で、ちゃんといただいています」


「足りてる?」


「足りています。たぶん」


「たぶんは駄目だね」


女将さんが即座に言った。


ミリアと同じ速さだった。


この二人は強い。


「働くなら、まず食べる。腹が減ってる子に仕事はさせないよ」


「えっ」


「面接の前に、座りな」


「い、いえ、私は面接に」


「座りな」


女将さんの声は優しい。


でも、逆らえない。


私は素直にカウンター近くの席へ座った。


セシリアさん、ミリア、トムも案内される。


「ヒースロー様も、ミリアも、トムも座って。お茶出すから」


女将さんが手際よく湯飲みを並べる。


セシリアさんは少し恐縮しながらも丁寧に礼を言った。


「ありがとうございます、女将さん」


「いいのいいの。学生さんは座れる時に座る」


大将は厨房の奥で何かを用意している。


面接。


面接とは。


私は想像していた。


厳しい質問。


志望動機。


勤務可能時間。


経験。


礼儀。


もしかしたら、家格の確認。


でも、今のところ聞かれたのは名前と食事量だけだ。


そして座らされた。


湯飲みから、温かい香りが上がる。


「で、ローレちゃん」


大将がカウンター越しに顔を出す。


「いつから来れる?」


「えっ」


面接の核心が急に来た。


「いつから、ですか」


「うん。トムから聞いたよ。学園の許可がいるんだろ? 許可が下りて、講義と訓練に差し支えない日。こっちは放課後に二、三時間入ってくれたら助かる」


「そ、それでよろしいんですか」


「最初から長く入らせる気はないよ。倒れられたら困る」


女将さんが言う。


「トムから聞いてるよ。ローレは体力がないって」


私はトムを見た。


トムは少し気まずそうに目を逸らした。


「いや、大事な情報だと思って」


「大事ですね」


ミリアが真顔で頷く。


「大事です」


セシリアさんまで頷いた。


味方が多い。


でも、体力がない方向で一致している。


事実なので反論できない。


「はい。体力は、あまりありません」


私は正直に言った。


「ただ、できることはきちんと覚えます。足りないところは、努力します」


「うん、そういう子だと思った」


大将が笑った。


「いやー、ローレちゃんがうちに来てくれて本当によかったよ」


「ま、まだ採用と決まったわけでは」


「採用だよ」


早い。


面接、早い。


私の中の面接の概念が、湯気と一緒にふわっと崩れた。


「よろしいんですか?」


「もちろん。トムの紹介だし、ミリアも知ってる子だし、ヒースロー様も付き添ってくれてる。変な子じゃないのはわかる」


「でも、私は未経験で」


「未経験なら、覚えればいい」


女将さんが言う。


「最初は配膳の手伝い。皿を運ぶ、片づける、卓を拭く、注文を聞く。難しいことはさせない。包丁も火も、慣れるまで触らせない」


「はい」


「それと、声」


「声、ですか」


「小さいよ。客商売は、相手に届かなきゃ意味がない。さっきの挨拶くらいでいい」


さっきの挨拶。


かなり恥ずかしかったやつだ。


「はい。頑張ります」


「声が小さい!」


女将さんがすぐに言った。


私はびくっとして、慌てて言い直す。


「はい! 頑張ります!」


「よし」


女将さんは満足そうに頷いた。


セシリアさんが口元に手を当てている。


笑っている。


珍しい。


ミリアは完全に笑っている。


トムも笑っている。


恥ずかしい。


でも、不思議と嫌ではなかった。


笑われているのに、馬鹿にされている感じがしない。


失敗しても、次と言われる感じ。


それは、私にはあまり馴染みがない。


家では、失敗は役に立たない証だった。


ここでは、声が小さければ、もう一回と言われる。


もう一回。


その言葉は、少し温かい。


「あと、まかないは出る」


大将が言った。


私は顔を上げた。


「まかない」


「反応したね」


女将さんが笑う。


「うちのまかないはちゃんと食べさせるよ。残すのは禁止。食べきれない時は最初に言う」


「はい」


「好き嫌いは?」


「ありません」


「いい返事だ」


大将が嬉しそうに頷く。


「肉は?」


「好きです」


「魚は?」


「好きです」


「野菜は?」


「好きです」


「甘いものは?」


「とても好きです」


「そこだけ声が少し強かったね」


ミリアに言われた。


私は少し顔が熱くなる。


「甘いものは、大事です」


「うん。ローレらしい」


大将が豪快に笑った。


「じゃあ、働いた日はしっかり食べて帰りな。細い子は食わせないと」


食べて帰る。


その言葉が胸に入った。


働くために食べる。


倒れないために食べる。


誰かの都合で残される食事ではなく。


自分が働いたあとに、ちゃんと出してもらえる食事。


まだ食べてもいないのに、喉が少し詰まった。


私は慌てて湯飲みを両手で持つ。


温かい。


お茶の熱が指先に移る。


「ありがとうございます、大将。女将さん」


「礼は働いてからでいいよ」


女将さんが言う。


「それと、店にいる間は無理をしたら怒るからね」


「怒る、ですか」


「怒るよ。顔色が悪いのに大丈夫ですって言ったら怒る。ふらついてるのに平気ですって言ったら怒る。腹が減ってるのにいりませんって言っても怒る」


私は固まった。


大丈夫です。


平気です。


いりません。


全部、言いそうだ。


かなり言いそう。


「……気をつけます」


「声」


「気をつけます!」


「よし」


女将さんは強い。


とても強い。


でも、怖いだけではない。


この人は、私が無理をしたら怒ると言った。


迷惑だからではなく。


倒れられたら困るから。


食べないと働けないから。


その理由が、なんだか胸に響いた。


私は、自分が倒れて困るのは、役に立たなくなるからだと思っていた。


でも、ここでは少し違う気がした。


倒れたら、その人が心配するから困る。


そんなふうに言われている気がした。


慣れない。


かなり慣れない。


でも、温かい。


「ローレさん、大丈夫?」


セシリアさんが小さく声をかける。


私は反射的に大丈夫ですと言いかけて、女将さんを見た。


女将さんがじっとこちらを見ている。


私は言い直した。


「少し、びっくりしています。でも、嫌ではないです」


セシリアさんは、ふっと表情を柔らかくした。


「それなら、よかったです」


トムが嬉しそうに言う。


「な? ハネダ亭なら大丈夫だろ」


「はい。本当に」


私は頷いた。


「ありがとうございます、トム」


「どういたしまして」


ミリアが女将さんへ向き直る。


「勤務時間は、学園の許可が下りてから調整でいいですか?」


「もちろん。学業優先。訓練で疲れてる日は休ませる。そこは申請書にも書いておくよ」


「助かります」


「ミリア、あんたも相変わらずしっかりしてるねぇ」


「トムがいるので」


「なるほど」


「そこで納得するなよ」


トムが少し不満そうに言う。


大将が笑った。


「トムは前に出るからなぁ」


「ここでもそれ言われるのか」


「事実だろ」


「否定できないのがつらい」


そのやり取りに、店の空気が少し揺れる。


お客さんの一人も笑っている。


温かい店だと思った。


綺麗ではない。


新しくもない。


周りの店のように磨かれた硝子も、白い石材もない。


少し汚れた暖簾。


木の立て札。


古いカウンター。


でも、ここには人の声がある。


湯気がある。


食べていきな、と言う声がある。


私は、こういう場所をあまり知らない。


プラット家の食卓は、静かだった。


私の席は、あってもなくてもよかった。


食べることは、身体を保つため。


壊れないため。


ここでは、食べることが少し違う。


食べると人が笑う。


食べろと言われる。


食べたら、よしと言われる。


それが、なんだか不思議だった。


不思議で、少し怖い。


温かいものは、失った時に痛いから。


でも、痛くなるかもしれないからといって、最初から手を引くのは、少しもったいない気がした。


「ローレちゃん」


大将がカウンターの奥から小さな皿を出した。


「味見。面接祝いだ」


皿の上には、小さな煮物が乗っていた。


湯気が立っている。


甘辛い匂い。


「よろしいんですか」


「いいから食べな」


女将さんが言う。


「熱いから気をつけるんだよ」


私は箸を受け取り、小さく一口食べた。


熱い。


やわらかい。


甘い。


しょっぱい。


出汁がじゅわっと広がる。


「……うまうま」


思わず出た。


本当に思わずだった。


店の空気が一瞬止まる。


私ははっとする。


やってしまった。


初対面の面接先で、うまうま。


かなりまずい。


「あ、す、すみません」


「いいねぇ!」


大将が満面の笑みになった。


「そういう顔で食べてくれる子は大歓迎だ」


女将さんも笑う。


「うちで働くなら、その顔は大事だよ」


「顔、ですか」


「おいしそうに食べる顔」


私は何と答えていいかわからず、また箸を持ったまま固まった。


ミリアが隣で笑いをこらえている。


トムは普通に笑っている。


セシリアさんは優しく笑っている。


恥ずかしい。


でも、やっぱり嫌ではなかった。


「ありがとうございます。とても、おいしいです」


今度はちゃんと言えた。


声は少し小さかったけれど、女将さんは怒らなかった。


「よし」


そう言っただけだった。



帰る前に、勤務条件の仮決めをした。


学園の許可が下りたら、放課後に短時間。


最初は配膳と片づけ。


忙しい時間に無理をさせない。


体調が悪い時は必ず申告。


まかないあり。


最後の項目が、とても強い。


私は何度も頷いた。


「では、許可が下りましたら、改めてご連絡します」


「待ってるよ、ローレちゃん」


大将が笑う。


「ローレ、道中気をつけな。トム、ちゃんと送っていくんだよ」


「わかってます、女将さん」


「ミリア、トムが変な道に入ったら止めるんだよ」


「はい」


「俺の信用」


トムが少し肩を落とす。


女将さんはセシリアさんへ丁寧に頭を下げた。


「ヒースロー様も、付き添いありがとうございます」


「いいえ。ローレさんの働き先が温かい場所で、安心しました」


セシリアさんがそう言うと、女将さんは少し目を細めた。


「温かいかどうかは、これからローレが決めることだよ。でも、冷たい思いはさせないつもりだ」


その言葉に、胸の奥がきゅっとなった。


冷たい思いはさせない。


そんなことを、初めて会った人が言う。


私はどう受け取ればいいのかわからなくて、ただ頭を下げた。


「よろしくお願いします。大将、女将さん」


「声」


女将さんが言う。


私は顔を上げた。


「よろしくお願いします!」


「よし」


大将が笑った。


「いやー、ローレちゃんがうちに来てくれて本当によかったよ」


まだ働いてもいないのに。


でも、その言葉は嬉しかった。


嬉しいと、胸が痛くなる。


私はそれを、少しだけ怖いと思った。


でも、嫌ではなかった。



ハネダ亭を出ると、再開発地区の光は少し夕方寄りになっていた。


新しいオフィスの硝子に、空の色が映っている。


その中で、ハネダ亭の暖簾だけが、ゆっくり揺れていた。


私は振り返って、それを見た。


少し汚れた暖簾。


商い中の立て札。


温かい湯気。


大将の大きな声。


女将さんの強い声。


うまうま、と言ってしまった煮物。


そこは、プラット家とはまったく違う場所だった。


役に立つためだけに置かれる場所ではない。


食べなさいと言われる場所。


声を出しなさいと言われる場所。


無理をしたら怒ると言われる場所。


そんな場所が、王都にある。


私が、そこへ通うかもしれない。


「ローレ、採用おめでとう」


ミリアが言った。


「ありがとうございます、ミリア」


「よかったな、ローレ」


トムも笑う。


「はい。トムのおかげです」


「ローレさん、申請書は戻ったら一緒に整えましょう」


セシリアさんが言う。


「はい。よろしくお願いします、セシリアさん」


私はもう一度、ハネダ亭を見た。


怖さはまだある。


働けるかどうか。


体力が持つかどうか。


失敗しないかどうか。


髪染めを買えるほど続けられるかどうか。


不安はたくさんある。


でも、その不安の中に、小さな湯気みたいな期待が混ざっていた。


初めてのアルバイト。


ハネダ亭。


私は鞄の紐を握り直した。


指先は少し温かかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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