貴族の責務
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教室に入ると、いつもより空気が固かった。
まだ講義は始まっていない。
それなのに、机に向かう生徒たちの背筋が少し伸びている。
話し声もあるにはあるけれど、食堂の時みたいな軽さはない。声の大きさがひとつ下げられていて、笑い声もすぐに消える。
私は入口で少し立ち止まった。
空気が固い場所は、苦手だ。
怒られる前の食卓に似ている。
誰も怒鳴っていないのに、何かを間違えたらすぐに音が鳴りそうな感じ。
端末に表示された講義名を確認する。
礼法と貴族責務論。
私は小さく息を吸った。
礼法。
貴族責務。
名前だけで背中が重くなる。
王立宇宙軍士官学校では、貴族子女と選抜生が同じ教室で学ぶ。
セスナ教官も言っていた。
この学園では、侯爵家も男爵家も、選抜生も、同じ基準で扱う。
でも、同じ教室で学ぶからといって、同じ重さで受け取れるわけではない。
特に、礼法や貴族責務に関する授業はそうだと思う。
貴族側の生徒にとって、その言葉は家の名前とつながっている。
血筋。
領地。
臣民。
国費。
軍役。
上位貴族なら、なおさらだろう。
下級貴族の私でも、少し苦しい。
いや、下級だからこそ苦しいのかもしれない。
責任を語られるほど、そんな立派なものを持っていない自分が見えてしまう。
私はセシリアさんの隣に座った。
セシリアさんは、いつも通り静かに端末を準備している。
トムとミリアも近くの席にいた。
トムは少し落ち着かなさそうに椅子に座り直していて、ミリアに肘で軽くつつかれている。
「トム、背筋」
「伸ばしてるって」
「いま丸くなってた」
「礼法の授業って、背中まで見られるのか?」
「見られると思っておいた方がいい」
「きついな、礼法」
二人の小声を聞いて、少しだけ緊張がゆるんだ。
でも講義が始まると、教室の空気はまた固くなった。
担当の講師は、名乗った後すぐに講義へ入った。
声は穏やかだったけれど、内容は軽くなかった。
貴族とは何か。
王国における爵位の意味。
領地を持つ家の義務。
民を守る責任。
王国軍に人材を出すことの意味。
国費で学ぶということ。
ひとつひとつが、丁寧に机の上へ置かれていく。
そして、置かれるたびに胸が少し重くなった。
「王立宇宙軍士官学校で学ぶということは、単に技術を得ることではありません。皆さんは国費によって教育を受けます。食事、寮、訓練機、講義、測定、医療。それらはどこから来るのか。王国の税であり、民の労であり、国家の未来への投資です」
投資。
私は机の上の端末を見た。
支給された端末。
毎日の食事。
清潔な寮。
壊れていない床。
ふかふかの寝台。
全部、税金。
誰かが働いたお金。
誰かが納めたもの。
それで私はここにいる。
その事実は、少し怖かった。
私は卒業できればいいと思っている。
できれば目立たず。
できれば戦わず。
できれば軍人にならず。
その私が、ここで食べて、眠って、学んでいる。
それは、誰かに申し訳ないことなのだろうか。
「貴族子女は、家名だけで尊ばれるのではありません。家名に伴う責任を果たすからこそ、尊ばれるのです。民に守られるためではなく、民を守るために立つ。それが王国貴族の義務です」
民を守る。
その言葉で、教室のどこかの空気が少し動いた気がした。
前方に座るシュヴァルベ様は、背筋を伸ばしたまま講義を聞いていた。
横顔しか見えない。
けれど、その横顔はとても真剣だった。
シュヴァルベ様は、こういう言葉をきっと重く受け取る人だ。
侯爵家令嬢。
ユンカースの名を背負う人。
新入生代表。
正しくあろうとする人。
あの人にとって、責務は飾りではないのだと思う。
本当に、守るために立とうとしている。
私はその横顔を見て、少し胸が痛くなった。
眩しい。
眩しくて、遠い。
私には、そこまで立派なものがない。
講義は続く。
軍人とは何か。
命令に従うこと。
判断すること。
部下や民の命を背負うこと。
戦場で恐怖を制御すること。
自らの力を、私欲ではなく王国と民のために使うこと。
言葉は正しい。
とても正しい。
だから、逃げ場がない。
正しい言葉は、時々、人の胸にまっすぐ刺さる。
私は戦争が嫌いだ。
人が傷つくのが嫌いだ。
誰かを守るためでも、誰かを殺すことになるなら怖い。
戦場へ行きたくない。
人形に乗りたくない。
それなのに、私は人形を動かせてしまう。
魔力も、適性も、高いと表示された。
知識も記憶もある。
でも、それは欲しくて得たものではない。
欲しくなかったものでも、責任は生まれるのだろうか。
講師の言葉が終わりに近づくころには、私は少し疲れていた。
走ったわけではないのに、胸の奥だけ持久走をしたみたいだった。
講義が終わると、教室の空気が少しゆるんだ。
でも、完全には戻らなかった。
責務という言葉は、終業の合図で消えてくれるほど軽くないらしい。
次の講義まで、少し時間がある。
生徒たちはそれぞれ端末を閉じたり、近くの相手と小さく話したりしていた。
私は机に両手を置いたまま、ぼんやりしていた。
セシリアさんが、そっと声をかけてくれる。
「ローレさん、少し疲れましたか?」
「はい。少しだけ」
少しだけ。
便利な言葉だ。
でも、かなり疲れたと言うのも変なので、少しだけにしておく。
ミリアが椅子をこちらへ少し寄せた。
「礼法って聞いてたけど、思ったより重かったね」
「貴族責務論だからな」
トムが腕を組んだ。
「俺、選抜生だけど、国費の話は結構刺さった。うち商会だから金の流れ考えると、あれは重い」
「トムが真面目なこと言った」
「ミリア、俺だって時々は真面目になる」
「頻度が低いだけで?」
「低いって言うな」
ミリアは軽く笑ったあと、私の方を見た。
「ローレは、貴族だからやっぱりこういう話、小さい頃から聞かされてきたの?」
「えっと……家によると思います」
私は少し考えた。
プラット家で、民を守る責任を教えられた記憶はあまりない。
領地は貧しく、屋敷は古く、父はいつもお金の話をしていた。
母は髪を染めることと、身体を大事にすることを言った。
お姉さまたちに何かあった時、使えなくなると困るから。
私は自分の手を見た。
言えない。
それは言えない。
スペアだったことは、ここで言ってはいけない。
友達になってくれた人たちにも、まだ。
「うちは、あまり……立派な家ではないので」
私は小さく笑った。
軽く。
重くならないように。
「領地も豊かではありませんし、家として大きな軍務を担っているわけでもありません。だから、責務というより、家の言うことを聞く、という感じでした」
「家の言うこと?」
ミリアが聞く。
私はうなずいた。
「はい。親が決めた相手がいれば、その方のところへ嫁ぐのだと思います」
言ってから、少し胸が冷えた。
でも、ここまではたぶん普通だ。
貴族の婚姻は家同士のもの。
セシリアさんも静かに聞いている。
「嫁ぎ先がなければ……その、どこかへ出されるのだと思います。働き口か、縁のある家か、そういうところへ」
身売り。
その言葉は、口に出すには少し重すぎた。
けれど、意味はきっとあまり変わらない。
私はなるべく軽く笑った。
「なので、学園に来られたのは、少し助かりました。卒業できれば、何かしら道ができるかもしれませんし」
トムの表情が少し変わった。
ミリアも黙った。
セシリアさんの目が静かに揺れる。
重くなりすぎた。
失敗した。
私は慌てて笑みを足した。
「いあー、でも、三食ありますし、寮も綺麗ですし。床も抜けませんし。かなり良い環境です」
「床が抜ける前提の比較、やめようか」
ミリアがすぐに言ってくれた。
ありがたい。
空気が少しだけ戻る。
「ローレさん」
セシリアさんが静かに言った。
「それで、ローレさんは卒業後、どうしたいのですか?」
どうしたい。
その質問は、責務より難しかった。
私はどうしたいのだろう。
戦いたくない。
軍人になりたくない。
誰かを殺したくない。
人形に乗りたくない。
平穏に暮らしたい。
でも、そんな本音はここでは言いにくい。
ここは宇宙軍士官学校だ。
みんな、少なくとも学ぶために来ている。
人形使いを目指している人もいる。
王国に仕える覚悟を持っている人もいる。
それでも、セシリアさんの声が優しかったからかもしれない。
トムとミリアが、私を急かさずに待っていたからかもしれない。
私は、つい言ってしまった。
「私は……卒業できればいい、と思っています」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
でも言葉は続いてしまう。
「軍人には、なりたくないです」
教室の音が、少し遠くなった気がした。
言ってしまった。
本音。
一番、言ってはいけない気がしていた言葉。
私は慌てて手を振った。
「あ、いえ、怠けたいとかではなくて。学ぶことはちゃんと学びますし、訓練もします。国費で学んでいることも、わかっているつもりです。ただ、その……」
戦争が嫌いだから。
人が死ぬから。
私の中に、死んだ人たちの声があるから。
そこまでは言えない。
「向いていないと思うので」
最後は、そんな小さな言葉になった。
向いていない。
本当は向いているのかもしれない。
適性検査の結果は高かった。
人形も動いた。
だから、向いていないは嘘かもしれない。
でも、心は向いていない。
戦場へ向かう心ではない。
私は小さくなった。
トムは、すぐには何も言わなかった。
ミリアも、少し難しい顔をしている。
セシリアさんは、私を見る目を少しだけ柔らかくした。
「ローレさんは、戦うことが怖いのですね」
私は息を止めた。
怖い。
そう言われると、胸の奥が少しほどける。
「……はい」
小さく答えた。
「怖いです」
それを言えたことに、自分で驚いた。
怖い。
戦うことが怖い。
誰かを傷つけることが怖い。
誰かが死ぬことが怖い。
私が生き残ることも、少し怖い。
セシリアさんは、責めなかった。
「怖いと思うことは、悪いことではないと思います」
その声は、とても静かだった。
私は泣きそうになって、慌ててまばたきをした。
しかし、その時だった。
「それだけで済ませてよい話ではないわ」
声がした。
穏やかだけれど、硬い声。
私は振り向いた。
少し離れた席にいたシュヴァルベ様が、こちらを見ていた。
隣にはルイーゼ様がいる。
ルイーゼ様の表情は、いつものように整っている。
けれど、その目は少しだけ冷たかった。
しまった。
聞かれていた。
私の言葉。
卒業できればいい。
軍人にはなりたくない。
よりによって、シュヴァルベ様に。
胸が一気に縮んだ。
私は反射的に立ち上がりかけた。
でも机に膝をぶつけて、小さく音が鳴った。
痛い。
でもそれどころではない。
「ユ、ユンカース様」
声が少し上ずった。
シュヴァルベ様は立ち上がり、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
高圧的ではない。
怒鳴ってもいない。
けれど、優しくもなかった。
その目はまっすぐで、逃げ道がない。
「プラットさん。戦うことを怖いと思うのは、悪いことではありません」
言葉だけなら、セシリアさんと似ている。
でも、続く声は違った。
「けれど、貴族として国費で学ぶ以上、卒業だけを目的にしてよいとは思えません」
胸に、静かに刺さる。
責められている。
でも、ただ怒られているのとは違う。
シュヴァルベ様は、本当にそう信じているのだ。
貴族として。
国費で学ぶ者として。
王国と民に仕える責任を。
「私……」
言葉が詰まった。
謝るべきだろうか。
謝れば済むだろうか。
でも何に謝るのだろう。
軍人になりたくない本音に?
怖いと思ったことに?
国費で食べていることに?
全部。
全部、謝るべきな気がしてくる。
「申し訳ありません」
私は頭を下げた。
いつもの形。
困った時の形。
でも、シュヴァルベ様の声はそこで少し硬くなった。
「謝罪を求めているのではありません」
私は頭を下げたまま、息を止めた。
謝罪ではない。
では、何を求められているのだろう。
「自分の力が、誰のために使われるべきかを考えてほしいのです」
シュヴァルベ様の声は低く、静かだった。
「力がある者が、その力から目をそらし続けることはできません。まして貴族ならば」
力。
私は自分の手を見た。
人形を動かした指。
見えない糸を覚えている指。
欲しくなかった力。
でも、あるかもしれない力。
それを、誰のために使うべきか。
考えたくない。
考えたら、戦場が近づく気がする。
でも、考えないことも逃げなのだろうか。
「ユンカース様」
セシリアさんが静かに口を開いた。
声は丁寧だったけれど、少しだけ私の前に立つような響きがあった。
「ローレさんは、責任を軽んじているわけではないと思います。ただ、まだ……受け止めきれていないのではないでしょうか」
セシリアさん。
私は胸の奥が熱くなった。
庇ってくれた。
でも同時に、申し訳なくなる。
私のせいで、セシリアさんがシュヴァルベ様に言葉を返している。
トムも少し前に出そうになった。
ミリアがその袖を引く。
出すぎないように止めているのだと思う。
でも、ミリア自身も私の方を心配そうに見ていた。
シュヴァルベ様はセシリアさんを見た。
「ヒースローさんの言う通りかもしれません」
少しだけ、声が和らいだ。
けれど、私へ向ける目は真剣なままだった。
「ですが、受け止めきれないからといって、考えなくてよいわけではありません」
「……はい」
私はやっと返事をした。
小さい声だった。
でも、聞こえたと思う。
シュヴァルベ様は、少しだけ眉を寄せた。
それは怒りではなく、何か別のものに見えた。
心配。
違うかもしれない。
でも、そう見えた。
「プラットさん。私は、あなたにすぐ軍人になれと言っているわけではありません」
「はい」
「戦うことを楽しめとも言いません。そんな者を、私は信用しません」
その言葉に、胸が少しだけ動いた。
戦うことを楽しめとは言わない。
それは、私が一番怖がっていたこととは違った。
「けれど、怖いから見ない、嫌だから考えない、では済まない立場に私たちはいます」
私たち。
シュヴァルベ様は、私もそこに含めた。
侯爵家のシュヴァルベ様と、男爵家の私を。
同じ、貴族として。
それが重かった。
苦しかった。
でも、少しだけ不思議でもあった。
スペアとしてではない。
役立たなければ捨てられる身体としてでもない。
責任を問われる一人として、見られている。
それは怖い。
けれど、ただ下に見られるより、ずっと苦しい形で、私を人として扱っていた。
「……考えます」
私は言った。
それしか言えなかった。
「今すぐ、答えは出せません。でも、考えます」
シュヴァルベ様は、しばらく私を見ていた。
その目は、まだ厳しかった。
でも、少しだけ柔らかさが戻った気がした。
「それで十分です。今は」
今は。
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
猶予をもらったみたいだった。
同時に、いつか答えを求められるのだとわかった。
ルイーゼ様が、そこで静かに微笑んだ。
「シュヴァルベ様はお優しいですわね。普通なら、国費で学びながら軍人になりたくないなどと口にすること自体、軽率と取られても仕方ありませんのに」
声は柔らかかった。
でも、中身は柔らかくなかった。
私は肩を縮めそうになった。
その通りだ。
軽率だった。
友達の前だから、つい本音を言ってしまった。
ここは学園で、教室で、周りには生徒がいる。
私はまだ、言葉の置き方が下手だ。
「ハインケル様のおっしゃる通りです。軽率でした」
私は頭を下げた。
ルイーゼ様の目が、少し満足そうに細くなる。
「いえ、プラットさんがご理解くださるならよろしいのです」
その言い方は丁寧だった。
でも、立場を弁えなさい、とまた聞こえた気がした。
シュヴァルベ様がルイーゼ様へ視線を向けた。
「ルイーゼ」
「はい、シュヴァルベ様」
「責めるために言ったのではないわ」
「もちろんですわ」
ルイーゼ様は綺麗に微笑んだ。
その微笑みは崩れない。
すごい。
私は笑ってごまかすけれど、ルイーゼ様の笑みはごまかしではなく武器みたいだ。
綺麗で、鋭い。
講義室の空気が、また固くなっていた。
周りの生徒たちも、こちらを気にしている。
私は目立ちたくなかったのに、また目立っている。
どうしてこうなるのだろう。
たぶん、私が余計なことを言ったからだ。
「次の講義の準備があります」
シュヴァルベ様が静かに言った。
「話はここまでにしましょう」
「はい。ユンカース様」
私はもう一度頭を下げた。
シュヴァルベ様は頷き、ルイーゼ様と共に席へ戻っていった。
その背中を見送ってから、私はゆっくり椅子に座った。
膝から力が抜ける。
持久走の後とは違う疲れだった。
走っていないのに、息が少し浅い。
トムが小声で言った。
「ローレ、大丈夫か?」
私は反射的に答えかけた。
大丈夫。
でも、口に出す前に止まった。
ミリアがじっと見ている。
セシリアさんも、静かに待っている。
私は少しだけ迷ってから、言った。
「……あまり、大丈夫ではないです」
言えた。
自分でも驚いた。
トムが目を丸くした。
ミリアが小さく息を吐く。
セシリアさんは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「そう言えるなら、少し安心しました」
「安心、ですか?」
「はい。ローレさんが全部笑って隠してしまわないので」
胸が、また少し熱くなる。
私は机の下で手を握った。
「ユンカース様の言うことは、正しいと思います」
声に出すと、少し苦かった。
「でも、怖いものは怖いです」
誰もすぐには否定しなかった。
ミリアが言った。
「怖いって言うのも、考えるうちに入ると思う」
「そうでしょうか」
「うん。怖いものを怖くないって言う方が、たぶん危ない」
トムもうなずいた。
「俺も戦場なんて怖いぞ。行ったことないけど」
「トムは怖がり方が軽い」
ミリアが言う。
「いや、重く言うと本当に怖くなるだろ」
「それは少しわかる」
二人のやり取りに、少しだけ肩の力が抜けた。
セシリアさんが静かに言う。
「ローレさんは、卒業できればいい、と言いました。それが本音なら、それも大切な出発点だと思います。ただ、ユンカース様のおっしゃる通り、その先を考えないままではいられないのかもしれません」
その先。
卒業の先。
軍人にならない未来。
軍人になる未来。
どちらも、まだ遠くて怖い。
私は逃げたい。
平凡に暮らしたい。
誰も死なない場所にいたい。
でも、国費で学んでいる。
貴族としてここにいる。
人形を動かせる。
力があるかもしれない。
それらは、私が目を閉じても消えない。
私は自分の手を見た。
細い指。
人形に糸を通した指。
戦いたくない指。
それでも、動かせてしまう指。
「考えます」
私は小さく言った。
誰に向けたのか、自分でもわからなかった。
シュヴァルベ様へ。
セシリアさんへ。
トムとミリアへ。
それとも、自分自身へ。
「ちゃんと、考えます」
答えは出ない。
出したくもない。
でも、考えることから逃げたら、たぶん私はまた誰かの決めた役割に入れられてしまう。
スペア。
嫁ぎ先。
身売り。
撃墜女王。
怪物。
どれも、誰かが私に貼る名前だ。
私はまだ、自分で自分の名前をうまく持てない。
でも、ローレと呼んでくれる人たちができた。
その音に返事をしたいなら、少しずつでも自分で考えなければならないのかもしれない。
次の講義の予鈴が鳴った。
教室のざわめきが戻る。
私は端末を開き、次の資料を表示した。
文字は少しぼやけて見えた。
泣いてはいない。
ただ、胸の奥がまだ痛いだけ。
少し離れた席で、シュヴァルベ様が端末を見ていた。
横顔は静かだった。
怒っているようには見えない。
でも、優しく微笑んでもいない。
その距離が、今の私たちにはちょうどいいのかもしれない。
近すぎると、私は甘えてしまう。
遠すぎると、たぶん逃げてしまう。
厳しくて、まっすぐで、少し怖い。
でも、その怖さは、私を踏みつけるためのものではなかった。
そう思いたい。
私は息を吸った。
怖い。
軍人にはなりたくない。
戦争も嫌い。
その気持ちは消えない。
消えないまま、責務という言葉が胸の中に置かれた。
重い。
でも、今はまだ捨てられなかった。
捨てるには、少しだけ早い気がした。
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