第5話 小さな鉛筆 信じた土地
春に入る少し前のことだった。
その日、師匠は朝から山の方へ出かけ、オフィスに戻るころには空が茜色に染まっていた。
玄関の前で靴を脱ぎながら、ふと裏手を見る。
原っぱが――騒がしい。
スケールが引きずられ、メジャーが伸び、地面には細い線が何本も引かれている。
小さな旗があちこちに立ち、猫がその間を測量助手の顔で歩いていた。
「そこからここまでが一区画です!」
「ネコ、そこ踏まないで!基準線!」
「……あ、今踏んだ」
代表のリトルさくやが、師匠に気づいて小走りに近づき、ぺこりと頭を下げた。
「……あのね、師匠。この裏の土地……畑にしてもいいですか?」
師匠は一瞬だけ原っぱを見て、それからいつもの調子で答えた。
「ん……自由にしていいよ」
それだけだった。
その言葉を聞いた瞬間、リトルさくやたちは何も言わず、しかし一斉に動き出した。
その日が、農園開拓班の結成日になった。
正式に担当に選ばれたのは五十人ほど。
ネコ台車にはスコップ、バケツ、杭、自作の鍬。
出発、耕す、掘る、測る、運ぶ、休む――すべてが同時に始まった。
見た目は完全に混沌だった。
だが、夕方になるころには不思議と道具は片づき、地面にはまっすぐな畝が残っていた。
翌朝、師匠が出勤すると、昨日まで雑草だらけだった原っぱが、静かに整っていた。
畝の端には、ちいさな看板が立っている。
「いちご」
「にんじん」
「だいこん」
「いも」
どれも、少し曲がった文字だった。
「師匠〜、ビニールハウスの設計もお願いしま〜す!」
差し出された図面には、手描きの線と書き込み、そしていくつかの猫の足あと。
師匠はそれを受け取り、しばらく黙って眺めた。
「……うん。よくできてるよ。ここを少し補強しよう」
「はいっ!」
その返事は、以前より少し力強かった。
翌週、畑の端に三つの小さなビニールハウスが並んだ。
中にはイチゴの苗。猫はその足元で日向ぼっこをしている。
作業がひと段落したころ、誰かが丘を見上げて言った。
「……あの丘、お花畑にしたら、きれいだよね」
一拍おいて、声が重なる。
「じゃあ、花畑開拓班!」
丘は畑よりも急だった。
石が多く、根も深い。
それでも誰も止まらなかった。
師匠に聞くと、少し考えてからこう言った。
「丘のてっぺんまでは……たぶん、うちの土地だと思うけど」
その曖昧さで、十分だった。
リトルさくやたちは、そのまま丘を「師匠の土地」だと信じて作業を進めた。
「ヒマワリは上!」
「ラベンダーは斜面から見える位置に!」
「ここは……猫がよく転がるから、ねこ転がしの丘!」
種は、師匠が街で買ってきてくれたり、近所の人が分けてくれたりした。
師匠は袋を渡しながら、少しだけ目を伏せた。
「……珍しい花らしいよ。咲いたら、きれいだと思う」
春が来た。
畑には芽が出て、丘には色が宿った。
黄色、白、紫、オレンジ。
風が吹くたび、花が揺れ、猫が転がった。
ある晴れた日。
リトルさくやたちは、師匠の家の屋根に並んで座っていた。
専用マット、ヘルメット、猫。
丘を見下ろしながら、おにぎりをもしゃもしゃ食べる。
「……全部、育ったね」
「うん」
「なんか……静かだね」
師匠は下から、その様子を見上げていた。
風が吹き、花畑が波打つ。
「……よかったな」
それは、誰に向けたとも分からない、短い言葉だった。
でも、その言葉は、確かに土地に根を張った。




