身体がついてこない
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午後の実技授業は、訓練場で行われた。
王立宇宙軍士官学校の訓練場は、広かった。
広い、というより、広すぎた。
プラットの屋敷も広かったけれど、あれは半分壊れている広さだった。こちらは違う。端まできちんと整備されている。床は平らで、壁は高く、天井も遠い。走路には柔らかい素材が敷かれていて、転んでもすぐには死ななそうだった。
すぐには。
たぶん。
私は訓練服の袖を引っ張りながら、周りを見た。
制服とは違って、訓練服は動きやすい。
濃紺を基調にした簡素な服で、膝や肘に保護用の素材が入っている。靴も軽い。王都の靴は、どうしてこんなに足を裏切らないのだろう。プラットの古い靴にも見習ってほしい。
ただ、服が動きやすいからといって、身体が動くとは限らない。
私はまだ、そのことをよくわかっていなかった。
怪我の後から、少し体力が落ちている。
それはわかっていた。
階段から落ちて、肋骨を折って、右腕と左足も折って、しばらく寝たきりだったのだ。全然平気、とはいかない。
でも、日常生活はできるようになった。
寮の階段も上れる。
食堂にも行ける。
王都の広い廊下を歩いても、少し疲れるくらいで済む。
だから、まあ、なんとかなると思っていた。
正直に言うと、少しなめていた。
軍学校の基準を。
そして、自分の体力のなさを。
セスナ教官は訓練場の中央に立ち、端末を片手に私たちを見渡した。
「午後は基礎体力測定を行う。項目は持久走、短距離走、反復移動、上体保持、握力、柔軟性、基礎負荷反応。記録はすべて端末に送られる」
多い。
思っていたより多い。
体力測定という言葉から、私は少し走って終わるものを想像していた。
違った。
いっぱい走るし、いっぱい動くらしい。
「人形使いは魔力だけで動くわけではない。急加速、急停止、姿勢制御、重力下機動。身体が保たなければ、どれだけ魔力があっても意味がない」
魔力。
身体。
その言葉が胸の奥に引っかかった。
私は昨日の検査を思い出す。
測定板の白い光。
簡易インタフェースに勝手に伸びた糸。
あれは、まだ指先に残っている。
でも、今ここにあるのは私の身体だ。
細くて、小さくて、怪我の後に弱った身体。
マーリンの記憶ではない。
私の身体。
「無理をするな。ただし、手を抜くな。記録は現在地を知るためのものだ。低いからといって即座に責めることはない。だが、低いのに誤魔化す者は信用しない」
セスナ教官の目が、全員を順番に見た。
私のところにも来た気がして、背筋が伸びた。
手を抜くな。
でも、目立つな。
低すぎると目立つ。
高すぎても目立つ。
普通。
また普通。
普通は、いつも私の前に立ちはだかる高い壁だった。
最初は持久走だった。
訓練場の外周を、決められた時間内で走る。
速さだけではなく、一定のペースで走れるか、心拍や呼吸の変化も記録されるらしい。
端末が腕に装着され、身体の状態を測る。
逃げ場がない。
体力まで数字にされる。
数字は正直だ。
正直すぎる。
少しくらい気を遣ってくれてもいいのに。
「始め」
セスナ教官の声と同時に、みんなが走り出した。
最初は大丈夫だった。
本当に。
足の運び方はわかる。
腕の振り方もわかる。
呼吸の仕方も、重心の置き方も、疲れにくい走り方も、頭の中にはある。
マーリンの記憶には、もっと過酷な訓練がある。
重力下での機動。
耐G負荷。
生身での基礎訓練。
身体をどう使えばいいか、知識としては知っている。
だから、最初の数周は思った。
あれ、いけるかも。
たぶん、いけない時に人はそう思うのだ。
少し先で、トムが軽い足取りで走っていた。
「お、ミリア、今日ちょっと調子いいんじゃないか?」
「喋る余裕があるなら、ペース上げたら?」
ミリアは横を走りながら、息を乱さずに言った。
「いや、俺はクラスの空気を明るくする役目があるから」
「持久走中に必要ない」
「必要だろ。黙って走るとつらいじゃん」
「喋って走る方がつらい」
「それはある」
トムは笑っていた。
ミリアも注意しながら、ちゃんと走っている。
二人とも軽い。
選抜生は、勉強だけではなく身体もできるのだろうか。
ずるい。
いや、努力しているのだと思う。
ずるいと言ったら失礼だ。
少し離れたところに、セシリア様がいた。
速いわけではない。
息も切れている。
でも足取りはしっかりしていた。
乱れない。
無理に前へ出ようとせず、自分のペースで走っている。
セシリア様らしい走り方だと思った。
丁寧で、落ち着いていて、崩れない。
そして、さらに前方。
シュヴァルベ様が走っていた。
黙って。
姿勢よく。
まっすぐに。
走っているのに、まるで歩いている時と同じくらい整っている。
息が切れているようには見えない。
髪も乱れない。
どういうことだろう。
同じ人間なのだろうか。
いや、同じ人間だ。
たぶん。
ルイーゼ様も同じように、優雅に走っていた。
額に汗はある。
けれど、苦しそうには見えない。
高位貴族は走っても高位貴族なのだと思った。
私はどうかというと。
三周目までは、大丈夫だった。
四周目で、少しおかしいと思った。
五周目で、呼吸が変になった。
六周目で、足が誰かのものになった。
七周目で、肺が燃え始めた。
八周目で、私は自分の人生について考え始めた。
どうして人は走るのだろう。
宇宙軍士官学校なのだから、宇宙で戦うのではないのだろうか。
宇宙に道はない。
道がないなら走らなくてもいいのでは。
いや、セスナ教官が身体が大事だと言っていた。
正しい。
正しいけれど、今だけ少し間違っていてほしい。
私の身体は、もう抗議していた。
足が重い。
胸が痛い。
喉が乾く。
息を吸っても足りない。
マーリンの記憶は、こういう時の身体の使い方を知っている。
呼吸を整えろ。
肩の力を抜け。
視線を落とすな。
重心を前へ。
腕は振りすぎない。
全部わかる。
わかるのに。
身体がついてこない。
頭の中では、きれいに走れる。
イメージでは、まだいける。
イメージでは、シュヴァルベ様の後ろくらいを走っている。
でも現実の私は、走路の端で死にかけている小動物だった。
たぶん、毛並みも悪い。
息も荒い。
かわいくもない。
「プラット様、大丈夫?」
横を通りかかったミリアが声をかけてくれた。
「だ、大丈夫、です」
私は答えた。
答えた声が、もう大丈夫ではなかった。
ミリアの眉が少し寄る。
「無理しないでくださいね」
「は、い……」
無理。
これは無理なのだろうか。
でも、まだ走っている人がいる。
というより、ほとんどの人が普通に走っている。
私だけが、世界の終わりみたいな顔をしている。
目立つ。
これは目立つ。
非常によくない。
私はなんとか足を前に出した。
一歩。
もう一歩。
呼吸。
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
あれ、どっちだっけ。
吸うのと吐くのが、順番待ちで喧嘩している。
落ち着いてほしい。
肺の中で揉めないでほしい。
「プラット様、ペース落として!」
セシリア様の声が聞こえた。
セシリア様も苦しそうなのに、私を見てくれている。
申し訳ない。
私はうなずこうとして、うまくできなかった。
視界が少し揺れる。
足元の線が遠くなったり近くなったりする。
まずい。
これは、まずい。
そう思った時には、もう足が止まっていた。
止まったというより、身体が勝手に拒否した。
もう走りません。
足がそう宣言した。
私はそのまま、走路の端に倒れこんだ。
ぺたん、ではない。
どさっ、だった。
貴族令嬢が訓練場の走路に倒れこむなんて、ありえない。
そう思った。
思ったけれど、そんなことを言っていられなかった。
地面がありがたい。
冷たい。
動かなくていい。
このまま走路の一部になりたい。
誰か、私を線として登録してくれないだろうか。
「プラット!」
セスナ教官の声が飛ぶ。
怒鳴られている。
でも、遠い。
「意識はあるか」
「……あります」
ある。
かろうじて。
ない方が楽かもしれないけれど、ある。
足音が近づいてきた。
「プラット様!」
セシリア様の声。
「おい、大丈夫か、プラット様!」
トム。
「だから顔色悪いって言ったのに!」
ミリア。
みんなが近くに来てくれた。
申し訳ない。
非常に申し訳ない。
私は顔を上げようとして、やめた。
地面と仲良くしていたい。
「大丈夫、です」
息も絶え絶えに言った。
「いや、大丈夫じゃないだろ」
トムが即座に言った。
正しい。
とても正しい。
大丈夫ではない。
死ぬ。
これは死ぬ。
持久走で人は死ぬ。
少なくとも私は死ぬ。
でも口から出るのは、いつもの言葉だった。
「大丈夫、です……」
「二回言っても強くならないって、さっきわかったでしょ」
ミリアが呆れたように言った。
その声が少し震えている気がした。
心配してくれているのだと思う。
ありがたい。
ありがたいけれど、笑う力がない。
セシリア様が膝をついた。
「プラット様、起き上がれますか?」
「たぶん……いえ、少しだけ、待ってください」
正直に言えた。
少し成長した気がする。
いや、倒れている時点で成長ではない。
退化かもしれない。
セスナ教官が端末を確認した。
「心拍上昇。酸素不足気味だな。魔力反応は異常なし。プラット、無理に立つな。呼吸を整えろ」
「はい……」
呼吸。
吸う。
吐く。
今度こそ順番を守る。
私は地面に手をつき、ゆっくり息をした。
少し離れたところから、視線を感じた。
顔を少しだけ上げると、シュヴァルベ様がこちらを見ていた。
心配そうだった。
本当に、心配そうに。
その目を見た瞬間、胸がきゅっとなった。
恥ずかしい。
よりによって、シュヴァルベ様に見られた。
声をかけてくれた人。
まっすぐ私を見た人。
そんな人の前で、私は走路に倒れている。
とても格好悪い。
いや、格好良かったことは一度もないけれど。
さらにその少し後ろで、ルイーゼ様と取り巻きらしい令嬢たちがこちらを見ていた。
くすくすと笑っている。
声は小さい。
でも聞こえた。
「まあ……」
「体力測定で倒れるなんて」
「無理をなさらなければいいのに」
ルイーゼ様は直接笑ってはいなかった。
少なくとも、口元は上品に隠されている。
でも、目は笑っていた。
そしてやっぱり、言っている。
身の程を弁えなさい。
私は地面に視線を落とした。
弁えています。
たぶん。
でも、身体がついてきませんでした。
すみません。
心の中で謝る。
誰に対してなのか、もうよくわからない。
セスナ教官の判断で、私は走路の端で少し休むことになった。
他の生徒は測定を続ける。
私は邪魔にならない場所へ移動した。
移動と言っても、セシリア様とミリアに支えられて、よろよろ歩いただけだった。
トムは少し前を歩いて、場所を空けてくれた。
「ここ座れるぞ」
「ありがとうございます、グラマンさん」
「いや、いいって。プラット様、顔真っ白だし」
白。
また白。
髪は茶色なのに。
私は小さく笑おうとして、息が足りずに失敗した。
セシリア様が自分のタオルと水筒を差し出してくれた。
「プラット様、これを」
「い、いえ、大丈夫です。ヒースロー様のものですし」
反射的に断った。
他人のものを使うのは申し訳ない。
まして、セシリア様のものだ。
伯爵令嬢のタオルと水筒。
プラット男爵家の私が、倒れた勢いで使っていいものではない気がする。
でもセシリア様は、ほんの少しだけ声を強くした。
「受け取ってください」
私は驚いて、顔を上げた。
セシリア様は怒ってはいなかった。
でも、いつもの柔らかさの奥に、静かな強さがあった。
「気にする必要はありません。今は休む方が大切です」
「でも」
「プラット様」
名前を呼ばれた。
丁寧なのに、逃げ道がなかった。
私は少し迷ってから、両手でタオルと水筒を受け取った。
「……ありがとうございます、ヒースロー様」
「はい」
タオルは柔らかかった。
顔を拭くと、汗と一緒に少し情けなさも拭えた気がした。
気がしただけで、たぶん残っている。
水筒の水を少し飲む。
冷たい。
喉を通る。
生き返る。
「……うまうま」
小さく漏れた。
言ってから、しまったと思った。
ミリアが目を瞬いた。
トムが笑った。
「うまうま出た」
「トム」
ミリアがすぐ注意する。
「いや、かわいいなと思って」
「そういうことをすぐ言う」
「だって本当に」
「黙る」
「はい」
トムは黙った。
でも口元は笑っている。
私は顔が熱くなった。
走って熱いのか、恥ずかしくて熱いのか、わからない。
たぶん両方。
「すみません……」
「謝るところではありません」
セシリア様が言った。
ミリアもうなずく。
「倒れた時はちゃんと休む。これ大事です」
「はい」
ちゃんと休む。
それも訓練のうちなのだろうか。
だとしたら、私は今かなり訓練している。
休む訓練なら得意になりたい。
でも、たぶんそういう意味ではない。
走路では、他の生徒たちが次の測定に移っていた。
短距離走。
反復移動。
次々に記録が取られていく。
トムは戻っていく前に、こちらを振り返った。
「プラット様、無理すんなよ。俺らも測定終わったら戻ってくるから」
「ありがとうございます、グラマンさん」
「トム、行くよ」
「わかってるって、ミリア」
二人は走路へ戻っていった。
ミリアは最後に私を見て、しっかり休んでくださいね、と口の形だけで言った。
私は小さくうなずいた。
セシリア様は少しだけ私のそばに残ってくれた。
「ヒースロー様も、測定があるのでは」
「少し休憩時間があります。それに、私も息を整えたいので」
そう言って、セシリア様は隣に座った。
優しい嘘かもしれない。
本当かもしれない。
私はどちらでも嬉しかった。
「……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではありません」
セシリア様はすぐに言った。
シュヴァルベ様と同じ言い方だった。
迷惑ではない。
その言葉は、私には少し不思議だ。
私は迷惑をかけるものだと思ってきた。
階段を壊して。
身体を壊して。
家の手間を増やして。
今日も、体力測定で倒れて、みんなに心配をかけた。
それでも、迷惑ではないと言われる。
どう受け取ればいいのか、まだよくわからない。
「プラット様は、昨日も検査が大変そうでしたし、今日は無理をしすぎたのかもしれません」
「無理をしたつもりは、あまりなかったのですが」
「それが一番危ないのでは?」
セシリア様の言葉は静かだった。
でも、少し刺さった。
無理をしたつもりがない。
つまり、自分の限界がわかっていない。
それは確かに危ない。
私は自分の手を見た。
細い指。
白い肌。
この手は、人形を動かす感覚を知っている。
マーリンの記憶があるから。
でも、この身体は違う。
マーリンの身体ではない。
あの記憶の中にある、鍛えられた身体。
戦場で何度も耐えた身体。
急加速に潰されそうになりながら、それでも剣を振った身体。
それは私のものではない。
私の身体は、プラットの寒い部屋で育った。
食事も十分ではなくて、怪我で長く寝込み、やっと歩けるようになったばかり。
魔力が多いのかもしれない。
動かし方を知っているのかもしれない。
でも、身体がついてこない。
頭の中の私は走れる。
記憶の中の誰かは戦える。
でも現実の私は、持久走で倒れる。
それが、ひどく恥ずかしかった。
そして、少し怖かった。
もし人形に乗ったら。
もし身体が追いつかないまま、記憶だけで動いてしまったら。
その時、私はどうなるのだろう。
誰かを巻き込むのだろうか。
自分だけでは済まないのだろうか。
胸の奥が冷える。
「プラット様?」
セシリア様の声で、私は顔を上げた。
「はい」
「顔が怖くなっていました」
「えっ」
私は慌てて頬に手を当てた。
怖い顔。
今度は白いだけではなく怖い。
忙しい顔だ。
「すみません。少し、考え事を」
「休んでいる時くらい、休んでください」
「はい」
セシリア様に言われると、なぜか素直にうなずいてしまう。
私は水をもう少し飲んだ。
冷たくて、おいしい。
身体の中に少しずつ戻ってくる感じがした。
しばらくして、セスナ教官がこちらへ来た。
「プラット」
「はい」
私は慌てて立とうとした。
「座っていろ」
「はい」
座った。
命令が短いと、助かる。
「体調は」
「少し落ち着きました」
「医務室へ行くか」
「いえ、大丈夫です」
言ってから、セシリア様とミリアの顔が頭に浮かんだ。
大丈夫の使いすぎ。
でも、今回は本当に少し大丈夫だった。
たぶん。
セスナ教官は端末を確認した。
「持久力が低い。怪我の影響もあるだろうが、それ以前に基礎体力が足りていない」
「はい」
事実だった。
何も言い返せない。
「反応や姿勢の取り方は悪くない。身体の使い方を知識としては理解しているようだ」
私はどきりとした。
見られている。
ちゃんと。
「だが、筋力と持久力が追いついていない。無理に知識や感覚だけで動けば、身体を壊す。わかったか」
記憶。
そう言われたわけではない。
セスナ教官は、記憶とは言っていない。
でも私にはそう聞こえた。
記憶や感覚だけで動けば、身体を壊す。
その通りだった。
私は小さくうなずいた。
「はい」
「今日は持久走の再測定はしない。他の項目は様子を見て行う。異常があればすぐ申告しろ」
「はい。ありがとうございます」
セスナ教官はセシリア様にも視線を向けた。
「ヒースロー、休憩時間が終わる。戻れ」
「はい」
セシリア様は立ち上がり、私にタオルをもう一度渡した。
「もう少し使っていてください」
「でも」
「返すのは後で構いません」
また、少しだけ強い口調。
私は負けた。
「ありがとうございます、ヒースロー様」
セシリア様は小さくうなずいて、走路へ戻っていった。
私は一人、端のベンチに座った。
訓練場の音が遠く聞こえる。
走る足音。
教官の声。
端末の測定音。
生徒たちの息遣い。
その中に、自分の呼吸も混ざっている。
さっきよりは落ち着いている。
けれど、胸の奥にはまだ重さが残っていた。
マーリンの記憶はある。
力の使い方も、戦い方も、動き方も、知っている。
でも私は、マーリンではない。
当たり前のことを、今日、身体で思い知らされた。
私はローレッタ=プラット。
持久走で倒れる。
水をもらって、うまうまと言ってしまう。
普通にもなりきれない。
強くもない。
でも、弱いだけでもないのかもしれない。
それが一番困る。
弱いなら、諦められる。
強いなら、覚悟しなければならない。
私はそのどちらでもなく、変なところに立っている。
頭の中だけが先に行って、身体が後ろで転んでいる。
まるで、自分の中に二人いるみたいだった。
一人は、黒い宇宙を知っている。
もう一人は、走路で息を切らして倒れている。
私はタオルを握った。
セシリア様のタオルは、まだ少し冷たかった。
ありがたい。
申し訳ない。
温かい。
苦しい。
いろいろな気持ちが混ざって、胸の中が忙しい。
私は小さく息を吐いた。
今日わかったことがある。
私は、思っていたよりずっと体力がない。
そして、思っていたよりずっと、私の身体は私のものだった。
マーリンの記憶では動かせない。
動かせると思ったら、壊れる。
そのことが、怖くて、少しだけ安心だった。
私はまだ、私の身体で生きている。
弱くても。
情けなくても。
走れなくても。
この身体は、ローレッタのものだった。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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