雨の地上
ご覧いただきありがとうございます。
雨は、空から降っているのではなかった。
演習区画の上空に設置された気象制御装置――クラウドリングから、細かい水滴が絶え間なく落ちている。
本物の雲ではない。
でも、濡れる。
冷たい。
そして、容赦がない。
訓練服の上から支給されたレインコートを着ていても、袖口や襟元から水が入り込んでくる。靴の中はまだ無事だと思いたい。思いたいだけで、少し怪しい。
私はフードの端を押さえながら、演習区画の入口に立っていた。
目の前には、瓦礫だらけの市街地が広がっている。
戦域投影盤で見た時は、緑の線と赤い点と白い点だった。
でも、実際に立つと違う。
壁は高い。
路地は狭い。
瓦礫は邪魔。
雨で地面はぬかるんでいる。
崩れかけた建物は、近くで見ると本当に崩れそうで、心臓に悪い。
演習用。
全部、演習用。
そうわかっているのに、胸が少し冷える。
人形に乗って上から見るのとは、まるで違う。
地上は、近い。
何もかもが近すぎる。
水たまり。
泥。
ひび割れた壁。
足元の石。
誰かの呼吸。
「宇宙軍の皆さんには、地上部隊の避難民誘導任務を体験してもらう」
カワサキ教官の声が、雨音の中でもよく通った。
「今回は人形を使わない。航空支援部隊として現場を理解するため、地上部隊と同じ道を歩く。進行速度、視界、足場、避難民役の動き、負傷者役の搬送。全部、自分の足で確かめろ」
自分の足。
私はそっと足元を見た。
すでに泥が跳ねている。
訓練服の裾に茶色い点がついていた。
洗えば落ちるだろうか。
落ちるといい。
いや、そこではない。
問題は、私の足がこの地面でどこまで役に立つかだ。
持久走で倒れた記憶が、まだ身体に残っている。
体力がない。
それはもう、とてもよく知っている。
知らなくてよかったくらい知っている。
「宇宙軍側はユンカースを中心に行動する。フォッカー、地上側の指揮を執れ」
「はい、カワサキ教官」
フォッカーさんが短く返事をした。
緑灰色の地上軍用レインコートは、宇宙軍側のものより地味だった。
でも動きやすそうだ。
足元の泥にも慣れているのか、フォッカーさんたちは立ち方が安定している。
ホーカーさんも、ブリストルさんも、ドルニエさんも、雨の中で表情をあまり変えない。
すごい。
私はもう、顔が少ししょんぼりしている気がする。
「雨天条件では、足場が悪化する」
カワサキ教官は続けた。
「負傷者役や避難民役は、想定より遅れる。声が雨に消える。視界も悪い。航空支援側から見える線と、地上で歩く線は違う。覚えて帰れ」
覚えて帰れ。
はい。
覚えて帰りたい。
無事に帰りたい。
できれば転ばずに。
そんなことを思っていたら、後ろの方から小さな声が聞こえた。
「わざわざ泥の中を歩かせる必要があるのかしら」
「地上軍の訓練に付き合うなんて、靴が台無しですわ」
「空から支援するのが宇宙軍でしょうに」
声は抑えられていた。
でも、聞こえるように言っている。
そういう声だった。
私は肩を縮めた。
地上軍側にも聞こえている。
ホーカーさんの目が少し細くなった。
ブリストルさんは何も言わない。
フォッカーさんも表情を変えない。
慣れているのだろうか。
そう思うと、余計に胸が重くなる。
ルイーゼ様は、雨に打たれていても優雅だった。
レインコートのフードから淡い髪が少しだけ覗いている。
泥の跳ねた裾さえ、なぜか整って見える。
すごい。
本当にすごい。
たぶん、雨の方が気を遣っている。
「足場の悪さを知ることも、支援側には必要ですわね」
ルイーゼ様は穏やかに言った。
言葉だけなら正しい。
けれど、その声には少し距離があった。
泥の中に入るのは仕方ない。
でも、自分たちの場所ではない。
そんな響き。
一方で、シュヴァルベ様はレインコートの裾に泥が跳ねても、少しも気にしていないようだった。
雨で前髪が少し濡れている。
それでも背筋は伸びている。
「フォッカーさん。本日の行動手順を確認させてください」
「はい、ユンカース様」
シュヴァルベ様とフォッカーさんが地図端末を確認する。
その姿は、まだ少し硬い。
でも、前より近い。
顔合わせの時より。
戦域投影盤の時より。
少しずつ、線がつながっている。
私はそれを見て、胸の奥がほんの少し温かくなった。
雨で冷えているから、余計に。
避難民誘導任務は、南側入口から市街地に入り、倒壊した集合棟に取り残された避難民役を退避地点まで誘導する、という内容だった。
宇宙軍側は地上部隊に同行し、進路、視界、通信、航空支援時の危険を確認する。
人形は使わない。
魔力スラスターも使わない。
ただ歩く。
ただ歩く、のは簡単ではなかった。
最初の数十歩で、それはよくわかった。
泥が重い。
靴底にまとわりつく。
足を上げるたびに、ぬちゃ、と嫌な音がする。
雨でフードの端から水滴が落ちる。
視界が狭い。
レインコートの内側は蒸れているのに、外から冷える。
体温が少しずつ奪われる感じがした。
宇宙軍側の何人かは、すぐに不満そうな顔になった。
貴族の生徒ほど、泥を気にしている。
気持ちはわかる。
泥は嫌だ。
とても嫌だ。
でも、地上軍の人たちはそこを歩くのだ。
必要だから。
「ローレ、大丈夫?」
ミリアが横から声をかけてくれた。
「はい。まだ大丈夫です」
「まだ?」
「まだ、です」
ミリアは一瞬だけ目を細めたあと、うなずいた。
「正直でよし」
正直でよし。
私は少しだけ笑った。
セシリアさんも隣を歩いている。
レインコートに泥が跳ねているけれど、慌てた様子はない。
呼吸も落ち着いている。
「ローレさん、足元を見る時は、前の人との距離も確認してください」
「はい」
「雨で視界が狭いので、下ばかり見ていると止まった時にぶつかります」
「わかりました、セシリアさん」
セシリアさんは本当に冷静だ。
私は足元を見ると前を忘れるし、前を見ると足元を忘れる。
人間の目は二つあるのに、どうして同時にうまく見られないのだろう。
トムは少し前を歩いていた。
前に出すぎないように、ミリアが何度も見ている。
「トム、フォッカーさんより前に出ない」
「出てないって」
「半歩出た」
「半歩まで数えるのか?」
「数える」
「了解」
トムは素直に下がった。
えらい。
かなりえらい。
フォッカーさんが少しだけ振り返って、トムを見た。
「グラマンさん、地上では半歩の差で隊列が崩れることがあります」
「はい。気をつけます、フォッカーさん」
トムの返事はいつもより真面目だった。
地上軍側の注意を、ちゃんと聞いている。
それが少し嬉しい。
しばらく進むと、路地が狭くなった。
両側に崩れかけた壁が迫る。
雨音が壁に反響して、方向がわかりにくい。
地上軍のブリストルさんが前へ出た。
「この先、瓦礫で右側が狭い。二列は無理です。一列で」
フォッカーさんが頷く。
「一列。間隔を詰めすぎるな」
地上軍側がすぐに隊列を変える。
早い。
迷いがない。
宇宙軍側は少し遅れる。
私も遅れた。
どこに入れば邪魔にならないのか、一瞬迷ってしまう。
その間に、足元の泥がずるっと滑った。
「あ」
身体が傾く。
転ぶ。
これは転ぶ。
しかも泥に。
顔からいくかもしれない。
貴族令嬢が泥に顔から倒れる。
ありえない。
いや、私は持久走で倒れているので、ありえないことはもう起きている。
でも泥は嫌だ。
そう思った瞬間、腕を掴まれた。
「こっち」
短い声。
ホーカーさんだった。
私はぐいっと引き上げられ、なんとか立ち直った。
足元の泥が靴に絡みついている。
心臓がどきどきしていた。
「あ、ありがとうございます、ホーカーさん」
「足をまっすぐ上げると取られる。少し外へ逃がして、踵を残さない」
ホーカーさんはそう言って、実際に足を動かして見せてくれた。
無駄がない。
泥の上なのに、安定している。
「こう、ですか?」
私は真似してみた。
少しだけましだった。
「そう。力で抜くと疲れる」
「はい」
疲れる。
もう少し疲れている。
でも、言わない。
いや、言った方がいいのだろうか。
私は迷っていると、ミリアが横から言った。
「ローレ、今の覚えておいた方がいいよ。かなり違う」
「はい。助かりました」
ホーカーさんは短く頷いた。
「地上では転ぶと、本人だけじゃなく後ろも詰まる。怪我がなくても遅れになる」
厳しい。
でも、正しい。
私は少し胸が縮んだ。
「すみません」
「謝るより、次に使って」
「はい」
謝るより、次に使う。
その言葉は、少し新しかった。
私はすぐ謝る。
謝ると、その場が少し収まることがあるから。
でも、ここでは次に使う方が大事らしい。
たぶん、地上軍はそういう場所なのだ。
失敗を責めるより、すぐ次の一歩を変える。
泥の中では、謝っている間にも足は沈む。
私はホーカーさんに教わった歩き方で、もう一度進み始めた。
集合棟へ近づくにつれて、雨はさらに強くなった。
クラウドリングが、演習条件を一段階上げたらしい。
水滴が細かい線になって視界を削る。
レインコートの肩を叩く音が大きくなる。
体温が、少しずつ下がっていく。
指先が冷たい。
私は両手を握ったり開いたりした。
人形のインタフェースなら、冷えても魔力の糸が通る。
でも、今は生身。
手が冷えると、ただ冷たい。
当たり前のことが、少し心細い。
「宇宙軍の方々には、少々きつい環境ですわね」
ルイーゼ様の声が聞こえた。
振り返ると、ルイーゼ様は雨の中でも姿勢を崩していなかった。
泥も気にしていないように見える。
でも、周囲の取り巻きたちは明らかに嫌そうだった。
「地上軍は常にこのような環境を想定しているのでしょう。慣れの差は大きいですわ」
言葉は丁寧。
見下しているとは言い切れない。
でも、少しだけ上から見ている。
そう感じてしまう。
シュヴァルベ様はその言葉には乗らなかった。
足元を確認しながら、フォッカーさんに聞いている。
「この雨量では、避難民役の移動速度はどれほど落ちますか」
「通常想定の七割程度です。負傷者役がいる場合は半分以下になります」
「半分以下……」
シュヴァルベ様の表情が少し引き締まった。
「戦域投影盤で見た速度より、さらに遅いのですね」
「はい。地図上の線は滑りませんから」
フォッカーさんの言葉は淡々としていた。
でも、少しだけ皮肉が混じっていた。
シュヴァルベ様はそれを受け止めるように頷いた。
「覚えておきます」
反論しない。
知らないことを、ちゃんと受け取る。
その姿に、地上軍側の何人かが少し視線を変えた気がした。
まだ警戒はある。
でも、ただの高位貴族として見ているだけではない。
そんな変化。
小さいけれど、確かにある。
集合棟の入口は、半分瓦礫で塞がれていた。
中には避難民役の生徒たちがいる。
濡れた布を肩にかけ、怪我の札を付けた人もいた。
演習なのに、顔には不安そうな表情が作られている。
作り物のはずなのに、雨の中で見ると本当に寒そうだった。
ドルニエさんがすぐに前へ出る。
「避難民役、確認します。歩行可能者はこちらへ。負傷者役は動かさず待機」
声が落ち着いている。
大きすぎず、でも聞こえる。
雨の中で通る声だ。
セシリアさんがその横で避難経路を確認する。
「南側退避点までの通路は、先ほどの細道を使いますか」
ドルニエさんが頷く。
「雨で中央路地はさらに泥が深いです。細道の方が狭いですが、避難民役には安全です」
「では、宇宙軍側は最後尾支援に回った方がよいでしょうか」
「はい。前に人が増えると混乱します」
セシリアさんはすぐに頷いた。
「承知しました」
私はその様子を見ながら、周囲を確認した。
建物の壁。
瓦礫。
水の流れ。
人の位置。
避難民役の白い布。
地上軍の緑灰色。
宇宙軍の濃紺。
雨で色が暗くなっている。
視界が狭い。
でも、線は見える。
水がどこへ流れているか。
泥がどこで深くなるか。
人がどこで詰まるか。
ここ。
集合棟の出口。
歩行可能者が一斉に出ると、瓦礫の段差で詰まる。
後ろの負傷者役を支える人とぶつかる。
そして、その少し先。
崩れかけた外壁の下。
雨水が溜まっている。
地面が柔らかい。
そこに人が集中すると、足を取られる。
転ぶ。
後ろも止まる。
「……」
また見えてしまった。
私は唇を噛みそうになり、やめた。
言う。
これは言った方がいい。
「ドルニエさん」
私の声に、ドルニエさんが振り返る。
「はい」
「出口のところ、歩行可能者をすぐに出すと詰まると思います。先に二人ずつに分けた方がいいかもしれません。それから、外壁の下の水たまりは避けた方が……地面が柔らかそうです」
ドルニエさんが地面を見る。
ブリストルさんもすぐに確認へ動いた。
「水たまり、深いです。下が沈みます」
ホーカーさんが外壁を見上げる。
「人が詰まると壁際に寄る。危ないね」
フォッカーさんが即座に指示を出した。
「避難民役は二人ずつ。外壁下は通さない。グラマンさん、そこに立って誘導線を作れますか。ただし、壁に近づきすぎないで」
「できます、フォッカーさん」
トムがすぐに動いた。
「こっちです! 足元、ゆっくり! 壁側に寄らないでください!」
声が明るい。
雨の中でも通る。
トムはやっぱり、人に声をかけるのがうまい。
前に出る癖はあるけれど、こういう時は頼もしい。
ミリアはブリストルさんと一緒に、後続の進行を見ていた。
「この間隔だと、三組目で詰まる」
「なら二組目が抜けるまで待機させる」
「了解」
二人の会話は短い。
もう少し前から組んでいたみたいに見える。
セシリアさんはドルニエさんの横で、負傷者役にレインコートをかけ直していた。
「濡れると体温が下がります。演習でも、冷えは危険です」
「助かります、ヒースローさん」
ドルニエさんが答える。
セシリアさんの手つきは丁寧だった。
避難民役の生徒が少し安心したように見える。
私はそれを見て、胸が少し温かくなった。
でも、すぐに足元がぬるっと滑った。
「あわわ」
小さく変な声が出た。
今度は自力で立て直す。
ホーカーさんに教わった歩き方のおかげだった。
ホーカーさんが少しだけこちらを見る。
「今のは良かった」
褒められた。
泥で滑りかけて褒められる日が来るとは思わなかった。
「ありがとうございます」
少し嬉しい。
かなり嬉しい。
でも、足はもう重い。
雨で身体が冷え、泥で体力が削られる。
地上軍の過酷さは、じわじわ来る。
派手ではない。
爆発もない。
宇宙での急加速もない。
ただ、冷えて、濡れて、重くなって、少しずつ足が鈍る。
地味。
地味と言われるのは、たぶんこういうところなのだろう。
でも、地味な苦しさは消えない。
むしろ、ずっと続く。
私は息を整えながら、ようやく少しだけわかった気がした。
地上軍は、華やかではない。
でも、軽くない。
絶対に軽くない。
避難民役の誘導は、途中でさらに難しくなった。
演習条件として、負傷者役の一人が歩行不能になった。
ドルニエさんが担架を要求する。
地上軍側の生徒がすぐに簡易担架を組む。
宇宙軍側の何人かは、雨の中で立ったまま戸惑っていた。
担架を持つには、足場が悪すぎる。
でも、人手は必要だ。
フォッカーさんが振り返る。
「宇宙軍側から二名、補助をお願いします。体力に不安がある者は無理をしないでください」
私は反射的に一歩出かけた。
役に立ちたい。
でも、すぐに止まった。
私が担架を持つと、たぶん途中で遅れる。
最悪、落とす。
それはだめだ。
役に立ちたい気持ちだけで出ると、邪魔になる。
胸が少し痛い。
トムが前へ出た。
「俺、行けます」
もう一人、選抜生の男子が出る。
ホーカーさんがすぐに持ち方を教えた。
「腕だけで持たない。腰で支える。足元を見る人と、前を見る人を分ける」
トムは真剣に聞いている。
私はその後ろで、何かできることを探した。
担架は持てない。
でも、進路なら見られる。
「フォッカーさん」
「何ですか、プラットさん」
「この先の曲がり角、担架が通るには狭いと思います。壁側に雨水が流れているので、担架を傾けると足を取られます。少し遠回りになりますが、南側の広い道を通った方がいいかもしれません」
フォッカーさんが地図端末を見る。
ブリストルさんが前方へ走る。
雨の中でも速い。
少しして戻ってきた。
「プラットさんの言う通りです。曲がり角は担架だと危険。南側は距離が伸びますが、幅があります」
フォッカーさんはすぐに判断した。
「南側へ変更。時間はかかるが、転倒よりましだ」
カワサキ教官が少し離れた場所で見ていた。
表情は変わらない。
でも、こちらを見ている。
私は背筋が伸びた。
怒られているわけではない。
でも、地上軍の教官に見られるのは緊張する。
「プラット」
カワサキ教官が言った。
敬称はない。
教官だから当然だ。
「はい、カワサキ教官」
「気づいたなら早く言え。迷っている間にも、地上では人が冷える」
胸に刺さった。
「はい。すみません」
「謝罪より次だ」
ホーカーさんと同じようなことを言われた。
地上軍の教官らしい言葉。
短くて、逃げ場がない。
でも、踏みつける言葉ではない。
私はうなずいた。
「はい」
次。
次に使う。
私は自分の中で繰り返した。
南側の広い道へ回る途中、宇宙軍側の一部生徒がまた不満を漏らした。
「これだけ遠回りするなら、人形で運べばすぐではありませんの」
「本当に、地上の手順は回りくどいですわね」
雨音に紛れているけれど、聞こえる。
ホーカーさんが少し振り向きかけた。
フォッカーさんが止める。
シュヴァルベ様が、足を止めた。
「人形で運べば、負傷者役はさらに揺れます」
声は静かだった。
雨の中で、よく響く。
「低空で近づけば推力風で瓦礫が動く。地上部隊の進路も塞ぐ。早いだけでは、支援になりません」
言われた生徒たちは、黙った。
シュヴァルベ様のレインコートには泥が跳ねている。
髪の端も濡れている。
それでも、少しも揺らがない。
「私たちは、それを学ぶためにここにいます」
その言葉は、宇宙軍側に向けられていた。
同時に、自分にも向けているように聞こえた。
フォッカーさんが小さく頷く。
「ユンカース様の判断に同意します」
二人の間に、また線が太くなった気がした。
完全な信頼ではない。
でも、同じ方向を見るための線。
それが雨の中で、少しだけ見えた。
私はその光景を見て、胸の奥が熱くなった。
寒いのに。
変なの。
避難民役の誘導は、予定より遅れながらも続いた。
南側の広い道を進み、退避地点へ向かう。
雨はまだ降っている。
泥は重い。
私の足はかなり怪しい。
太ももが疲れている。
ふくらはぎも疲れている。
心も少し疲れている。
全身で疲れている。
「ローレ、少し歩幅を小さく」
ミリアが言った。
「はい」
「無理に追いつこうとすると転ぶ」
「はい」
「返事はいいから呼吸」
「はい……あ、すみません」
「謝らない」
「はい」
忙しい。
ミリアに注意されながら歩くと、少し安心する。
トムは担架を支えながら汗と雨でぐしゃぐしゃになっていた。
でも、まだ声を出している。
「あと少しです! ゆっくりで大丈夫です!」
担架の反対側の地上軍生徒が少し笑った。
「グラマンさん、声が大きいですね」
「取り柄です」
「助かります」
トムが少し嬉しそうにした。
ミリアが遠くから「前見て」と言った。
トムはすぐ前を見た。
セシリアさんはドルニエさんと避難民役の人数を確認している。
「歩行可能者、十名。負傷者役、一名。遅れなし」
「ありがとうございます、ヒースローさん」
「いいえ」
セシリアさんの声も、少し雨でかすれていた。
それでも落ち着いている。
みんな、少しずつ地上軍の動きに混ざっている。
まだぎこちない。
でも、混ざろうとしている。
私はその中で、ふと右側の壁を見た。
雨水が上から流れている。
壁のひびに沿って、水が筋になって落ちている。
その下に、瓦礫の小さな山。
そこを通ると、担架が少し壁側へ寄る。
重みで足元がずれる。
壁の一部が崩れる。
直接当たらなくても、音で避難民役が止まる。
列が詰まる。
赤い警告のようなものが、頭の中に点った。
「止まってください」
私は思わず声を出した。
少し大きかった。
みんなが止まる。
雨音だけが続く。
私は慌てて説明した。
「右の壁、雨水がひびに入っています。担架が寄ると、足元の瓦礫が崩れて壁に響くかもしれません。音が出ると、避難民役が止まります。左寄りに、少しだけ進路をずらした方がいいと思います」
フォッカーさんが即座に壁を見る。
ホーカーさんが足元を確認する。
ブリストルさんが壁を軽く叩き、耳を澄ませる。
「内部、少し浮いています」
ブリストルさんが言った。
「崩落まではいきませんが、音は出ます」
ドルニエさんが避難民役の列を見る。
「ここで音が出ると、設定上、混乱判定が入る可能性があります」
フォッカーさんが頷く。
「左寄りへ。担架、壁から離れろ」
隊列が動く。
トムたちが担架の位置を調整する。
避難民役の列も、セシリアさんとドルニエさんの誘導で少し左へ寄る。
壁の横を通り過ぎる時、私は息を止めていた。
何も起きない。
壁は崩れない。
大きな音も出ない。
全員が通過する。
退避地点まで、あと少し。
「プラット」
カワサキ教官の声が後ろから飛んだ。
「はい」
「今の判断は早かった」
短い言葉。
私は少し固まった。
褒められた?
たぶん。
「ありがとうございます、カワサキ教官」
「次もその速さで言え」
「はい」
次も。
私はうなずいた。
胸の奥が、少し熱い。
役に立てた。
でも、それだけではなく。
迷わず言えた。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
退避地点に全員が到着した時、私はもうかなり疲れていた。
膝が少し笑っている。
笑うならもっと楽しい場面で笑ってほしい。
雨は止まらない。
レインコートの中まで冷えている。
髪の染料は大丈夫だろうか。
ふと不安になる。
雨で流れていないだろうか。
根元が見えていないだろうか。
私はフードの端を握った。
大丈夫。
たぶん。
今は、それどころではない。
カワサキ教官が全員を見渡した。
「避難民役、全員退避。負傷者役、搬送完了。任務は達成」
その言葉に、宇宙軍側から小さな安堵の息が漏れた。
地上軍側は、すぐに人数確認を続けている。
任務達成で終わりではない。
確認までが任務。
そういう動きだった。
セスナ教官が宇宙軍側を見る。
「今日見たものを忘れるな。支援とは、ただ早く、強く、上から動くことではない。地上には地上の速度がある」
地上の速度。
その言葉が胸に残った。
雨で遅くなる速度。
泥で重くなる速度。
避難民役が怖がって止まる速度。
担架が曲がり角で詰まる速度。
地図の上では見えなかった速度。
人形のスラスターでは測れない速度。
私はそれを少しだけ知った。
ほんの少し。
でも、知る前とは違う。
トムは担架を下ろしたあと、両手をぶらぶらさせていた。
「腕、やばい」
ミリアがすぐに言う。
「だから力で持たないって言われてたでしょ」
「気をつけたんだけどな」
「まだ力んでた」
「ミリア、見てたのか」
「見てた」
「ありがとな」
ミリアが一瞬だけ黙った。
それから、少しだけそっぽを向いた。
「別に」
トムは笑った。
雨の中なのに、そこだけ少し温かい。
セシリアさんはドルニエさんと静かに話していた。
「実際に歩くと、避難民役の方に見えるものが違うのですね」
「はい。支援側の影が見えるだけで、進行が止まることがあります」
「次は、その距離も考えます」
「お願いします、ヒースローさん」
ミリアはブリストルさんと端末を見ている。
「地上視界のレイヤー、もっと早く出せるようにしたい」
「サーブさんならできそうです」
「やってみる」
トムはフォッカーさんに担架の持ち方をもう一度聞いている。
フォッカーさんは真面目に教えてくれていた。
少しずつ。
本当に少しずつだけれど、つながっている。
完全ではない。
宇宙軍側の中には、まだ泥を嫌がり、地上軍のやり方を遠回りだと思っている人もいる。
地上軍側も、宇宙軍を完全に信用したわけではない。
それは当然だ。
過去の事故は、雨で流れない。
蔑称も、簡単には消えない。
でも、同じ雨の中を歩いた。
同じ泥で靴を汚した。
同じ避難民役を誘導した。
それは、小さな一歩だと思う。
私は退避地点の端で、少しだけ座り込みたくなった。
でも、座ると立てなくなりそうなので我慢する。
そこへホーカーさんが近づいてきた。
「プラットさん、足は?」
「少し疲れました」
「少し?」
「……かなり、疲れました」
ホーカーさんは小さく頷いた。
「それでいい。地上では、疲れたと言える方がまし。黙って倒れられると困る」
「はい」
その言葉が少し胸に刺さる。
私は黙って倒れたことがある。
持久走で。
「次は、もう少し早く言います」
「そうして」
ホーカーさんはそれだけ言って戻っていった。
短い。
でも、優しいような気もした。
いや、優しいというより実用的。
実用的な優しさ。
地上軍らしい。
私は少しだけ笑った。
シュヴァルベ様が、フォッカーさんと話し終えてこちらへ来た。
レインコートは泥で汚れている。
髪も少し濡れている。
それでも、背筋は伸びている。
「プラットさん」
「はい、ユンカース様」
「何度も危険を見つけてくれました。助かりました」
まっすぐ褒められて、胸が跳ねる。
「いえ、私は、その……見えたものを言っただけです」
「その、見えたものを言えることが大切なのだと思います」
シュヴァルベ様の声は、雨の中で少し柔らかかった。
「私も、地上を知らないことを思い知らされました」
「ユンカース様も、ですか」
「ええ。戦域投影盤では理解したつもりでいました。でも、雨と泥と人の足音は、盤の上にはありませんでした」
シュヴァルベ様は演習区画を見た。
その横顔は真剣だった。
「次の合同演習では、今日のことを使わなければなりません」
次。
本番に近い合同演習。
人形も、地上部隊も、避難民役も、敵役も動く。
私は胸の奥が冷えるのを感じた。
怖い。
でも、目をそらしてはいけない気もする。
この雨の中を歩いたから。
泥で足を取られたから。
ホーカーさんに助けられたから。
カワサキ教官に、早く言えと言われたから。
セシリアさんが避難民役に声をかけていたから。
トムが担架を支えたから。
ミリアが地上視界を見ようとしていたから。
シュヴァルベ様が知らないと認めたから。
全部、次につながっている。
私は自分の足元を見た。
泥だらけの靴。
冷えた指先。
疲れた足。
それでも、立っている。
弱いけれど、立っている。
「ちゃんと、見ます」
私は言った。
「次も。見えたら、言います」
シュヴァルベ様は頷いた。
「お願いします、プラットさん」
お願いされた。
頼られた。
その重さは怖い。
でも、今は少しだけ逃げずに持てる気がした。
雨はまだ降っている。
クラウドリングの下、演習区画は灰色に濡れていた。
瓦礫も、壁も、泥も、人の靴跡も、全部同じ雨に打たれている。
宇宙軍も地上軍も、同じ雨の中にいた。
それでも、同じになったわけではない。
距離は残っている。
冷たさも残っている。
でも、泥の上には足跡がついた。
ばらばらで、曲がっていて、深さも違う足跡。
そのいくつかは、同じ方向へ向かっていた。
次は、その足跡の先で、本当の合同演習が始まる。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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