偲ぶ
「・・・篝」
篝は、離れの縁側に座り、ぼんやりとした顔で、屋敷の庭を眺めていた。声をかけると、ゆっくりと首をめぐらせて、八雲を見上げる。八雲は何も言わずに、隣に腰を下ろした。
その横顔を見て、篝はぱちぱちと瞬いた。家の中であるからか、袴は着けておらず、着流しに羽織を引っ掛けている。普段、つむじの辺りで高く結っている髪は、村で養生していた時のように、下ろして無造作に括られていた。
篝は再び、庭に視線を戻す。広い庭は、宵の薄闇に沈んで、隅まで見えない。植え込みの黒い影が、静かに息をひそめている。あるかなきかの風が、時折頬を撫でた。
しばらくして、彼女は不意に、口を開いた。
「篝という名前はね、村の皆が考えて、付けてくれたの。・・・私が捨てられていたのは、暗い、新月の夜だったから」
朔の闇夜に訪れし人の子に、光あれ、と。
「捨てられたんじゃない」
思わず強い口調で言った八雲を、篝は驚いた顔で見つめた。
「何か、神社に置いておけない理由があったんだ。国の中に居てはいけない理由が」
「・・・ありがとう。そうなのかな」
篝は目を細めた。
「ねえ八雲、私に、外に出てみたくないかって、訊いてくれたでしょう」
「・・・ああ」
そういえば、村から帰る前、そんなことを訊いたと思い出す。あの時、篝は、ただただ驚いて、何も答えなかった。
「私、村の外に出て、いろんな人に会ったわ。お屋敷の人はもちろんだけど、結ねえさんや、おじさんやおばさんや・・・」
庭を眺める篝の瞳が、静かに輝く。
「伊折さんも、長屋の人たちも、皆、優しかった。結ねえさんに連れられて、市にも行ったの。人がたくさんいて、びっくりした。初めて見る物がいっぱい・・・きれいな物も、おいしそうな物も、いっぱいあって、時間を忘れるの」
篝の嬉しげな声に、八雲は黙って耳を傾けた。
「八雲、私は・・・私は、苑枝の国を、ずっと知らないままで、生きてきたのね」
横顔を眩しげに見守っていた八雲を、篝が振り向く。そして、瞳を潤ませ、微笑んだ。
「私は、母さまが守ろうとしたこの国を、ずっと知らないままで、生きてきたのね」
*****
「八雲、どうかしましたか?」
「え?」
「浮かない顔をしているので」
そう言って首を傾げたのは、瞼を閉じた少女である。八雲は瞬いた。
「・・・鈴は、目が見えているのか?」
「いいえ。そういう気配でしたから」
鈴が、愛らしい顔を綻ばせた。八雲は、ふと気になって、尋ねてみる。
「どうして、わざわざ盲目に変化しているんだ」
好きなように変化出来るのなら、視えない姿になる必要は、ないのではないかと思う。鈴は、笑みを深くした。
「付喪神を生みだすのは、長い時と、人の想いなのです。ですから、思い入れの深かった持ち主の姿が、変化に影響することがあります」
少しうつむいて、蘇芳の髪に結ばれた小さな鈴を、愛おしげに撫でる。
「私は、簪なのです。盲目の姫のために贈られた、鈴の付いた簪です」
彼女の手付きをじっと見ている八雲に、鈴は再び顔を向けた。
「それで、浮かない顔をしている気配がしますが、どうされました?」
八雲は苦笑した。
「いや・・・どさくさで、返事を先延ばしにしていることがあってな。どうしようかと考えていた」
昨日は、北斗の命日だった。・・・二年が経ってしまったのだ。
そろそろ、父と、きちんと話をせねばなるまい。そう思うと、知らないうちに溜め息が漏れた。
「浮かぬ顔をしているな」
景雪にもそう言われ、八雲は自分の未熟さに恥じ入った。主に気を使わせてどうする。
「申し訳ございませぬ」
「別に、責めているのではない」
景雪は、目を細めた。
「・・・昨日は、北斗の命日だったな」
「・・・はい」
しばし、沈黙が流れた。
遠くを見るような表情の景雪を見ながら、八雲はつい、ぽろりと言ってしまった。
「景雪様。・・・私に、兄の代わりが務まりましょうか」
景雪は、少し驚いた顔で、八雲を見返した。ひたと見つめてから、静かに口を開く。
「八雲。お前が兄を思う心は、立派だと、私は思っている。―――だが、死者にばかり捉われるな」
景雪の声が、頭に染み込んでくる。
「私は、北斗の弟だからというだけの理由で、お前を近侍にしているのではない」
八雲は息を詰めて、主の顔を仰いだ。
(兄上の代わりに、慧四郎の主となり、兄上の代わりに、景雪様に仕え―――兄上の代わりに、朝桐を継ぐのか?)
兄のようになりたかった。
しかし、兄に―――北斗に、なりたかったのではない。
答えなら、始めから出ていた。
「・・・もったいないお言葉です」
頭を下げた八雲に、景雪はふわりと微笑んだ。




