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ローレ

ご覧いただきありがとうございます。

宇宙軍士官学校に入学してから、しばらくたった。


しばらく、というのがどのくらいなのかは、少し難しい。


毎朝ちゃんと起きる。


髪の根元を確認する。


制服を着る。


食堂へ行く。


講義を受ける。


実技でへろへろになる。


食堂へ行く。


寮へ戻る。


端末の予定を確認する。


寝る。


この繰り返しが何度か続くと、人間は意外と慣れるらしい。


私はまだ、学園の全部に慣れたわけではない。


床が抜けないことには少し慣れた。


階段が軋まないことにも、だいぶ慣れた。


でも、格納庫に並ぶ人形には慣れない。


魔力測定の結果にも慣れない。


セスナ教官に苗字だけで呼ばれるのも、少しだけ慣れたけれど、まだ背筋が伸びる。


「プラット」


そう呼ばれると、私は反射的に「はい」と答える。


プラット。


それは家の名前だ。


でも学園では、私の名前でもある。


プラット家では、私は三女だった。


スペアだった。


用済みになった身体だった。


ここでは、プラット。


苗字で呼ばれる一人の生徒。


それが少し不思議で、まだ落ち着かない。


落ち着かないけれど、嫌ではなかった。



昼の食堂は、いつも賑やかだった。


訓練後の生徒たちが多い時間帯は、特にそうだ。


食器の音。


話し声。


椅子を引く音。


端末で予定を確認する小さな電子音。


軍学校なのに、食堂だけ見ると普通の学園みたいだった。


普通の学園を知らないので、たぶん、だけれど。


私はセシリア様、トム、ミリアと一緒に席に座っていた。


この四人で食事をすることも、少しずつ自然になってきている。


最初は緊張した。


伯爵令嬢のセシリア様。


選抜生のトム。


同じく選抜生のミリア。


みんな、私とは違う場所から来た人たちだ。


でも、食堂で同じ皿を持って、同じスープを飲むと、その違いは少し薄くなる。


少なくとも、スープは爵位を見ない。


おいしいものは、誰が飲んでもおいしい。


そこはとても公平で、良いと思う。


「プラット様、肉料理取らなかったんですか?」


トムが私の皿を見て言った。


トムはよく食べる。


見ていて少し気持ちいいくらい食べる。


そして、その隣でミリアが量を調整している。


「トム、取りすぎ。体力訓練の後だからって、限度があるでしょ」


「いや、これくらい普通だって。午後もあるし」


「その午後に動けなくなる未来が見える」


「ミリアの未来予知、俺に厳しすぎない?」


「経験則」


二人の会話は、相変わらず速い。


私はスープを飲みながら、少しだけ笑った。


「私は、これくらいで大丈夫です」


「プラット様の大丈夫は信用が薄いんだよなあ」


トムが言った。


「えっ」


「持久走の時も大丈夫って言って倒れたし」


「それは……その、走路と少し仲良くなってしまって」


「仲良くなり方が強引すぎる」


ミリアが言う。


セシリア様が小さく微笑んだ。


「無理はしない方がいいです。訓練は続きますから」


「はい。気をつけます」


私は素直にうなずいた。


気をつける。


本当に気をつけたい。


身体がついてこないことは、よくわかった。


人形は動かせる。


でも自分の身体は持久走で倒れる。


自分の中で一番扱いにくいのが自分の身体、というのは少し困る。


かなり困る。


ミリアがパンを割りながら、ふとこちらを見た。


「ねえ、プラット様」


「はい」


「その、急に言うと変かもしれないんだけど」


ミリアにしては珍しく、少し言いにくそうだった。


私はスプーンを置いた。


「なんでしょうか」


「私たち、もうけっこう一緒にいるでしょ」


「はい」


「だから、その……ローレって呼んでもいい?」


私は目を瞬いた。


ローレ。


聞いたことのない音だった。


いや、私の名前からできているのだから、聞いたことがないわけではない。


でも、そんなふうに呼ばれたことはなかった。


ローレッタ。


プラット。


お前。


あなた。


この子。


スペア。


プラット家の三女。


そういう呼び方なら、たくさん知っている。


でも、ローレ。


それは家の名前ではなかった。


役割でもなかった。


ローレッタ全部でもない。


短くて、少し軽くて、近い。


どう返事をすればいいのか、すぐにはわからなかった。


黙ってしまった私を見て、ミリアが少し慌てた。


「あ、嫌ならもちろんいいの。急だったし。貴族の方に失礼かもって思ったんだけど、でも、なんか、もうちょっと普通に話したくて」


「普通に……」


「うん。友達みたいに」


友達。


その言葉が、胸の中でゆっくり広がった。


友達。


私に。


私の友達。


私は、トムとミリアとセシリア様を見た。


トムはなぜか真剣な顔をしている。


セシリア様は静かにこちらを見ていた。


急かさない。


断ってもいいように、待ってくれている。


そういう待ち方だった。


私は膝の上で手を握った。


嫌ではない。


全然、嫌ではない。


むしろ。


むしろ、嬉しかった。


嬉しい。


そう思った瞬間、少し怖くなった。


嬉しいものは、失うと痛い。


名前を近く呼ばれるのは、たぶん温かい。


温かいものは、なくなると寒い。


それでも。


「はい」


私はうなずいた。


「ローレで、大丈夫です」


大丈夫。


また使ってしまった。


でも、これは少し違う。


隠すためではなく、受け取るための言葉だった。


ミリアの顔が明るくなった。


「じゃあ、ローレ」


名前を呼ばれた。


胸が、ぎゅっとなった。


痛いわけではない。


苦しいわけでもない。


ただ、初めて触る柔らかい布みたいに、扱い方がわからない。


「はい、ミリア」


呼び返すと、ミリアが少し驚いた。


そして笑った。


明るい笑顔だった。


「うん。それでいい」


トムがそこで身を乗り出した。


「じゃあ俺はローレッタ……いや、ローレって呼んでいい?」


「トム、便乗が早い」


ミリアがすぐに言う。


「流れって大事だろ」


「軽い」


「でも俺だけプラット様って遠くない? 距離感が寒い」


「言い方」


トムは私の方を見た。


「だめなら言ってくれ。ちゃんと戻すから」


軽いようで、そこはちゃんと聞いてくれる。


私はまた少し胸が温かくなった。


「ローレで、大丈夫です。トム」


トムが大きく笑った。


「おう、ローレ」


その声は、食堂のざわめきの中に自然に混ざった。


でも、私にははっきり聞こえた。


ローレ。


プラットでも、ローレッタでもない。


不思議な感覚。


でも嫌じゃない。


嬉しい。


たぶん、かなり嬉しい。


私はそれを顔に出しすぎないように、スープを飲んだ。


熱かった。


少しむせた。


「ローレ、熱いの苦手?」


ミリアが聞く。


「いえ、少し油断しました」


「スープに油断ってあるんだ」


トムが笑う。


「あります。王都のスープは、見た目より強いです」


「それ、スープの評価として新しいな」


セシリア様が口元に手を当てて笑った。


「では、私も……ローレさん、とお呼びしても?」


私はセシリア様を見た。


伯爵令嬢で、最初に連絡ポートで助けてくれた人。


いつも丁寧で、静かに気づいてくれる人。


そのセシリア様が、少しだけ遠慮がちに聞いている。


私はすぐにうなずいた。


「はい。嬉しいです、セシリアさん」


言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。


セシリアさん。


ヒースロー様ではなく。


セシリアさん。


近い。


すごく近い。


でも、セシリアさんは嫌な顔をしなかった。


むしろ、ほっとしたように微笑んだ。


「ありがとうございます、ローレさん」


ローレさん。


また胸がくすぐったくなる。


私はスープの器を両手で持った。


手元が温かい。


胸の中も、少し温かい。


温かいものが増えると、人間はどうすればいいのだろう。


私はまだ知らない。


でも、逃げなくてもいいのかもしれない。


そう思った。


呼び方が変わると、会話の形も少し変わった。


急に大きく変わるわけではない。


でも、言葉の角が少し丸くなる。


ミリアは前より遠慮なく注意してくるようになった。


「ローレ、その量だと午後の魔力制御で倒れるよ」


「でも、取りすぎると動けなくなるので」


「倒れるよりはまし」


「それは、はい」


トムはもっと気軽になった。


「ローレ、訓練機のリンクってどうやって安定させてるんだ?」


「えっ」


「俺、どうしても最初に出力がどんってなるんだよな。セスナ教官にも絞れって言われるし」


「出力は、細く流す感じで……」


言いかけて、私は言葉に詰まった。


どう説明すればいいのだろう。


指先から糸を伸ばして、機体の中の道を撫でるように。


急がず、でも遅すぎず。


押すのではなく、通す。


……説明になっている気がしない。


「えっと、水をこぼさないように、細い管に通す感じ、でしょうか」


「細い管」


トムは真剣に考え込んだ。


ミリアが横から言う。


「トムの場合、管に水を通すんじゃなくて樽ごと突っ込んでる感じだよ」


「俺、そんな乱暴?」


「うん」


「即答かよ」


「ローレの説明はわかりやすいと思う。トムには向いてないけど」


「そこまで言う?」


私は少し笑ってしまった。


笑ってから、あ、と口を押さえる。


でも、みんなも笑っていた。


怒られなかった。


笑ってもいい空気だった。


それが、まだ少し不思議だった。


プラット家では、食卓で余計に笑うと、お姉さまに睨まれることが多かった。


ここでは、トムが大げさに肩を落として、ミリアがそれをつついて、セシリアさんが静かに笑っている。


私はそこにいていい。


たぶん。


まだ、たぶんだけれど。


「ローレさん」


セシリアさんがふと声を落とした。


「その呼び方、本当に嫌ではありませんか?」


「はい」


私は今度は迷わず答えた。


「不思議ですけど、嫌ではないです。嬉しいです」


言ってしまった。


胸の中のものが、そのまま口から出た。


かなり恥ずかしい。


でも、言ってしまったものは戻らない。


セシリアさんは少しだけ目を細めた。


「それならよかったです」


ミリアも笑った。


「じゃあ決まり。ローレ」


「はい、ミリア」


「トムも、変な呼び方しないこと」


「しないって。ローレはローレだろ」


トムは何でもないように言った。


ローレはローレ。


その言葉が、胸の奥に小さく残った。


ローレはローレ。


マーリンではなく。


スペアではなく。


プラット家の余り物でもなく。


ローレ。


ただ、それだけ。


私はスープの底を見た。


もうほとんど残っていない。


少し寂しい。


でも、温かさは残っていた。


昼食を終えて食器を戻す時、食堂の入口の方が少し静かになった。


私は手元の皿を落としそうになった。


落とさなかった。


えらい。


視線が集まる先には、シュヴァルベ様がいた。


ルイーゼ様も一緒だった。


高位貴族の生徒たちが周りにいる。


食堂のざわめきは完全には消えないけれど、そこだけ少し整う。


シュヴァルベ様は、相変わらずまっすぐ立っていた。


濃紺の制服。


淡い金色の髪。


穏やかな表情。


でも、なぜかこちらを見ると、その目がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。


私は反射的に背筋を伸ばした。


トムもすぐ姿勢を正す。


ミリアも空気を読んで口を閉じた。


セシリアさんは落ち着いて頭を下げる。


シュヴァルベ様がこちらへ歩いてきた。


私の心臓は、やっぱり少し忙しくなった。


「ヒースローさん、グラマンさん、サーブさん。食事中だったかしら」


「いえ。ちょうど終えたところです、ユンカース様」


セシリアさんが答える。


シュヴァルベ様の視線が私へ向いた。


「プラットさんも、体調は問題ない?」


体調。


また心配されている。


ありがたい。


ありがたいのに、周りの視線が少し痛い。


ルイーゼ様が隣にいるから、余計に。


「はい。大丈夫です、ユンカース様」


言ってから、ミリアに見られた気がした。


大丈夫を使いすぎ。


そういう視線だった。


私は少し慌てて付け足す。


「きちんと食べました」


シュヴァルベ様は一瞬だけ目を瞬いた。


それから、柔らかく微笑んだ。


「それなら安心ね」


安心。


その言葉に、胸の奥が少し揺れた。


シュヴァルベ様は私が食べたことに安心するらしい。


なぜ。


いや、倒れたからかもしれない。


持久走で倒れた生徒が、ちゃんと食べていれば安心。


理屈は通る。


でも、声が少し近かった。


「午後の魔力制御では、無理に出力を上げない方がいいわ。あなたは制御が細かいから、強く流すより安定を意識した方がいいと思う」


私は驚いた。


「私の制御を、見ていらしたのですか」


「少しだけ。実機訓練の時に」


あ。


あれ。


六番機。


歩行。


見られていた。


やっぱり。


私は顔が熱くなった。


「お見苦しいところを……」


「見苦しくはなかったわ」


シュヴァルベ様はすぐに言った。


「とても丁寧だった」


丁寧。


それは褒め言葉なのだろうか。


たぶん褒め言葉だ。


でも私には、見透かされたようにも聞こえた。


うまくなりすぎないように動かしていたこと。


慎重に抑えていたこと。


それでも滑らかに動いてしまったこと。


どこまで見られたのだろう。


「ありがとうございます」


私は頭を下げた。


それ以外の返事が見つからなかった。


その時、トムが少し明るく言った。


「ローレ、実機の動きすごかったもんな」


「トム」


ミリアが小さく注意する。


でも、もう遅い。


ローレ。


その呼び方が、シュヴァルベ様の前で出た。


私は少し固まった。


シュヴァルベ様の目が、ほんのわずかに動いた。


怒ったわけではない。


不快そうでもない。


ただ、何かを確認するように、私とトム、ミリア、セシリアさんを順に見た。


「ローレ」


シュヴァルベ様が、静かにその音を繰り返した。


私の胸が跳ねた。


シュヴァルベ様の声で呼ばれたわけではない。


ただ音を確かめただけ。


それでも、変に緊張する。


「親しい呼び方ね」


「ミリアが、そう呼んでくれることになって……」


私は小さく言った。


「トムも。セシリアさんも」


セシリアさん。


シュヴァルベ様の前でそう呼んでしまって、少し緊張した。


でもセシリアさんは静かに頷いた。


「はい。ローレさんが許してくださいましたので」


シュヴァルベ様は少しだけ黙った。


その沈黙は長くはなかった。


けれど、私には少し長く感じた。


「そう」


シュヴァルベ様は微笑んだ。


「良いことだと思うわ」


良いこと。


そう言われて、少しほっとした。


同時に、なぜか胸がきゅっとした。


シュヴァルベ様の微笑みは穏やかだった。


でも、どこか遠い。


まるで、私たちの間にできた小さな輪を見て、安心しているような、少し寂しそうなような。


そんな顔に見えた。


本当はどう思っているのか、私にはわからない。


「プラットさん」


「はい」


「困ったことがあれば、周りを頼っていいのよ」


また、まっすぐな言葉。


私は一瞬、返事に詰まった。


頼る。


周りを。


今まで、私が一番苦手だったこと。


でも、食堂の席で、ミリアがローレと呼んでくれた。


トムがローレと呼んだ。


セシリアさんがローレさんと呼んだ。


その三人が、今、私の近くにいる。


私は一人ではない。


そう思ってもいいのだろうか。


すぐにはわからない。


でも、わからないままでも、少しだけうなずけた。


「はい。ありがとうございます、ユンカース様」


シュヴァルベ様は頷いた。


その隣で、ルイーゼ様が静かに微笑んでいた。


けれど目はやっぱり冷たい。


特に、トムが言ったローレという呼び方のあたりで、少しだけ視線が鋭くなった気がした。


下級貴族と選抜生が馴れ合っている。


そう思っているのかもしれない。


あるいは、シュヴァルベ様が私に言葉をかけること自体が気に入らないのかもしれない。


私は自然と肩をすくめそうになり、慌てて止めた。


ここで小さくなりすぎると、また心配される。


それも目立つ。


難しい。


「では、また講義で」


シュヴァルベ様が言った。


「はい、ユンカース様」


セシリアさん、トム、ミリアもそれぞれ挨拶をした。


シュヴァルベ様とルイーゼ様は、高位貴族の生徒たちの方へ戻っていった。


その背中を見送りながら、私は息を吐いた。


トムも同じように息を吐いた。


「ユンカース様って、すごいな。近くにいるだけで背筋伸びる」


「トムは普段から少し伸ばした方がいい」


ミリアが言う。


「ミリア、俺の背筋に厳しくない?」


「姿勢は大事」


「はい」


トムが素直に背筋を伸ばす。


私はそれを見て、少し笑った。


するとミリアがこちらを向いた。


「ローレも、無理に縮こまらない」


「えっ」


「今、すごく小さくなろうとしてた」


「……していましたか」


「してた」


即答だった。


セシリアさんもうなずいた。


「ローレさんは、困ると少し肩が内側に入ります」


見られている。


思ったより、ずっと見られている。


でも、嫌ではなかった。


責めるための視線ではないから。


気づいてくれる視線だった。


「気をつけます」


私は小さく言った。


「気をつけるっていうか、頼っていいんだよ」


ミリアが言った。


「さっきユンカース様も言ってたでしょ」


「頼る……」


「そう。たとえば、食べる量がわからない時とか」


「そこからですか」


「大事。ローレは放っておくと少なめに取る」


「見ていましたか」


「見てる」


ミリアは胸を張った。


トムが笑う。


「ミリア、面倒見いいよな」


「トムの面倒で慣れてるから」


「俺、教材?」


「かなり」


二人のやり取りに、セシリアさんがまた小さく笑った。


私はその中に立っていた。


ローレ。


ローレさん。


その呼び方が、まだ耳の奥に残っている。


ただのあだ名。


そう言えば、それだけかもしれない。


でも私には、それだけではなかった。


プラットという家から少し離れて。


ローレッタという長い名前から少し近づいて。


役割ではなく、家格でもなく、ただ私を呼ぶ音。


その音が、食堂のざわめきの中で何度も揺れている。


私はそれを、こぼさないように胸の中へしまった。


温かいものは、失うと痛い。


それは怖い。


でも、温かいと感じたことまでなかったことにはしたくない。


私はまだ、上手に誰かを頼れない。


大丈夫と言ってしまうし、すぐ謝ってしまうし、困ると笑う。


それでも。


ローレ、と呼ばれて返事をした時、私は少しだけ、自分がここにいてもいいような気がした。


ほんの少し。


でも、その少しは、私にはとても大きかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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