■第33話 霧の谷編 嵐の夜と襲撃
嵐が来る。
黒い狼たちが、嵐に紛れて襲ってくる。
そして――白い巨獣が、現れる。
■ そわそわする風
朝から風がそわそわしていた。石畳の道に風が吹き抜け、窓辺の花がかすかに揺れている。空気が冷たい。いつもより冷たい。
さくやが洗濯物を干していると、風が強くなった。洗濯物が舞い上がる。
「あっ、ちょっと待てや!」
慌てて追いかけたが、間に合わなかった。洗濯物は空高く舞い上がり、吊り橋の主塔のてっぺんに引っかかっていた。
「何やってるの」
「うわー、めっちゃ高いとこにいっちゃった」
「取れんのこれ?」
誰かが笑った。さくやも苦笑いした。しかし笑いはすぐ、空の唸り声にかき消された。
冷たい風が音を立て、村の空を裂くように吹き荒れた。ひょう混じりの雨が石畳を打ち、木々は呻くようにしなっている。吊り橋が風に煽られ、悲鳴のような音を上げる。
「うわ、やばない?」
「嵐や嵐」
「嵐が来る」
レイナが神殿の方から駆けてきて、必死の形相で避難所を指さした。避難だ。二百人のさくやたちは無言で頷き、互いの手を繋いでかたまり、風に飛ばされぬよう体を低くして進んだ。
「風強すぎ!」
「飛んでいきそう」
「手離したらあかん」
「絶対離すなよ」
神殿に到着したときには、すでに村のあちこちで屋根が飛ばされ、畑は水浸しになっていた。
神殿の扉を閉めると、外の轟音はまるで遠い海鳴りのように響いた。レイナは嵐の中でも変わらず静かに祈りを捧げ始めた。その姿を見ながら、さくやはおにぎりを取り出し、小さく割って皆に配った。
「食べとこ。お腹すいてたら逃げられんからな」
「そうやね」
「ありがたい」
皆が輪になっておにぎりを食べた。不安の中にも、ほのかな温かさが灯った。レイナも祈りを中断して、おにぎりを食べた。もしゃもしゃと、美味しそうに。
■ 嵐に紛れて
夜半、神殿の外で唸り声が響いた。
「がるるる……」
「え、何の音?」
「まさか」
さくやの背筋が凍る。嵐に乗じて――扉がゆっくりと開いた。
暗がりの中、黒い影がぬるりと神殿に入ってきた。狼だった。濡れた毛並みは真っ黒に光り、目は爛々と輝いている。神殿に集う小さきものたちを、品定めするように見回している。
「うわあああ」
「狼や」
「やばい、やばいやばい」
さくやは息を呑んだ。そんな中でも、レイナは目を閉じ、静かに祈り続けている。この状況でも祈るのかと思いつつ、そのとき――しゅっと音がして、白い影が狼を飛び越えた。
白いユキヒョウだ。三匹のうちの一頭が、小さきものたちの前に立ちはだかった。ほかの二匹も続くように現れ、低く唸りながら前脚を踏みしめた。
「ユキヒョウや」
「助けにきてくれた」
「でも傷だらけやん」
盾だ。ユキヒョウたちが、盾になってくれている。でも、傷だらけだった。昨夜の戦いの傷が、まだ癒えていない。しかし、狼の数はあまりに多い。
レイナは危険が迫っても祈りをやめない。その瞳に涙が浮かんでいる。それでも祈り続ける。
さくやは、レイナの手を握った。
「大丈夫やから」
そう言いたかった。でも、言葉が出なかった。
■ 白い巨獣の登場
そのとき――地の底から突き上げるような、轟音が響いた。
「どおぉぉぉん……」
「何や今度は」
「地震?」
神殿の扉が風で跳ね上がり、闇の中から白い巨影がゆっくりと現れた。それは――白いライオンだった。神殿の像と同じ。でも、本物だ。生きている。
「うわああああ」
「でかっ」
「本物のライオンや」
「神さまや」
白銀のたてがみが風に舞い、目は燃えるような黄金色だった。その姿は、神々しく、圧倒的だった。レイナは祈りの手を止めることなく、そのままひざまずいた。二百人のさくやたちも、息をのんでその姿を見つめた。
白いライオンは一声、地を割るような吠え声を上げた。
「うおおおお」
「声だけですごい」
その瞬間、狼たちが一斉にたじろいだ。声だけで、威圧している。格が違う。白いユキヒョウも同時に飛びかかり、混戦が始まった。
■ 谷での決戦
村を飛び出し、谷の方へと雪混じりの風を切って駆ける白い獣たち。後を追うように、黒い狼たちが怒涛のように走った。二百人のさくやたちは小高い丘の上に移動し、ただその背を見守った。
「怖いなあ」
「でも見てなあかん」
「ユキヒョウたち頑張れ」
谷に着くと、白いライオンは道を塞ぐように立ちはだかった。白銀のたてがみが風に舞い、目は燃えるような黄金色だった。狼が一頭、牙を剥いて飛びかかる。
次の瞬間、ライオンの前脚が唸りを上げ、狼を谷へと蹴り飛ばした。
「一撃や」
「つよっ」
「圧倒的やん」
続く一頭、また一頭――白いユキヒョウも加勢し、追い詰められた狼たちは次々と谷へ落ちていく。
雪煙が舞い、風が唸り、空が引き裂かれるような轟音の中で、さくやはただ、言葉もなくその光景を見つめていた。
「これが――守るってことなんやな」
レイナが隣に立っていた。涙を流しながらも、この状況でまだ祈っている。さくやも、祈った。
「無事でいて」
「お願い」
やがて、谷のうねりが収まり、すべてが静まりかえった。
■ 嵐の後の静けさ
白いライオンと白いユキヒョウたちは、吊り橋の主塔のそばに戻ってきた。ライオンは傷ひとつなく、ユキヒョウたちは血に染まっていた。でも、生きている。
「よかった」
「生きてる」
「傷だらけやけど」
レイナはユキヒョウに駆け寄り、何度も頬をこすりつけて涙を流した。そして、白いライオンの前で静かにひざまずき、深い感謝の祈りを捧げた。
ライオンは彼女を見つめ、一声だけ吠えると、雪の降りしきる山へとゆっくりと姿を消していった。まるで、「いつも見ている」と伝えるかのように。
さくやは、その背中を見送った。
「ありがとう」
嵐は去り、村に静けさが戻った。空には星が輝き始めていた。白いユキヒョウたちは、いつものようにチュールをねだって、満足そうに舐めていた。まるで何事もなかったかのように。でも、その目には新たな誇りが宿っていた。
さくやは、ユキヒョウの頭を撫でた。
「よう頑張ったなあ」
「えらいえらい」
「チュールいっぱいあげるからな」
レイナも祈りを終えて、一緒に撫でた。言葉は通じない。でも、心は通じる。ありがとう。その気持ちが、確かに通じた。
二百人の小さきものたちの手の中で、新たな絆が、静かに、大きく、深まっていった。
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