表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/116

貴族の責務

ご覧いただきありがとうございます。

教室に入ると、いつもより空気が固かった。


まだ講義は始まっていない。


それなのに、机に向かう生徒たちの背筋が少し伸びている。


話し声もあるにはあるけれど、食堂の時みたいな軽さはない。声の大きさがひとつ下げられていて、笑い声もすぐに消える。


私は入口で少し立ち止まった。


空気が固い場所は、苦手だ。


怒られる前の食卓に似ている。


誰も怒鳴っていないのに、何かを間違えたらすぐに音が鳴りそうな感じ。


端末に表示された講義名を確認する。


礼法と貴族責務論。


私は小さく息を吸った。


礼法。


貴族責務。


名前だけで背中が重くなる。


王立宇宙軍士官学校では、貴族子女と選抜生が同じ教室で学ぶ。


セスナ教官も言っていた。


この学園では、侯爵家も男爵家も、選抜生も、同じ基準で扱う。


でも、同じ教室で学ぶからといって、同じ重さで受け取れるわけではない。


特に、礼法や貴族責務に関する授業はそうだと思う。


貴族側の生徒にとって、その言葉は家の名前とつながっている。


血筋。


領地。


臣民。


国費。


軍役。


上位貴族なら、なおさらだろう。


下級貴族の私でも、少し苦しい。


いや、下級だからこそ苦しいのかもしれない。


責任を語られるほど、そんな立派なものを持っていない自分が見えてしまう。


私はセシリアさんの隣に座った。


セシリアさんは、いつも通り静かに端末を準備している。


トムとミリアも近くの席にいた。


トムは少し落ち着かなさそうに椅子に座り直していて、ミリアに肘で軽くつつかれている。


「トム、背筋」


「伸ばしてるって」


「いま丸くなってた」


「礼法の授業って、背中まで見られるのか?」


「見られると思っておいた方がいい」


「きついな、礼法」


二人の小声を聞いて、少しだけ緊張がゆるんだ。


でも講義が始まると、教室の空気はまた固くなった。


担当の講師は、名乗った後すぐに講義へ入った。


声は穏やかだったけれど、内容は軽くなかった。


貴族とは何か。


王国における爵位の意味。


領地を持つ家の義務。


民を守る責任。


王国軍に人材を出すことの意味。


国費で学ぶということ。


ひとつひとつが、丁寧に机の上へ置かれていく。


そして、置かれるたびに胸が少し重くなった。


「王立宇宙軍士官学校で学ぶということは、単に技術を得ることではありません。皆さんは国費によって教育を受けます。食事、寮、訓練機、講義、測定、医療。それらはどこから来るのか。王国の税であり、民の労であり、国家の未来への投資です」


投資。


私は机の上の端末を見た。


支給された端末。


毎日の食事。


清潔な寮。


壊れていない床。


ふかふかの寝台。


全部、税金。


誰かが働いたお金。


誰かが納めたもの。


それで私はここにいる。


その事実は、少し怖かった。


私は卒業できればいいと思っている。


できれば目立たず。


できれば戦わず。


できれば軍人にならず。


その私が、ここで食べて、眠って、学んでいる。


それは、誰かに申し訳ないことなのだろうか。


「貴族子女は、家名だけで尊ばれるのではありません。家名に伴う責任を果たすからこそ、尊ばれるのです。民に守られるためではなく、民を守るために立つ。それが王国貴族の義務です」


民を守る。


その言葉で、教室のどこかの空気が少し動いた気がした。


前方に座るシュヴァルベ様は、背筋を伸ばしたまま講義を聞いていた。


横顔しか見えない。


けれど、その横顔はとても真剣だった。


シュヴァルベ様は、こういう言葉をきっと重く受け取る人だ。


侯爵家令嬢。


ユンカースの名を背負う人。


新入生代表。


正しくあろうとする人。


あの人にとって、責務は飾りではないのだと思う。


本当に、守るために立とうとしている。


私はその横顔を見て、少し胸が痛くなった。


眩しい。


眩しくて、遠い。


私には、そこまで立派なものがない。


講義は続く。


軍人とは何か。


命令に従うこと。


判断すること。


部下や民の命を背負うこと。


戦場で恐怖を制御すること。


自らの力を、私欲ではなく王国と民のために使うこと。


言葉は正しい。


とても正しい。


だから、逃げ場がない。


正しい言葉は、時々、人の胸にまっすぐ刺さる。


私は戦争が嫌いだ。


人が傷つくのが嫌いだ。


誰かを守るためでも、誰かを殺すことになるなら怖い。


戦場へ行きたくない。


人形に乗りたくない。


それなのに、私は人形を動かせてしまう。


魔力も、適性も、高いと表示された。


知識も記憶もある。


でも、それは欲しくて得たものではない。


欲しくなかったものでも、責任は生まれるのだろうか。


講師の言葉が終わりに近づくころには、私は少し疲れていた。


走ったわけではないのに、胸の奥だけ持久走をしたみたいだった。



講義が終わると、教室の空気が少しゆるんだ。


でも、完全には戻らなかった。


責務という言葉は、終業の合図で消えてくれるほど軽くないらしい。


次の講義まで、少し時間がある。


生徒たちはそれぞれ端末を閉じたり、近くの相手と小さく話したりしていた。


私は机に両手を置いたまま、ぼんやりしていた。


セシリアさんが、そっと声をかけてくれる。


「ローレさん、少し疲れましたか?」


「はい。少しだけ」


少しだけ。


便利な言葉だ。


でも、かなり疲れたと言うのも変なので、少しだけにしておく。


ミリアが椅子をこちらへ少し寄せた。


「礼法って聞いてたけど、思ったより重かったね」


「貴族責務論だからな」


トムが腕を組んだ。


「俺、選抜生だけど、国費の話は結構刺さった。うち商会だから金の流れ考えると、あれは重い」


「トムが真面目なこと言った」


「ミリア、俺だって時々は真面目になる」


「頻度が低いだけで?」


「低いって言うな」


ミリアは軽く笑ったあと、私の方を見た。


「ローレは、貴族だからやっぱりこういう話、小さい頃から聞かされてきたの?」


「えっと……家によると思います」


私は少し考えた。


プラット家で、民を守る責任を教えられた記憶はあまりない。


領地は貧しく、屋敷は古く、父はいつもお金の話をしていた。


母は髪を染めることと、身体を大事にすることを言った。


お姉さまたちに何かあった時、使えなくなると困るから。


私は自分の手を見た。


言えない。


それは言えない。


スペアだったことは、ここで言ってはいけない。


友達になってくれた人たちにも、まだ。


「うちは、あまり……立派な家ではないので」


私は小さく笑った。


軽く。


重くならないように。


「領地も豊かではありませんし、家として大きな軍務を担っているわけでもありません。だから、責務というより、家の言うことを聞く、という感じでした」


「家の言うこと?」


ミリアが聞く。


私はうなずいた。


「はい。親が決めた相手がいれば、その方のところへ嫁ぐのだと思います」


言ってから、少し胸が冷えた。


でも、ここまではたぶん普通だ。


貴族の婚姻は家同士のもの。


セシリアさんも静かに聞いている。


「嫁ぎ先がなければ……その、どこかへ出されるのだと思います。働き口か、縁のある家か、そういうところへ」


身売り。


その言葉は、口に出すには少し重すぎた。


けれど、意味はきっとあまり変わらない。


私はなるべく軽く笑った。


「なので、学園に来られたのは、少し助かりました。卒業できれば、何かしら道ができるかもしれませんし」


トムの表情が少し変わった。


ミリアも黙った。


セシリアさんの目が静かに揺れる。


重くなりすぎた。


失敗した。


私は慌てて笑みを足した。


「いあー、でも、三食ありますし、寮も綺麗ですし。床も抜けませんし。かなり良い環境です」


「床が抜ける前提の比較、やめようか」


ミリアがすぐに言ってくれた。


ありがたい。


空気が少しだけ戻る。


「ローレさん」


セシリアさんが静かに言った。


「それで、ローレさんは卒業後、どうしたいのですか?」


どうしたい。


その質問は、責務より難しかった。


私はどうしたいのだろう。


戦いたくない。


軍人になりたくない。


誰かを殺したくない。


人形に乗りたくない。


平穏に暮らしたい。


でも、そんな本音はここでは言いにくい。


ここは宇宙軍士官学校だ。


みんな、少なくとも学ぶために来ている。


人形使いを目指している人もいる。


王国に仕える覚悟を持っている人もいる。


それでも、セシリアさんの声が優しかったからかもしれない。


トムとミリアが、私を急かさずに待っていたからかもしれない。


私は、つい言ってしまった。


「私は……卒業できればいい、と思っています」


言った瞬間、自分でも少し驚いた。


でも言葉は続いてしまう。


「軍人には、なりたくないです」


教室の音が、少し遠くなった気がした。


言ってしまった。


本音。


一番、言ってはいけない気がしていた言葉。


私は慌てて手を振った。


「あ、いえ、怠けたいとかではなくて。学ぶことはちゃんと学びますし、訓練もします。国費で学んでいることも、わかっているつもりです。ただ、その……」


戦争が嫌いだから。


人が死ぬから。


私の中に、死んだ人たちの声があるから。


そこまでは言えない。


「向いていないと思うので」


最後は、そんな小さな言葉になった。


向いていない。


本当は向いているのかもしれない。


適性検査の結果は高かった。


人形も動いた。


だから、向いていないは嘘かもしれない。


でも、心は向いていない。


戦場へ向かう心ではない。


私は小さくなった。


トムは、すぐには何も言わなかった。


ミリアも、少し難しい顔をしている。


セシリアさんは、私を見る目を少しだけ柔らかくした。


「ローレさんは、戦うことが怖いのですね」


私は息を止めた。


怖い。


そう言われると、胸の奥が少しほどける。


「……はい」


小さく答えた。


「怖いです」


それを言えたことに、自分で驚いた。


怖い。


戦うことが怖い。


誰かを傷つけることが怖い。


誰かが死ぬことが怖い。


私が生き残ることも、少し怖い。


セシリアさんは、責めなかった。


「怖いと思うことは、悪いことではないと思います」


その声は、とても静かだった。


私は泣きそうになって、慌ててまばたきをした。


しかし、その時だった。


「それだけで済ませてよい話ではないわ」


声がした。


穏やかだけれど、硬い声。


私は振り向いた。


少し離れた席にいたシュヴァルベ様が、こちらを見ていた。


隣にはルイーゼ様がいる。


ルイーゼ様の表情は、いつものように整っている。


けれど、その目は少しだけ冷たかった。


しまった。


聞かれていた。


私の言葉。


卒業できればいい。


軍人にはなりたくない。


よりによって、シュヴァルベ様に。


胸が一気に縮んだ。


私は反射的に立ち上がりかけた。


でも机に膝をぶつけて、小さく音が鳴った。


痛い。


でもそれどころではない。


「ユ、ユンカース様」


声が少し上ずった。


シュヴァルベ様は立ち上がり、ゆっくりこちらへ歩いてきた。


高圧的ではない。


怒鳴ってもいない。


けれど、優しくもなかった。


その目はまっすぐで、逃げ道がない。


「プラットさん。戦うことを怖いと思うのは、悪いことではありません」


言葉だけなら、セシリアさんと似ている。


でも、続く声は違った。


「けれど、貴族として国費で学ぶ以上、卒業だけを目的にしてよいとは思えません」


胸に、静かに刺さる。


責められている。


でも、ただ怒られているのとは違う。


シュヴァルベ様は、本当にそう信じているのだ。


貴族として。


国費で学ぶ者として。


王国と民に仕える責任を。


「私……」


言葉が詰まった。


謝るべきだろうか。


謝れば済むだろうか。


でも何に謝るのだろう。


軍人になりたくない本音に?


怖いと思ったことに?


国費で食べていることに?


全部。


全部、謝るべきな気がしてくる。


「申し訳ありません」


私は頭を下げた。


いつもの形。


困った時の形。


でも、シュヴァルベ様の声はそこで少し硬くなった。


「謝罪を求めているのではありません」


私は頭を下げたまま、息を止めた。


謝罪ではない。


では、何を求められているのだろう。


「自分の力が、誰のために使われるべきかを考えてほしいのです」


シュヴァルベ様の声は低く、静かだった。


「力がある者が、その力から目をそらし続けることはできません。まして貴族ならば」


力。


私は自分の手を見た。


人形を動かした指。


見えない糸を覚えている指。


欲しくなかった力。


でも、あるかもしれない力。


それを、誰のために使うべきか。


考えたくない。


考えたら、戦場が近づく気がする。


でも、考えないことも逃げなのだろうか。


「ユンカース様」


セシリアさんが静かに口を開いた。


声は丁寧だったけれど、少しだけ私の前に立つような響きがあった。


「ローレさんは、責任を軽んじているわけではないと思います。ただ、まだ……受け止めきれていないのではないでしょうか」


セシリアさん。


私は胸の奥が熱くなった。


庇ってくれた。


でも同時に、申し訳なくなる。


私のせいで、セシリアさんがシュヴァルベ様に言葉を返している。


トムも少し前に出そうになった。


ミリアがその袖を引く。


出すぎないように止めているのだと思う。


でも、ミリア自身も私の方を心配そうに見ていた。


シュヴァルベ様はセシリアさんを見た。


「ヒースローさんの言う通りかもしれません」


少しだけ、声が和らいだ。


けれど、私へ向ける目は真剣なままだった。


「ですが、受け止めきれないからといって、考えなくてよいわけではありません」


「……はい」


私はやっと返事をした。


小さい声だった。


でも、聞こえたと思う。


シュヴァルベ様は、少しだけ眉を寄せた。


それは怒りではなく、何か別のものに見えた。


心配。


違うかもしれない。


でも、そう見えた。


「プラットさん。私は、あなたにすぐ軍人になれと言っているわけではありません」


「はい」


「戦うことを楽しめとも言いません。そんな者を、私は信用しません」


その言葉に、胸が少しだけ動いた。


戦うことを楽しめとは言わない。


それは、私が一番怖がっていたこととは違った。


「けれど、怖いから見ない、嫌だから考えない、では済まない立場に私たちはいます」


私たち。


シュヴァルベ様は、私もそこに含めた。


侯爵家のシュヴァルベ様と、男爵家の私を。


同じ、貴族として。


それが重かった。


苦しかった。


でも、少しだけ不思議でもあった。


スペアとしてではない。


役立たなければ捨てられる身体としてでもない。


責任を問われる一人として、見られている。


それは怖い。


けれど、ただ下に見られるより、ずっと苦しい形で、私を人として扱っていた。


「……考えます」


私は言った。


それしか言えなかった。


「今すぐ、答えは出せません。でも、考えます」


シュヴァルベ様は、しばらく私を見ていた。


その目は、まだ厳しかった。


でも、少しだけ柔らかさが戻った気がした。


「それで十分です。今は」


今は。


その言葉に、胸が小さく痛んだ。


猶予をもらったみたいだった。


同時に、いつか答えを求められるのだとわかった。


ルイーゼ様が、そこで静かに微笑んだ。


「シュヴァルベ様はお優しいですわね。普通なら、国費で学びながら軍人になりたくないなどと口にすること自体、軽率と取られても仕方ありませんのに」


声は柔らかかった。


でも、中身は柔らかくなかった。


私は肩を縮めそうになった。


その通りだ。


軽率だった。


友達の前だから、つい本音を言ってしまった。


ここは学園で、教室で、周りには生徒がいる。


私はまだ、言葉の置き方が下手だ。


「ハインケル様のおっしゃる通りです。軽率でした」


私は頭を下げた。


ルイーゼ様の目が、少し満足そうに細くなる。


「いえ、プラットさんがご理解くださるならよろしいのです」


その言い方は丁寧だった。


でも、立場を弁えなさい、とまた聞こえた気がした。


シュヴァルベ様がルイーゼ様へ視線を向けた。


「ルイーゼ」


「はい、シュヴァルベ様」


「責めるために言ったのではないわ」


「もちろんですわ」


ルイーゼ様は綺麗に微笑んだ。


その微笑みは崩れない。


すごい。


私は笑ってごまかすけれど、ルイーゼ様の笑みはごまかしではなく武器みたいだ。


綺麗で、鋭い。


講義室の空気が、また固くなっていた。


周りの生徒たちも、こちらを気にしている。


私は目立ちたくなかったのに、また目立っている。


どうしてこうなるのだろう。


たぶん、私が余計なことを言ったからだ。


「次の講義の準備があります」


シュヴァルベ様が静かに言った。


「話はここまでにしましょう」


「はい。ユンカース様」


私はもう一度頭を下げた。


シュヴァルベ様は頷き、ルイーゼ様と共に席へ戻っていった。


その背中を見送ってから、私はゆっくり椅子に座った。


膝から力が抜ける。


持久走の後とは違う疲れだった。


走っていないのに、息が少し浅い。


トムが小声で言った。


「ローレ、大丈夫か?」


私は反射的に答えかけた。


大丈夫。


でも、口に出す前に止まった。


ミリアがじっと見ている。


セシリアさんも、静かに待っている。


私は少しだけ迷ってから、言った。


「……あまり、大丈夫ではないです」


言えた。


自分でも驚いた。


トムが目を丸くした。


ミリアが小さく息を吐く。


セシリアさんは、ほんの少しだけ微笑んだ。


「そう言えるなら、少し安心しました」


「安心、ですか?」


「はい。ローレさんが全部笑って隠してしまわないので」


胸が、また少し熱くなる。


私は机の下で手を握った。


「ユンカース様の言うことは、正しいと思います」


声に出すと、少し苦かった。


「でも、怖いものは怖いです」


誰もすぐには否定しなかった。


ミリアが言った。


「怖いって言うのも、考えるうちに入ると思う」


「そうでしょうか」


「うん。怖いものを怖くないって言う方が、たぶん危ない」


トムもうなずいた。


「俺も戦場なんて怖いぞ。行ったことないけど」


「トムは怖がり方が軽い」


ミリアが言う。


「いや、重く言うと本当に怖くなるだろ」


「それは少しわかる」


二人のやり取りに、少しだけ肩の力が抜けた。


セシリアさんが静かに言う。


「ローレさんは、卒業できればいい、と言いました。それが本音なら、それも大切な出発点だと思います。ただ、ユンカース様のおっしゃる通り、その先を考えないままではいられないのかもしれません」


その先。


卒業の先。


軍人にならない未来。


軍人になる未来。


どちらも、まだ遠くて怖い。


私は逃げたい。


平凡に暮らしたい。


誰も死なない場所にいたい。


でも、国費で学んでいる。


貴族としてここにいる。


人形を動かせる。


力があるかもしれない。


それらは、私が目を閉じても消えない。


私は自分の手を見た。


細い指。


人形に糸を通した指。


戦いたくない指。


それでも、動かせてしまう指。


「考えます」


私は小さく言った。


誰に向けたのか、自分でもわからなかった。


シュヴァルベ様へ。


セシリアさんへ。


トムとミリアへ。


それとも、自分自身へ。


「ちゃんと、考えます」


答えは出ない。


出したくもない。


でも、考えることから逃げたら、たぶん私はまた誰かの決めた役割に入れられてしまう。


スペア。


嫁ぎ先。


身売り。


撃墜女王。


怪物。


どれも、誰かが私に貼る名前だ。


私はまだ、自分で自分の名前をうまく持てない。


でも、ローレと呼んでくれる人たちができた。


その音に返事をしたいなら、少しずつでも自分で考えなければならないのかもしれない。


次の講義の予鈴が鳴った。


教室のざわめきが戻る。


私は端末を開き、次の資料を表示した。


文字は少しぼやけて見えた。


泣いてはいない。


ただ、胸の奥がまだ痛いだけ。


少し離れた席で、シュヴァルベ様が端末を見ていた。


横顔は静かだった。


怒っているようには見えない。


でも、優しく微笑んでもいない。


その距離が、今の私たちにはちょうどいいのかもしれない。


近すぎると、私は甘えてしまう。


遠すぎると、たぶん逃げてしまう。


厳しくて、まっすぐで、少し怖い。


でも、その怖さは、私を踏みつけるためのものではなかった。


そう思いたい。


私は息を吸った。


怖い。


軍人にはなりたくない。


戦争も嫌い。


その気持ちは消えない。


消えないまま、責務という言葉が胸の中に置かれた。


重い。


でも、今はまだ捨てられなかった。


捨てるには、少しだけ早い気がした。

ここまでお読みいただき有り難うございました。

面白いと思っていただけましたら、評価、ブックマークをお願いいたします。


励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ