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■第32話 霧の谷編 白い影、谷の唸り

夜の予兆が訪れる。

黒い狼の群れが、村を狙っている。

白いユキヒョウたちが、立ち上がる。


■ 夜の予兆

その夜、動物の鳴き声が遠くの山から響いてきた。低く長く、どこか獰猛な気配をはらんでいて、狼のような声だった。村には何も起きなかったが、二百人のさくやたちは気付いていた。霧の中にあった足跡、家の扉に刻まれた深い爪跡――それが何を意味するかを。

翌日から、白いユキヒョウの姿は昼間見られなくなった。夕暮れになると村をそっと巡回するように歩き回り、空気に鼻をひくつかせ、耳をすませていた。夜が近づくにつれ、白い毛並みが闇に溶けていく。パトロールだ。ユキヒョウたちは、村を守っている。

さくやは一枚の絵を描いた。白いユキヒョウと狼が向き合い、互いに唸っている絵だった。どちらも似たような姿に見えるのに、どこか決定的に違っていた。それを見たレイナは、別の絵を描いてくれた。白いユキヒョウ三頭。そして、その何倍もの数の黒い狼たち。

レイナは祈るように胸に手を当て、目を閉じた。さくやは、その絵を見つめながら理解した。数で負けている。圧倒的に。


■ 防御線と避難所

しばらくして、さくやは提案してみることにした。レイナが描く村の地図に、柵や落とし穴を五箇所描き込んでいく。防御線の提案だったが、レイナは静かに首を振った。すでに試したような表情で。さくやは理解した。もう、やっているのだ。でも、効果がなかった。

夜の神殿には明かりが灯され、眠らずに祈りを続ける姿があった。レイナは一人で祈り続けている。その姿は美しく、でも痛々しかった。重く冷たい空気が村を覆いはじめていた。

ある朝、祈りを終えて神殿の外に出たとき、さくやは奥の山に巨大な影を見た。一頭の、大きな獣。その体は風になびき、山の稜線に溶け込んでいった。ボスだ。あれが、ボスなのだ。

さくやは広場に足を運び、中央に避難所の建設を提案した。広場の地下に隠れるように建つ堅牢な建物。その入口に繋がる迷路のような廊下は、外敵の侵入を防ぎつつ、小さきものだけが使える直通の通路も三本備えていた。

レイナは頷いた。そして、すぐに動き始めた。レイナの行動力は素晴らしかった。絵を描き、設計し、材料を集め、建設する。祈りと同じくらいの情熱で、避難所を作り上げていく。

数日後、避難所が完成した。最初は迷路を喜んで走り回っていた二百人のさくやたちも、次第にそこで昼寝をするようになった。温度が一定で、快適だった。でも、使わないで済むことを祈っていた。


■ 黒い狼の襲来

その夕暮れのことだった。空に重く霧がかかるなか、黒い狼の群れが姿を現した。

「狼だ!」

「逃げて!」

外にいた者たちは急ぎ家に逃げ込み、避難所のそばにいた者たちは一斉に滑り込んだ。狼は黒々としており、どの顔も荒れた岩のように歪んでいた。犬というより獣。チュールが通じるような相手ではなかった。

狼は作物にも建物にも興味を示さなかった。その目は、レイナを追っていた。

「なぜ」

「なぜ、レイナを」

避難が間に合わなかったレイナに、白いユキヒョウが飛びかかった。牙で軽々とレイナの背中の服をくわえ、そのまま避難所の入口へと放り投げた。レイナは空中で回転しながら、滑り込んだ。

迷路のような構造に狼たちは混乱し、次々とぶつかりながら通路に入り込んだ。それを見届けると、ユキヒョウたちはひるむことなく狼の群れを引きつけ、山の方向へと走り去っていった。

囮だ。ユキヒョウたちは、自分たちが囮になった。

しばらくして、山の斜面の上にある小高い丘に、三頭の白い影が見えた。息を整えながら、村を静かに見下ろしていた。さくやは、その姿を見つめた。ありがとう。言葉は通じない。でも、伝えたかった。


■ 一晩中の唸り声と恐怖

その夜、村の外では一晩中、唸り声と足音が続いた。狼は村の周囲を徘徊し、吠え、何かを探していた。

「グルルルル……」

「ガオオオオ……」

さくやは、避難所の中で膝を抱えていた。怖い。眠れない。レイナが隣に座って、そっと手を握ってくれた。温かかった。レイナは目を閉じ、祈り始めた。静かな祈り。さくやも、真似して目を閉じた。

何に祈るのか分からない。でも、祈った。無事でいられますように。ユキヒョウたちが、無事でいられますように。

朝になると、狼の姿はいつの間にか消えていた。霧のなかに溶けたのか、それとも別の場所へ消えたのかはわからなかった。さくやは、その朝、はじめて本当の恐怖を知った。白いユキヒョウがどれだけ強くても、あの数には敵わないかもしれない。それほどに、狼の数は――多かった。


■ 疲れた守護者たちと新たな決意

白いユキヒョウたちは、いつものようにチュールをねだりに現れた。だが、その毛並みには小さな傷があり、疲れた様子が見て取れた。さくやは、チュールをたくさん差し出した。

「お疲れさま」

ユキヒョウたちは静かにチュールを舐め、しばらく触れ合った後、再び山の方へと向かっていった。まるで「まだ終わってない」と言うように。次の夜への備えを、静かに始めるかのように。

さくやは、その背中を見送った。レイナが隣に立っていて、絵を描いている。白いユキヒョウと、さくやと、レイナが並んで立っている絵。その後ろには、大きな橋。

言葉は通じない。でも、分かった。一緒に戦おう。一緒に、この村を守ろう。

さくやは頷いた。レイナも頷いた。

村に、新たな絆と決意が芽生えはじめていた。小さな者たちの、大きな勇気が。夜空には星が輝いている。でも、その向こうに黒い影がある。明日も、戦いは続く。でも、一人じゃない。

ユキヒョウたちがいる。レイナがいる。そして――さくやたちがいる。

二百人の小さきものたちの手の中で、新たな物語が、静かに、大きく、動き続けていた。



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