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支えるための手

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

「……出ます」


声は小さい。


とても小さかった。


それでも、ファルコンには届いた。


ファルコンは初めて手を差し出した。


強く引くためではなく。


選んだ後に、支えるための手だった。


「うん。じゃあ、行こう」


マーリンは、その手を見た。


白い手袋ではない。


貴族の手でもない。


帝国軍の手でもない。


王国の手。


敵国の手。


少しだけ迷ってから、指を伸ばした。


触れた瞬間、足元の鉄の冷たさが、少し遠くなった。


ファルコンはマーリンの重さを確かめるように支えた。


「立てる?」


「……少し」


「少しでいいよ」


「いいのですか」


「うん。少しずつで」


その言い方が、ひどく不思議だった。


少し気分が悪い。


少し食べた。


少し眠れない。


少しなら、監獄では大事にならない。


少しなら、見逃される。


けれどファルコンの少しは、見逃すための言葉ではなかった。


進むための幅だった。


マーリンは足を床に下ろした。


冷たい。


膝に力が入らない。


立ち上がろうとした瞬間、視界が白く揺れた。


「っ」


倒れる前に、ファルコンが支えた。


「無理に背筋を伸ばさなくていいよ」


その言葉に、マーリンの喉が詰まった。


背筋を伸ばすな。


そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。


ロイス家では、いつも伸ばしていた。


学園でも。


軍でも。


戦場でも。


拘束室でも。


容疑者になっても。


「……崩れます」


「崩れたら支える」


ファルコンは淡々と言った。


「いまはそれでいい」


マーリンは、返事をしなかった。


返事をしたら、何かが壊れそうだった。


ホーネットが扉の方へ向く。


「ファル、廊下に二つ。足音が重い。警備が来る」


『警報、まだ本格化していないわ。でも通信遅延が戻り始めている。急いで』


イーグルの声が鋭くなる。


『待って。レーダーに機影多数。どうやら侵入したのがバレたみたいね、向かってくるわ』


ホーネットが笑った。


軽い。


けれど、その目はもう戦闘の目だった。


「本命のお出ましか。じゃ、派手にしない程度に派手にいく?」


『派手にしない、とだけ覚えておいて』


「了解。ちょうどいいくらいに騒ぐ」


ファルコンはマーリンを支えながら歩き出した。


「マーリンさん。今から人形まで戻る。私の機体のコクピットに、簡易副座席がある。狭いけど、そこに座ってもらうね」


「コクピットに」


「うん。回収ポッドじゃない。私のすぐ後ろ。固定はするけど、声は届く」


声は届く。


それだけで、マーリンは少しだけ息を吸った。


届く。


その言葉は、いまのマーリンには大きすぎる。


クリスチーナの警告は届かなかった。


ブライアンの手続きは間に合わなかった。


父の声は届いても、マーリンには触れなかった。


けれど、この敵国の少女は言う。


声は届く、と。


「……分かりました」


マーリンは頷く。


頷いた途端、胸の奥が揺れた。


吐き気が戻る。


足が止まりかける。


ファルコンが支えを少し強くした。


「吐きそう?」


あまりにも直接の問いだった。


マーリンは一瞬、言葉を失う。


ロイス家では、そんな言い方はしない。


帝国軍の医師も、もっと整った単語を使った。


吐き気、軽度。


摂食量低下。


移送負荷。


けれど、ファルコンはただ聞いた。


吐きそうか、と。


「……少し」


「ネッタ、水」


「はいよ」


ホーネットが小さな容器を差し出す。


「口ゆすぐだけでもいいよ、マーリンちゃん」


マーリンちゃん。


呼び方が軽い。


軽すぎる。


けれど、番号よりは人に近かった。


マーリンは容器を受け取る。


手が震える。


ホーネットは何も言わず、容器の底を支えた。


「一口でいいよ」


「……ありがとうございます」


「どういたしまして。敵国の女に礼を言うなんて、律儀だねぇ」


「ネッタ」


ファルコンが短く呼ぶ。


ホーネットは肩をすくめた。


「悪い意味じゃないよ。すごいなって思っただけ」


マーリンは水を少しだけ含んだ。


金属の味ではない。


ぬるい。


けれど、監獄の水よりずっとましだった。


飲み込まず、口を湿らせる。


それだけで、少し息が楽になった。


「行けそう?」


ファルコンが問う。


命じない。


急かさない。


それでも、時間はない。


マーリンは小さく頷いた。


「行きます」


「うん」


ファルコンは歩き出す。


マーリンは支えられながら、看護棟の扉を越えた。


廊下には、倒れた職員が二人いた。


血はない。


目を閉じている。


生きている。


たぶん。


マーリンは足を止めかけた。


ホーネットがすぐ言う。


「眠ってるだけ。ちょっと乱暴な昼寝」


「昼寝には、床が硬そうです」


言ってから、マーリンは自分で驚いた。


そんな返しが出るとは思わなかった。


ホーネットも少し目を丸くする。


それから笑った。


「いいね、マーリンちゃん。思ったより返せる」


「ネッタ」


ファルコンの声は穏やかだが、少しだけ鋭い。


「ごめん。急ぐ」


イーグルの通信が入る。


『前方右、巡回三。左の保守路へ』


ファルコンが即座に進路を変える。


「マーリンさん、左へ」


「はい」


身体が遅れる。


ファルコンが合わせる。


引っ張らない。


置いていかない。


マーリンはそれが不思議で、少し怖かった。


合わせられることに慣れていない。


自分が合わせる側だった。


ロイス家に。


軍に。


戦場に。


NewEraに。


書類に。


今は、歩幅を合わせられている。


それだけで、膝の力が抜けそうになる。


「ファルコンさん」


「うん?」


「私は、遅いです」


「いまは遅くていい」


「足手まといでは」


「救出対象は、足手まといとは呼ばないよ」


ホーネットが後ろで頷く。


「そうそう。重い荷物なら文句言うけど、人間相手には言わない主義」


『ネッタ。余計』


「でも、ちょっと励ましにならない?」


『半分くらいは』


「やった、半分取れた」


マーリンは、ほんの少しだけ息を吐いた。


笑いではない。


でも、少しだけ詰まっていたものが動いた。


王国は、優しいわけではない。


許してくれるわけでもない。


それでも、ここには監獄とは違う言葉がある。


人間が、人間へ向けて出す言葉。


失敗もある。


軽すぎるものもある。


刺さるものもある。


けれど、記録のためだけの言葉ではなかった。


『ファル、警備が通信遮断に気づいた。外も動き出している』


イーグルの声が低くなる。


『人形へ戻るまで二分。越えたら包囲される』


「二分で戻る」


『対象の歩行速度では厳しいわ』


ファルコンは短く答えた。


「なら、抱える」


マーリンの身体が固まる。


「いえ、私は」


「マーリンさん」


ファルコンは立ち止まり、マーリンを見る。


「選んだのは、ここから出ること。歩き方までは、いま選ばなくていい」


言い方は柔らかい。


けれど、隊長の声だった。


「嫌なら言って。嫌じゃないなら、私が運ぶ」


マーリンは、言葉を探した。


抱えられる。


支えられる。


運ばれる。


どれも、今の自分には情けない。


けれど、ここで拒めば、時間が消える。


ファルコンも、ホーネットも、イーグルも危険になる。


王国兵。


敵国の兵。


それでも、マーリンのために危険へ入ってきた人たち。


「……お願いします」


ファルコンは頷く。


「分かった」


分かった、と言った。


書類の理解ではない。


処理の確認でもない。


ただ、受け取ったという言葉だった。


ファルコンはマーリンの腕を自分の肩へ回させる。


それから、身体を支え上げた。


軽い。


ファルコンの表情が一瞬だけ変わる。


マーリンはそれを見てしまった。


「軽い、ですか」


「うん」


正直だった。


「でも、いまは助かる」


ホーネットが横から言う。


「ファル、それ褒め方としてどうなの」


「褒めてない。状況確認」


「イーグみたいなこと言うね」


『聞こえてるわよ』


「聞こえるように言った」


三人の声が流れる。


マーリンはファルコンに支えられながら、目を閉じかけた。


眠いわけではない。


ただ、身体が揺れる。


胸がむかつく。


けれど、鉄の寝台よりは遠い。


床の冷たさよりはましだ。


廊下の角を曲がる。


警備兵が現れる。


ホーネットが前へ出た。


「はい、通行止め」


警備兵が武器を上げる前に、ホーネットが距離を潰す。


一人目の膝を崩す。


二人目の腕を払う。


三人目の足元へ低く滑り込む。


速い。


戦場の速さではない。


人形の速さでもない。


人の身体で、必要なだけ動く速さ。


「殺さないのですね」


マーリンは思わず言った。


ファルコンは進みながら答える。


「今回は、殺しに来たわけじゃないから」


「でも、敵でしょう」


「敵だよ」


短い答え。


「それでも、全部殺して進む必要はない」


マーリンの胸に、小さく痛みが走る。


敵。


それでも。


その二つが同じ場所にある。


帝国には、あまりなかった考え方。


敵は処理する。


危険は隔離する。


疑念は制御する。


そういう世界にいた。


王国は違うのか。


それとも、ただこの人たちが違うのか。


まだ、分からない。


分からないが、廊下に血の匂いはなかった。


それだけは、確かだった。


『外縁遮蔽まで残り三十秒』


イーグルの声が鋭くなる。


『ファル、左から守備人形二。こちらで抑えるわ』


「頼むよ、イーグ」


ファルコンはマーリンを支えたまま、足を止めなかった。


ホーネットは廊下の角で警備の気配を探りながら、通信に耳だけを向ける。


「イーグ、無理しないでよ。外で置いていかれたら困るし」


『置いていかれる動きはしないわ』


外で、遠い衝撃音が響いた。


金属同士がぶつかる鈍い音。


続いて、何かが壁面へ押し込まれるような低い振動。


『守備人形一、右腕部機能停止。もう一機は監視塔側へ誘導中』


「うわ、精密。イーグってたまに怖いよね」


『たまに、ではないでしょう』


「自覚あるんだ」


『ネッタ、そちらの通路に集中しなさい』


「はいはい。こっちはこっちで見てるよ」


ホーネットは軽く返しながら、廊下の先へ視線を戻した。


外では、もう一度だけ衝撃音が鳴る。


『二機目、進路妨害完了。撃破はしていないわ。短時間なら足止めできる』


「助かる」


ファルコンは短く応じ、マーリンの身体を支え直した。


『急いで。次が来る前に機体まで戻るわよ』


「了解」


ホーネットが先へ出る。


軽い声とは裏腹に、足音はほとんどなかった。


ファルコンは息を短く吐いた。


「人形まで行くよ」


マーリンは、ファルコンの肩越しに廊下を見た。


監獄の壁。


灰色の管。


低い天井。


鉄の寝台へ続く道。


そこから遠ざかっている。


自分で選んだ。


出ます、と言った。


それなのに、まだ心が追いつかない。


本当に出ていいのか。


罪を認めたのに。


王国の敵だったのに。


帝国から捨てられたのに。


どこへ行っても、マーリンの罪は消えない。


それでも、鉄の寝台へ戻るよりは。


番号で呼ばれ、少しだけ食べ、少しだけ働き、少しずつ空っぽになるよりは。


「……私」


マーリンは声を出した。


ファルコンが少しだけ顔を向ける。


「うん」


「私は、王国へ行っても、許されませんよね」


「すぐにはね」


「ずっとかもしれません」


「そうかもしれない」


柔らかいのに、甘くない。


ファルコンは嘘を言わなかった。


「でも、許されるかどうかと、生きて話すかどうかは別だよ」


マーリンは、目を伏せた。


別。


そう分けられることが、少し痛い。


けれど、必要な痛みだった。


帝国は、戦果と罪を分けた。


戦果は帝国へ。


罪はマーリンへ。


王国は、許しと生存を分けた。


許さない。


でも、生きて連れ出す。


似ているようで、違う。


その違いが何なのか、まだ言葉にならない。


けれど、全く同じではない。


それだけは分かる気がした。



補助港の外縁へ出た瞬間、冷たい風が叩きつけた。


監獄星の灰色の空。


低い雲。


遠くの監視塔。


その向こうに、三機の人形が見えた。


水色。


右後方の落ち着いた赤色。


左前方の鮮やかな黄色。


帝国の白いリュールとは違う。


完璧な美しさではない。


王国製の、少し無骨な人形。


けれど、いまのマーリンには、その無骨さがひどく現実的に見えた。


生きているもののための機械。


そう見えた。


『ファル、急いで。敵機影、近い』


イーグルが言う。


ホーネットが先に駆けた。


「ファル、マーリンちゃんを乗せて。外は私が見る」


「頼むよ、ネッタ」


「頼まれた!」


ファルコン機のコクピットハッチが開く。


球状コクピットの内部が見えた。


帝国機とは少し違う。


リュールより狭い。


表示系も粗い。


洗練されてはいない。


けれど、操縦者の手が届く場所に、必要なものがちゃんとある。


奥に、簡易副座席が折り畳まれていた。


小さな座面。


細い固定帯。


背中を支えるための薄い保護板。


マーリンはそれを見て、息を呑んだ。


回収されるための箱ではない。


操縦者のすぐ後ろに座る席。


声が届く距離。


ファルコンがマーリンを支えながら言う。


「狭いけど、少し我慢してね」


「はい」


「揺れる。気分が悪くなったら言って」


「言って、止まれますか」


ファルコンは少しだけ笑った。


「止まれない時もある。でも、加減はする」


また、嘘ではなかった。


マーリンは頷く。


「分かりました」


ファルコンがマーリンを簡易副座席へ座らせる。


腰の固定帯。


胸元の帯。


肩の支え。


かちり。


かちり。


金具が鳴る。


拘束具の音に似ていた。


マーリンの身体が強張る。


ファルコンがすぐ気づく。


「これは閉じ込めるためじゃない」


声が近い。


「落とさないため」


マーリンは、固定帯を見た。


細い帯。


確かに、似ている。


監獄の制限具に。


けれど、意味が違う。


意味が違うと信じるには、まだ少し怖い。


それでも、ファルコンの声は届いた。


「……はい」


ファルコンは操縦席へ滑り込む。


全周囲モニターが灯る。


『ファルコン機、起動再接続』


《操縦者リンク再確立》


《簡易副座席固定確認》


《同乗者生命反応、低負荷保護設定へ移行》


日本語の表示が流れる。


マーリンはぼんやりとそれを見た。


リュールの表示を思い出す。


警告。


同期率。


魔力消費。


操縦者負荷。


赤い文字。


ここにも表示はある。


けれど、いま見えたのは保護設定という言葉だった。


同乗者。


操縦者ではない。


戦力ではない。


容疑者でもない。


ただ、同乗者。


それだけで、胸の奥が少し痛んだ。


「マーリンさん、聞こえる?」


ファルコンの声がすぐ前からした。


通信ではない。


コクピットの中の声。


「はい」


「よかった。少し揺れるよ」


『少し、で済むといいけどね』


ホーネットの通信が入る。


『敵人形、二機接近。監獄守備隊の旧式だけど、数が増えたら面倒』


イーグルが続く。


『上空にも巡回機。帝国側の反応が遅いのは幸いだけれど、完全に気づかれたわ』


ファルコンの指が、手袋型インターフェースの中で動く。


魔力の糸が機体へ走る。


「二人とも、脱出経路へ」


『了解』


『了解っと』


ホーネット機が前へ出る。


軽く、速い。


イーグル機は後方へ下がりながら、通信妨害を重ねる。


ファルコン機が浮き上がった。


マーリンの身体が座席へ押しつけられる。


胸がむかつく。


視界が揺れる。


けれど、ファルコンは加速を抑えていた。


それでも苦しい。


リュールの高機動に比べれば、ずっと穏やかなはずなのに。


今の身体には、それでも重い。


「息、浅くなってる」


ファルコンが言う。


「吐く方を長く。吸うのは短くていいよ」


命令ではない。


手順だった。


マーリンは言われた通りに息を吐く。


長く。


少しだけ。


胸の奥の波が、ほんのわずかに落ち着いた。


『ファル、右上から一機』


イーグル。


『見えてる』


ファルコンが機体を傾ける。


急ではない。


けれど、避けるには十分。


敵の射線が逸れる。


ホーネット機が横から入り、敵機の腕部を弾いた。


『ごめんね、ちょっと通るよ!』


『謝る相手を選びなさい、ネッタ』


『じゃあ、謝らない!』


ホーネット機がもう一度踏み込み、敵機を監視塔の影へ押し込む。


破壊しない。


動きを止めるだけ。


ファルコン機がその隙に上昇する。


監獄星の灰色の地面が遠ざかる。


鉄の寝台。


看護棟。


軽作業棟。


番号で呼ばれる場所。


それが小さくなっていく。


マーリンはモニターの端を見つめた。


「私、本当に出たのですね」


声がこぼれた。


ファルコンは前を見たまま答える。


「まだ途中だよ」


「途中」


「うん。出るっていうのは、扉を越えたら終わりじゃないから」


マーリンは黙る。


その言葉は重かった。


監獄から出る。


帝国から出る。


ロイス家から出る。


命令から出る。


けれど、その先に何があるかは、まだ何も見えない。


王国は、許していない。


王国は、責任を問う。


王国は、マーリンを英雄として迎えない。


それでも、選ばせた。


出るか、残るか。


その一点だけは、マーリンのものにした。


『敵機、さらに二。進路上』


イーグルの声。


ファルコンは少しだけ息を吸う。


「ネッタ、左を」


『任せて』


「イーグ、退避線の更新」


『もう出してる』


「ありがとう」


三機が編隊を組む。


水色の機体を中心に、ホーネット機が前を切り開き、イーグル機が後方の目になる。


トライアドフォース。


三つの力。


三つの役割。


帝国のNewEraが示す最適解ではない。


AIが弾き出す一本の線でもない。


人間が互いに声を交わし、判断し、間違えればすぐ正す。


その動きだった。


マーリンは目を閉じる。


揺れる。


苦しい。


怖い。


でも、鉄の寝台の冷たさはもうない。


ファルコンの声が届く。


『行くよ!』


ホーネットが笑う。


『今度は派手でもいい?』


イーグルが即答する。


『必要最低限にしなさい』


『じゃあ、最低限派手に!』


ファルコン機が灰色の空へ抜ける。


監獄星の風が、機体の外殻を叩いた。


マーリンは簡易副座席の固定帯を握る。


閉じ込めるためではない。


落とさないため。


その言葉を、胸の中で一度だけ繰り返した。


自己固定のためではなく。


いま届いた声を、失くさないために。


敵国の人形が、監獄星の灰色の空へ戻っていく。


王国はマーリンを許していない。


それでも、王国はマーリンに選ばせた。


帝国は命じた。


王国は手を差し出した。


その手は、まだ温かいとも、優しいとも言い切れない。


けれど、マーリンを鉄の寝台から立ち上がらせた。


それだけは、確かだった。



監獄星の警報が、ようやく鳴り始めた。


遅い。


遅すぎる。


赤い光が地上施設の外壁を走る。


看護棟の扉が開かれる頃には、鉄の寝台は空だった。


毛布の端は乱れている。


水差しは半分残っている。


灰色の布の小さな繊維が、マーリンの指先に残っていたかもしれない。


けれど、もうそこにはいない。


番号で呼ばれていた身体は、敵国の人形の中にある。


簡易副座席に固定され、吐き気をこらえ、声を聞きながら。


まだ救われたわけではない。


まだ許されたわけではない。


まだ、どこへ向かうのかも定まらない。


それでも、鉄の寝台は空になった。


その事実だけが、監獄星の夜のない灯りの下で、静かに残った。



ファルコン機は低軌道へ向かう。


ホーネット機が先行し、イーグル機が後方を守る。


遠くから、帝国の追撃機影が上がる。


イーグルが短く告げた。


『追撃あり。数、増えるわ』


ホーネットが笑う。


『いいねぇ。帰り道が退屈しない』


『退屈でいいのよ』


ファルコンは操縦桿を握り直した。


「マーリンさん」


「はい」


「苦しかったら、言って」


マーリンは少しだけ迷った。


大丈夫です。


そう言いかけて、止める。


ここでその言葉を出せば、また何かが記録になるわけではない。


けれど、もう使いすぎた。


使いすぎて、形が歪んでいる。


「……気持ち悪いです」


小さく言った。


情けない。


けれど本当だった。


ファルコンは頷く。


「了解。加速を少し落とす」


『ファル、追撃が来るわ』


イーグルが言う。


「分かってる。でも、落ちたら意味がない」


落ちたら。


誰が。


マーリンが。


その一言を、ファルコンはわざわざ口にしなかった。


マーリンは固定帯を握る指に力を込めた。


王国は甘くない。


けれど、今この瞬間、マーリンを落とさないために速度を削った。


その判断が正しいかは分からない。


効率的かも分からない。


でも、それは人間の判断だった。


間違えるかもしれない。


それでも、そこにはマーリンがいた。


番号でもなく。


責任者でもなく。


撃墜女王でもなく。


ただ、気持ち悪いと言った同乗者として。


ファルコン機が進路を変える。


灰色の星が、少しずつ遠ざかる。


マーリンは目を閉じた。


鉄の寝台の冷たさは、まだ背中に残っている。


けれど、その上に別の感覚が重なっていた。


簡易副座席の硬さ。


固定帯の圧。


コクピットの揺れ。


前にいるファルコンの声。


後ろを守るイーグルの声。


軽く前へ出るホーネットの声。


敵国の声。


それでも、届く声。


マーリンはその中で、浅く息をした。


一つ。


また一つ。


出ます。


自分で言った言葉が、遅れて胸の奥へ落ちてくる。


帝国の命令ではない。


父の命令でもない。


ブライアンの正しさでもない。


NewEraの最適化でもない。


小さく、かすれた、自分の声。


その声だけを持って、マーリンは監獄星の空を離れていった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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