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■第31話 霧の谷編 白いユキヒョウ、静かなる守り

祈りと料理と、花の種。

白い毛並みの守り手たちと、小さな日々が積み重なっていく。

けれど夜の闇は、静かに、確実に、村を窺っていた。


■ 理想郷の退屈

「あー、また今日もやることないなあ」

誰かの呟きを聞きながら、さくやたちは適当に体を伸ばして冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。朝起きると、レイナが既に祈りを捧げており、その静謐な姿を見ていると不思議と心が落ち着く。朝食はパンとスープで、レイナが作ってくれるそれは、いつも温かく、いつも美味しく、何の文句もつけようがなかった。

「これ天国だよね」

「でも暇すぎる」

「スマホが恋しい」

二百人の間でそんな声が漏れる中、午前中は村を散策したり、畑を手伝ったりして過ごすことになった。レイナは土に触れ、葉の色を確認し、水をやり、また確認するという作業を丁寧すぎるほど丁寧に繰り返していて、その様子を見ていると眠くなってくる。

「レイナ、祈ってるときと同じ顔してるなあ」

「畑も祈りなのかも」

確かに、レイナにとっては野菜を育てることも祈りの延長なのかもしれない。

さくやが花を育てたいと身振りで伝えると、レイナは静かに頷いて空いた畑の一角へと案内してくれた。故郷から持ってきた懐かしい花の種を土に埋める指先が少しだけ震えているのを見て、レイナは色とりどりの花が咲き乱れる花壇の絵を描いてくれた。

「楽しみだねって言ってるんだろうね、これ」

言葉は通じないのに意味だけははっきりとわかった。

午後になると二百人は村をうろうろと歩き回り、整備された水路や石壁、白い壁に刻まれた ʕ•ᴥ•ʔ のマークを眺めて過ごした。あまりにもやることが少なくて、何人かは畑の前でうとうとしている始末だった。

「これ、合宿というより……」

「神様の暮らしでしょ」

「天使だ天使」

誰も否定できなかった。毎日ごはんを作ってもらって、花を育てて、昼寝をして。

「平和って、こういうことなのかもな」


■ 白い影

神殿の裏手の小道を歩いていたときのことだった。木立の影から、それが突然現れた。真っ白なヒョウが三匹も。

「うわあああああ」

「でかっ!」

「本物だ本物だ本物だ!」

二百人が一斉に声を上げて固まった。息を呑み、心臓をバクバクと鳴らしながら見上げないと顔が見えないその巨体に圧倒される。黄金色の瞳がじっとこちらを見ているが、不思議なことに敵意は感じられなかった。品定めされているような、そんな気がした。

しばらくの沈黙の後、ヒョウたちは何事もなかったかのように歩き出し、二百人の隣に並んで散歩でもするように一緒に歩き始めた。

「え、なに、なに」

「一緒に歩くの?」

戸惑いながらも、横目でヒョウを見ると、足だけで自分の身長くらいあるのに歩くペースをこちらに合わせてくれていて、なんというか律儀だった。

村に戻ると、レイナがユキヒョウたちと戯れている光景が目に飛び込んできた。巨大な前足がレイナをちょいちょいと軽く触れ、レイナがころころと転がって起き上がると、ユキヒョウがまたちょいちょいとする。まるで親が子をあやしているような仕草に、二百人は呆然とするしかなかった。

「……白いユキヒョウだよね」

「レイナ、めちゃくちゃ慣れてる」

白い毛並み、がっしりとした体格、優雅な動きを持つ三匹の白いユキヒョウが、レイナの古くからの友達であることがうかがえた。


■ チュールの魔力

次に出会ったとき、試しに誰かがチュールを差し出してみた。ユキヒョウたちは最初戸惑っていたが、巨大な鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、首を傾げてから一舐めした瞬間――豹変した。目がハートマークになったのだ。比喩ではなく、完全に。三匹揃ってチュールに夢中になる姿を見て、

「山の守り手がちゅーるで陥落してる」

「……依存症の顔だよ、これ」

誰かが呟いた。倫理的にどうかと思いながらも、もう一本取り出してしまう。Win-Winだ、たぶん。神聖な守り手が猫用おやつに完全降伏するという、なんとも言えない光景がそこにあった。

それ以来、白いユキヒョウたちは二百人を見ると静かに立ち止まり、じっとチュールを待つようになった。やがて小さきものたちはその背中によじ登り、雪の中を移動するようにもなった。

「うおおおお、高っ!」

「景色変わるね!」

「三人がかりでよじ登るって何なの」

声が飛び交う中、よじ登るのに三人がかりという状況に苦笑いしつつも、背中の上のふかふかとした感触と、三十センチの目線が突然別世界のものになる感覚を楽しんでいた。

「ヒョータク」

誰かが命名した。

「料金チュール一本。コスパ最強だ」

ユキヒョウたちは何も言わず、ただ黙って雪を踏みしめて進むプロフェッショナルぶりを見せていた。


■ 血の匂い

ある日、いつものようにチュールを与えた後でふと見ると、ユキヒョウたちの口元が真っ赤に染まっているのに気がついた。さくやの息が一瞬止まった。血だ。風に乗って、骨を噛み砕くような音が微かに聞こえた気がした。山の方から。ユキヒョウたちはさくやの視線に気づいても何も言わず、ただ静かに山を見つめていた。その横顔には、チュールをねだるときの気安さはなく、別の何かがあった。

「あ……」

「やっぱり、そうだよね」

二百人の間のざわめきが静まった。そうだ、と改めて思う。彼らは肉食動物なのだ。狩りをして生きている。チュールが好きでも、甘えん坊でも、その事実は変わらない。優しいものが強いとは限らないが、強いものが優しいことはある。さくやはその現実を、ただ受け入れることにした。


■ 夜の足音

ある晩のこと、新雪の上にユキヒョウのものではない足跡が残されているのを見つけた。さくやの足では収まりきらないほど大きなその跡を見て、

「え、何これ」

「でかすぎるでしょ……」

声が上がる中、背筋が凍りつく思いがした。すぐにレイナが駆け寄ってきて、身振り手振りで「夜は出てはいけない」ということを伝えた。いつもの笑顔はそこになく、真剣そのものの表情だった。二百人は素直に家の中へと戻された。

その夜は風が強く、雪が音もなく降り積もった。そして夜更けになって、遠くから唸り声が聞こえてきた。低く、腹に響くような声で、何度も、何度も。さくやは布の中で目を開けたまま、その声が遠ざかるのをじっと待った。

翌朝、ドアの木板に深く刻まれた十本の爪痕があった。二百人の背丈をはるかに超える高さに、くっきりと残されたその痕跡を見て、これだけの爪が届く位置にあるということは、その何かはユキヒョウよりもさらに大きいのだということがわかった。しかし、ドアは破られていない。誰も傷ついていない。守られているのだ。


■ 静かなる守護

白いユキヒョウたちは、その日もいつものように二百人の前に現れた。チュールをねだる目をしているが、その目の奥には昨夜とは違う光が宿っていた。さくやはユキヒョウの前足に手を当てた。温かく、柔らかいが、その足の筋肉は岩のように硬く、自分の全身がすっぽりと収まりそうな巨大さだった。

「ありがとう」

言葉は通じないはずなのに伝わった気がした。ユキヒョウは小さく鳴いて、やがて雪の中へと静かに消えていった。また明日、と言うように。

穏やかな白い村に、ほんの少しだけ不穏な影が忍び込み始めている。それでもさくやは夜空を見上げた。星が綺麗だった。守り手がいて、仲間がいて、温かいごはんがある。今夜のところは、それで十分だった。

二百人の小さきものたちの手の中で、新たな物語が静かに、しかし確実に動き始めていた。



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