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ブラックワーク

ご覧いただきありがとうございます。

お金がない。


かなり、ない。


机の上に並べた小さな硬貨を、私はじっと見つめた。


右から数えても、左から数えても、増えない。


当然だ。


硬貨は、数え方で増えてくれるほど優しくない。


むしろ、何度も数えているうちに、少し減ったような気さえする。


錯覚だと思いたい。


私は寮の自室で、小さく息を吐いた。


学園に来る時、父からはっきり言われている。


家からの仕送りはない。


王立宇宙軍士官学校は、衣食住を面倒見てくれる。


寮はある。


食堂もある。


制服も支給された。


講義も訓練も、必要なものは学園が用意してくれる。


そこは問題ない。


本当に、問題ない。


問題は、それ以外だった。


小さなお菓子。


少しだけ買いたい文具。


壊れた時の予備。


そして、何より髪染め。


私は机の横に置いてある小さな瓶を見た。


残りが少ない。


底の方に、茶色い液が少しだけ揺れている。


本来の髪は白い。


家族と違う色。


母は、その髪を嫌がった。


染めなさい。


人前に出るなら、きちんと染めなさい。


そう言われ続けた。


私は今も染めている。


学園では、誰も私の髪が本当は白いことを知らない。


知られたくない。


白い髪は、プラット家では異物だった。


そして、マーリンの記憶を持った私にとっても、あまりに近すぎる色だった。


だから染める。


染め続ける。


そのためには、お金がいる。


お金。


私はもう一度、硬貨を数えた。


増えていない。


「……ピンチです」


ひとりの部屋で、私は小さく呟いた。


かなりピンチ。


早急に働かなければならない。


働く。


私が。


王都で。


アルバイト。


言葉にすると、少しだけ胸がざわざわした。


怖いような、少しだけ楽しみなような。


家では、働くというより、役に立つことを求められていた。


使える身体でいること。


壊れないこと。


黙っていること。


それは仕事とは違う。


学園の外で、ちゃんと働いて、お金をもらう。


それは、少しだけ自分の足で立つことに似ている気がした。


でも、まず問題がある。


何の仕事ができるのか、まったくわからない。


私は硬貨を小袋に戻し、学内の売店で貰った求人誌を鞄に入れた。


求人誌の表紙には、大きくこう書かれている。


ブラックワーク。


黒い表紙に、金色の文字。


王都の求人誌は、名前からして強い。


きっと、すごい仕事がたくさん載っているに違いない。



休憩時間の講義室で、私は机に求人誌を広げていた。


表紙は少し恥ずかしいので、端末の教科資料で半分隠している。


隠している時点で、かなり怪しい。


でも、見ないと始まらない。


ページをめくると、たくさんの求人が並んでいた。


清掃補助。


倉庫整理。


端末入力。


飲食店手伝い。


配達補助。


訓練器具洗浄。


思ったより普通のものが多い。


ブラックワークという名前なのに。


少し安心していたら、あるページで目が止まった。


サービス業。


未経験でも大丈夫!


若い女性限定のアルバイト!


とっても簡単なお仕事!


そして、時給がすごい。


私は目を見開いた。


すごい。


王都はすごい。


こんなにお金をもらえるのだろうか。


若い女性限定。


私は若い女性だ。


未経験でも大丈夫。


私は未経験だ。


とっても簡単なお仕事。


簡単なら、できるかもしれない。


条件がすべて私へ手を振っている。


しかも時給が高い。


これなら髪染めどころか、お菓子も買える。


いや、買いすぎはいけない。


でも少しなら。


少しのお菓子は心の栄養だ。


私は求人欄をじっと見つめた。


「……王都、すごい」


思わず小さく呟く。


そこへ、横から声がした。


「何がすごいの?」


私はびくっと肩を跳ねさせた。


ミリアだった。


隣にはトムもいる。


少し遅れて、セシリアさんもこちらへ歩いてきた。


「ローレ、何見てるんだ?」


トムがひょいと覗き込もうとする。


私は慌てて求人誌を閉じかけた。


閉じかけたが、遅かった。


ミリアの目が、表紙を見た。


「ブラックワーク?」


「あ、えっと」


「求人誌?」


セシリアさんが静かに聞いた。


「はい。その……少し、働ける場所を探していまして」


言ってしまった。


言ってしまうと、胸が少し軽くなる。


同時に、少し恥ずかしい。


貴族なのに働く。


それは、たぶんこの学園ではあまり普通ではない。


特に上位貴族の人たちから見れば、変に見えるだろう。


でも、お金がないものはない。


硬貨は増えない。


「働くって、アルバイト?」


ミリアが聞く。


「はい。家から仕送りはありませんし、学園で必要なものは用意していただけますけれど、それ以外のお金が必要で」


髪染めのことは言えない。


絶対に言えない。


私は少しだけ笑った。


「少し、お菓子も買いたいですし」


「お菓子」


トムが笑いそうになった。


「ローレらしいな」


「お菓子は大事です」


「それは否定しない」


ミリアが求人誌へ視線を落とす。


「それで、何か良さそうなの見つけた?」


「はい。これです」


私は少し胸を張って、ページを開いた。


サービス業。


未経験でも大丈夫。


若い女性限定。


とっても簡単。


高額時給。


ミリアはそれを見た。


見た。


そして、なんとも言えない表情になった。


眉が少し寄り、口元が引き締まり、目がとても微妙な形になる。


言葉を選んでいる顔だった。


「ローレ」


「はい」


「これは、やめよう」


「えっ」


早かった。


かなり早かった。


求人欄を見てから、判断までが一瞬だった。


私はページを見直した。


若い女性。


未経験。


簡単。


高額時給。


私には条件がぴったりだと思ったのに。


「私には、難しいでしょうか」


肩が落ちた。


やっぱり。


そうだ。


こんなに高い時給の仕事が、私にできるはずがない。


世の中はそこまで甘くない。


私は何もできないし、体力もないし、人形以外のこともあまり知らない。


若い女性で未経験なら大丈夫と書いてあっても、それはきっと王都基準なのだ。


王都の若い女性は、すごいのかもしれない。


「いえ、無理なら諦めます。すみません。私、こういうのがよくわからなくて」


「違う違う違う」


ミリアが慌てた。


かなり慌てた。


「ローレができないって意味じゃない。むしろ、ローレなら即採用されると思う」


「即採用」


それはすごい。


「でも、内容がね」


「内容?」


私は求人欄をもう一度見る。


仕事内容は、接客補助、会話、簡単なサービス。


詳しいことは面談にて。


「詳しいことは、面談で教えてくださるみたいです」


「そこが怖いの」


ミリアの声が低くなった。


私は首を傾げる。


「怖い、ですか?」


「うん。かなり」


かなり。


ミリアがかなりと言う時は、本当にかなりだ。


トムも横から求人誌を覗き込み、少し顔をしかめた。


「あー、これはやめた方がいいな」


「トムもそう思いますか」


「うん。ローレ向きじゃないというか、ローレを行かせたら駄目なやつだと思う」


駄目なやつ。


私は求人欄を見つめた。


時給がすごい。


でも、駄目。


王都は難しい。


高いお金には理由があるらしい。


当たり前なのに、私はすぐ目がくらんだ。


お菓子と髪染めが頭にあったせいだ。


髪染めは言えないけれど。


「すみません。やっぱり、私にはよくわかりません」


私は求人誌を閉じた。


少しだけ、胸がしぼむ。


働かなければならないのに、どれを選べばいいのかわからない。


自分で探すこともできない。


また誰かに頼っている。


役に立つどころか、世話ばかりかけている。


「ローレさん」


セシリアさんが静かに言った。


「差し支えなければ、必要なお金を私がお貸しすることもできます」


「えっ」


私は慌てて顔を上げた。


「いえ、それはできません。ありがとうございます、セシリアさん。でも、本当に大丈夫です」


大丈夫。


また出た。


でも、これは言わないといけない。


借りるのは駄目だ。


セシリアさんは優しい。


きっと本当に貸してくれる。


でも、一度借りたら、私は返せるまでずっとそのことを考えてしまう。


それに、お金を借りると、優しさまで重くなる。


私はそれを、きちんと持てる自信がなかった。


「必要でしたら、遠慮なさらなくてよいのですよ」


「はい。ありがとうございます。でも、自分で働いてみたいんです」


言ってから、少し驚いた。


自分で働いてみたい。


本当にそう思っていたらしい。


お金のため。


髪染めのため。


お菓子のため。


それはもちろんある。


でも、それだけではない。


自分で何かをして、お金をもらう。


家の役割ではなく。


誰かの予備ではなく。


私の時間を使って、私が働く。


それは少し怖いけれど、少しだけ大事なことに思えた。


セシリアさんは、私をしばらく見たあと、静かに頷いた。


「わかりました。では、一緒に探しましょう」


「ありがとうございます」


ミリアが求人誌を取り上げるようにして、ページをめくった。


「まず、このブラックワークは名前からして怪しいんだけど、求人自体はまともなのもあるから、条件を見よう」


「名前、怪しいんですか?」


「かなり」


「王都では普通なのかと思いました」


「普通にしちゃ駄目な名前だと思う」


トムが苦笑する。


「でも有名だぞ。変な求人も載ってるけど、普通のもある」


「変な求人を先に見つけるローレ、ある意味すごいね」


ミリアが言う。


私は少し肩を縮めた。


「すみません」


「責めてない。止められてよかったって話」


そう言って、ミリアは真剣に求人を見てくれた。


トムも横から覗き込む。


セシリアさんは端末で学園規則を確認している。


三人が一緒に探してくれている。


それが、少し嬉しくて、かなり申し訳ない。


「清掃補助は?」


トムが言う。


ミリアがすぐに首を振る。


「時間が合わない。早朝勤務が多い。ローレ、体力ないでしょ」


「はい。ないです」


即答できるくらいには、知っている。


持久走で倒れた実績がある。


「倉庫整理は?」


「重いもの多そう。駄目」


「端末入力」


「悪くないけど、経験者優遇。ローレ、王都の商業端末慣れてる?」


「まったく慣れていません」


「じゃあ厳しい」


ミリアの判断は早い。


そして的確だ。


トムはどんどん候補を出し、ミリアが現実を確認する。


セシリアさんが学園規則と照らす。


私は横で、すごい、と思いながら見ていた。


「アルバイトには学園への許可申請が必要ですね」


セシリアさんが端末を見ながら言った。


「放課後のみ。学業と訓練を優先。校外へ出る場合は外出許可も必要です。勤務時間、場所、責任者の情報を提出するようです」


「手続き、多いですね」


「安全のためでしょう」


「そうだね。特に一年生が校外で働くなら、変なところに行かないようにしないと」


ミリアがブラックワークの怪しいページを指で軽く叩く。


私はそっと目を逸らした。


もう見ません。


たぶん。


いや、見たらまた時給ですごいと思ってしまうかもしれない。


見ない方がいい。


「飲食店手伝いはどうだ?」


トムが言った。


「まかない付きとかあるぞ」


まかない。


その言葉に、私は反応した。


「まかない」


強い。


とても強い言葉だ。


学園の食堂はある。


でも、まかないは別腹の気配がする。


働いたあとに出してもらえるご飯。


なんだか温かい。


「ローレ、目が少し輝いた」


ミリアが言う。


「まかないは、強いです」


「わかるけど」


トムが求人誌を眺めながら、ふと思い出したように顔を上げた。


「そうだ。ハネダ亭はどうだ?」


「ハネダ亭?」


私は聞き返した。


ミリアがすぐに「ああ」と頷く。


「ああ、ハネダ亭ね」


「知っているんですか、ミリア」


「うん。王都では結構有名。学園からも、外出許可があれば行ける距離」


トムが説明を足してくれる。


「俺んちの商会が時々食材を卸してるんだ。大将と女将さんがやってる店で、昼は定食、夜は軽い酒場みたいになるけど、学園生が働くなら仕込みと配膳の手伝いかな」


飲食店。


定食。


配膳。


まかない。


強い。


かなり強い。


「未経験でも、大丈夫でしょうか」


「大将は口は大きいけど面倒見いいし、女将さんはかなりしっかりしてる。変な仕事は絶対させない」


トムは自信ありげに言った。


ミリアも頷く。


「ハネダ亭なら、私も安心できるかな。忙しいけど、怪しい店じゃないし」


怪しくない。


それは重要だ。


とても重要。


「ただ、ローレの体力は心配」


ミリアがすぐに付け足す。


「飲食店って、立ち仕事だよ」


「立ち仕事……」


足が少し震える想像をした。


でも、持久走よりは何とかなるかもしれない。


たぶん。


「最初は短時間でお願いできないか、聞いてみるよ」


トムが言った。


「え、いいんですか」


「もちろん。俺、店の場所も知ってるし。話を通すくらいならできる」


「でも、ご迷惑では」


「迷惑じゃないって。ハネダ亭も人を探してるって聞いたし。ローレなら真面目に働くだろ」


真面目。


私は少し困った。


真面目にできるかはわからない。


でも、できるだけちゃんとしたい。


それは本当だ。


「ありがとうございます、トム」


言うと、トムは少し笑った。


「どういたしまして、ローレ」


名前を呼ばれると、胸の奥が少し温かくなる。


ローレ。


家名でも、役割でもない音。


その音があるだけで、少し息がしやすい。


「では、ハネダ亭に確認していただいて、勤務条件が合いそうなら学園へ申請、という流れでしょうか」


セシリアさんが整理してくれる。


「はい。外出許可も必要ですね」


「一緒に申請書を確認しましょう」


「ありがとうございます、セシリアさん」


「ローレ、求人誌は一応こっちで見ておくね」


ミリアがブラックワークを閉じる。


「あ、はい」


「特にこの高額時給のページは見なくていい」


「はい」


私は素直に頷いた。


あれは危険。


覚えた。


王都の高額時給には罠がある。


人生の学びが増えた。


たぶん大事な学びだ。


その時、講義室の入口近くの空気が少し変わった。


自然と、周囲の声が小さくなる。


私は顔を上げた。


ルイーゼ様だった。


取り巻きの令嬢たちを数人連れて、こちらへ歩いてくる。


シュヴァルベ様の姿はない。


それだけで、少し空気が違った。


シュヴァルベ様がいる時のルイーゼ様は、整った礼儀の中にいる。


いない時も礼儀は整っているけれど、目が少し冷たくなる。


私は背筋を伸ばした。


逃げたい。


でも、座っているので逃げられない。


逃げたら目立つ。


逃げなくてもたぶん目立つ。


詰んでいる。


「プラットさん」


ルイーゼ様の声は柔らかかった。


「何やら楽しそうなお話をなさっていますのね」


「はい、ハインケル様」


私は立ち上がりかけたが、机に膝をぶつけそうになって途中で止まった。


危ない。


「少し、求人を見ていました」


「求人」


ルイーゼ様は、その言葉を丁寧に繰り返した。


取り巻きの令嬢たちが、後ろで小さく目を合わせる。


「まあ。貴族子女でありながら、アルバイトをお探しなのですか」


声は驚いているようで、どこか楽しそうだった。


胸が少し縮む。


「はい。家からの仕送りがありませんので」


私は笑った。


いつもの笑い方。


困った時に出る笑い。


「学園で必要なものは用意していただけますし、大きな問題はないのですが、少し自分で働いてみようかと」


「それは大変ですわね。男爵家のプラットさんは、やはりご苦労が多いのですね」


ルイーゼ様は上品に微笑んだ。


取り巻きたちが、くすくすと笑う。


「働くこと自体は立派ですけれど、場所はよくお選びになった方がよろしいですわ。家名に傷がつかないように」


家名。


プラット。


傷。


私は頭を下げた。


「はい。お気遣いありがとうございます、ハインケル様」


反論はしない。


反論すると、きっと長くなる。


それに、ルイーゼ様の言っていることは完全に間違いではない。


貴族が働くなら、場所は選ぶべきなのだろう。


ただ、その言葉が私を心配しているものではないことくらいは、私にもわかった。


「王都には、いろいろなお仕事がありますものね。中には、下級貴族のご令嬢には少々難しい場もあるでしょうし」


くすくす。


笑い声。


私はもう一度頭を下げた。


「はい。気をつけます」


ミリアが椅子から立ち上がりかけた。


「ハインケル様、それは――」


その瞬間、トムがそっとミリアの袖を引いた。


セシリアさんも、小さく首を振る。


止めてくれた。


いや、止めてしまった。


ミリアが言ってくれようとしたのはわかる。


それは嬉しい。


でも、ここで言い返せば、たぶんミリアが悪目立ちする。


選抜生のミリアが侯爵令嬢に意見した、という形になる。


それは嫌だった。


私はミリアへ小さく首を振った。


大丈夫。


そう言いたかった。


また大丈夫だ。


でも、ここでは声に出さなかった。


出したら、ミリアに怒られる気がした。


ルイーゼ様は、ミリアの動きに気づいていたと思う。


けれど、何も言わなかった。


ただ、優雅に微笑む。


「良い働き口が見つかるとよろしいですわね、プラットさん」


「ありがとうございます、ハインケル様」


「では」


ルイーゼ様は、取り巻きたちと共に去っていった。


笑い声の名残だけが、少し教室に残る。


私は息を吐いた。


思ったより、肩に力が入っていた。


「ローレ」


ミリアの声が低い。


怒っている。


私にではないと思う。


たぶん。


「ごめん。止められた」


トムが小さく言った。


「止めなかったら、私、言ってた」


「だから止めた」


「わかってる」


ミリアは悔しそうに唇を結んだ。


私は慌てて言う。


「ありがとうございます、ミリア」


「何が」


「言おうとしてくれて」


ミリアは少しだけ目を丸くした。


私は続けた。


「でも、大丈夫です。慣れていますから」


言ってしまった。


大丈夫。


慣れている。


どちらも、あまりよくない言葉だとわかっているのに。


ミリアの顔が少し曇る。


セシリアさんも静かに私を見た。


トムは、明るい顔を少し引っ込めた。


しまった。


空気が重くなった。


私は笑おうとしたが、うまくいかなかった。


すると、トムがぱん、と軽く手を合わせた。


大きすぎない音。


でも、空気を変えるには十分だった。


「よし。ハネダ亭に話を通しておく」


声が明るい。


でも、無理に明るすぎない。


「大将に聞けば、すぐ返事くれると思う。女将さんにも話しておく。ローレが変な求人に引っかかる前に、ちゃんとしたところを確保しよう」


「変な求人に引っかかる前」


「いや、もう半分引っかかってたし」


「う」


反論できない。


かなり見ていた。


かなり興奮していた。


高額時給に。


「トム、言い方」


ミリアが注意する。


「悪い。でも事実だろ」


「事実でも柔らかく」


「ローレは時給に目が輝いていた」


「柔らかくない」


セシリアさんが小さく微笑んだ。


「ハネダ亭の方に確認していただけるなら、安心ですね」


「はい。ありがとうございます、トム」


私は頭を下げた。


「本当に助かります」


「任せとけ。大将も女将さんも、悪い人じゃない。むしろ、面倒見よすぎるくらいだ」


面倒見がよすぎる。


その言葉が、胸に少し残った。


面倒を見てもらう。


それは怖い。


でも、少しだけ温かそうでもある。


私はハネダ亭という名前を、心の中で繰り返した。


ハネダ亭。


飲食店。


まかない。


大将。


女将さん。


まだ見たことのない場所。


まだ会ったことのない人たち。


そこで働けるかもしれない。


王都で。


自分で。


怖い。


でも、髪染めを買うためには必要だ。


お菓子のためにも。


いや、お菓子はついで。


かなり大事なついで。


「申請書は私も確認しますね、ローレさん」


セシリアさんが言う。


「時間帯は無理のない範囲にしよう」


ミリアも続ける。


「ローレ、体力ないから」


「はい。体力はないです」


「即答」


トムが笑う。


「そこは自信あるんだな」


「あります。ない自信が」


「それは自信って言うのか?」


「たぶん、言いません」


自分で言って、少しだけ笑えた。


胸の中に残っていたルイーゼ様の言葉が、完全に消えたわけではない。


男爵家。


下級貴族。


アルバイト。


くすくす笑う声。


それはまだ、少し痛い。


でも、その上に別のものが重なった。


ハネダ亭。


まかない。


トムが話を通してくれること。


ミリアが危ない求人を止めてくれたこと。


セシリアさんが申請書を一緒に見てくれること。


痛い言葉は消えない。


でも、温かい言葉も消えない。


どちらも胸に残る。


それなら、温かい方を少しだけ大事にしてもいいのかもしれない。


私は求人誌ブラックワークを閉じた。


怪しい高額時給のページは、もう開かない。


たぶん。


いや、絶対。


そして、鞄にしまう前に、表紙をそっと撫でた。


役には立った。


危ないものを知るという意味で。


次は、ハネダ亭。


面接。


働けるかもしれない場所。


私は硬貨の少なさを思い出し、髪染めの瓶を思い出し、それからまだ見ぬ店の湯気みたいなものを想像した。


怖さと、少しの期待が混ざる。


その期待を持っていることが、少しだけ恥ずかしかった。


でも、捨てたいとは思わなかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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