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■第27話 霧の谷編 谷の声を聞け  

霧が、すべてを覆っていた。

風は容赦なく、谷の底は見えない。

それでもさくやは、霧の動きを読んでいた。

 

■出発

翌朝、選抜された200人のさくやは、爆音社長が用意してくれたバスに分乗して北の谷へ向けて出発した。

バスはさくやたちの体格に合わせて作られていた。

運転席も、座席の高さも、窓の位置も、ドアのステップも、すべてが30cmの体格に合わせてある。

当たり前のことが当たり前にできる。

爆音社長らしい細かいところまで行き届いた仕事だった。

バスの中では、それぞれが最終確認をしている。

設計班は手帳とスケッチ道具、測量班は風速計とレーザー計測機、救急班は救急キットの点検、記録班はカメラと記録用紙、連絡係はタブレットの充電と通信確認。

誰もが静かに、でも確実に、自分の仕事をしていた。

ただ、設計班の数人がすでに手帳にスケッチを描き始めていた。

まだ現地も見ていないのに。

「早すぎひん?」と隣の子が言うと「イメージを先に作っとくんや」と答えた。

その手帳には、橋のスケッチがびっしりと描かれていた。

情熱とは、時として現実より先を走るものだ。

バスは北の谷の手前で停車した。


■過酷な現実

バスから降りた瞬間、全員が息を白く吐いた。

北の谷は、想像していたよりも静かだった。

その静けさの中で、風だけが突然、身体を突き飛ばしてくる。

さくやは谷の縁に近づき、下を見た。霧がすべてを覆っている。谷の底が見えない。対岸も見えない。

ただ白い霧が、果てしなく広がっていた。どこまであるんやろ、とさくやは思った。

連絡係がタブレットを開くと、すぐに師匠の顔が映った。

「風向きは北西から。霧の濃度はかなり高いね」師匠の声は、いつもと同じ穏やかさだった。

画面の端から爆音社長が割り込んできた。

「測量班、ドローンがいけるかテスト!無理ならレーザー計測機の準備!記録班は状況の記録開始!連絡係はこまめに状況報告!」

声だけで現場の空気が震える。タブレット越しでも爆音社長は爆音だった。

各班が一斉に動き出した。これが混乱の始まりだった。

連絡係が張り切って報告を始めた。

「現在の風速3.2です。いや3.3に変わりました。いや3.2に戻りました。あ、3.4です。いや」

「ええから測れ!」

爆音社長の声が飛んだ。

「了解です!」

連絡係はすぐに切り替えた。

記録班は寒さで手が震えてメモが読めなくなっていた。

「記録は止められへん!」と言い張りながらも、震える字で何かを書き続けている。

「手袋して」と隣の子に言われて、「そうか!」と即座に手袋をはめた。

設計班はバスの中で描いていたスケッチを早速広げ、谷を見ながら描き直し始めた。

「まだ測量データ出てへんで」と測量班に言われて、「分かった、待つ」と素直に手帳を閉じた。

閉じたが、10秒後にまた開いていた。

救急班は出番がないまま、谷の縁から少し離れた場所で待機している。

「いつでも行けます」と誰に言うでもなく呟いていた。

その準備の良さは、誰も疑っていない。

ただ、出番がないことを、全員が願っていた。


■機材との格闘

測量班が本格的に動き出したが、現実は厳しかった。

ドローンは風と霧で制御が利かず、高度を上げるほど霧に飲まれた。

気球案も検討されたが、この風の強さでは危険すぎる。

結局レーザー計測しかないという結論に落ち着いたが、霧の影響でなかなか安定した測定ができない。

反射が弱すぎる。霧が邪魔をしている。二度目の失敗まではまだ声が出ていたが、三度目の失敗で、現場から言葉が消えた。記録班のペンだけが、淡々と動いていた。

連絡係がタブレットを向けると、師匠が静かに言った。「まだまだ。焦らなくていい」その言葉が現場に届くと、誰かが小さく息を吐いた。

タブレットの向こうの爆音社長は珍しく黙っていた。

それがかえって、状況の難しさを物語っていた。

さくやは焦っていた。

でも焦りながら、考えていた。

霧が深い。風が強い。ドローンも気球も使えない。レーザーも霧に阻まれる。

霧が邪魔なんや、とさくやは思った。でも、霧は一定やない。

さくやは谷の縁に立って、霧の動きをじっと見つめた。

風が吹くたびに、霧が薄くなる瞬間がある。

ほんの一瞬だけ、霧が流れて視界が開ける瞬間が。

あそこや。


■さくやの気づき

「ちょっと、待ってください」

測量班に声をかけた。「角度、変えてみます。

レーザーを水平に当てるんやなくて、斜めに。

霧が薄くなる瞬間があります。風が吹いた直後、一瞬だけ。その瞬間に、当てるんです」

測量班のリーダーは首をかしげた。タイミングが、と言いかけた。

「わたしが合図します」

連絡係がタブレットをさくやに向けた。師匠が、静かに見ていた。

爆音社長も、黙って見ていた。

設計班が手帳を開いた。記録班がペンを構えた。救急班が「いつでも行けます」と呟いた。

誰も突っ込まなかった。

さくやは谷の縁に立った。風を読む。霧の流れを見る。どこから風が来て、どこへ霧が流れていくか。

全員が固唾を呑んでさくやを見ていた。

風が、来た。

「……今!」

レーザーが、霧を切り裂いた。一瞬の静寂の後、測量班のリーダーが震える声で告げた。

「……反応、出ました」

現場に電気が走ったような緊張が満ちる。

もう一回、とさくやは言って、また風を読んだ。霧を見た。

「……今!」

二度目のレーザーが、谷を渡った。

「確認できました」

歓声が上がった。設計班がすぐさま手帳を開いた。記録班が震える手でペンを走らせた。

連絡係が「取れました!取れました!」とタブレットに向かって叫んだ。

救急班だけが、静かに出番のないまま立っていた。

さくやは、その場にへたり込んだ。

取れた、とさくやは思った。ただそれだけだった。


■谷の幅

測量データを見た瞬間、全員が息を呑んだ。

画面を見つめている。その幅は、想像を超えていた。

200m・・・。

連絡係がデータをタブレット越しに送ると、しばらく沈黙が続いた。

師匠が静かに言った。

「……簡単ではないね。でも、考える価値はある」

爆音社長が画面の中で腕を組んだ。

「おもろなってきたやんか。こんだけ幅あったら、普通の橋じゃあかん。設計、根本から考え直しやな」

設計班がすでに手帳を広げて描き直し始めていた。

さっきまでのスケッチを全部消して、また描き始めている。

その消しゴムのかすが、風に飛ばされていった。

師匠の声が、タブレット越しに届いた。

「よくやった」

「……たまたまです」

「たまたまじゃない。現場で考えた。それが大事だよ」

さくやは、頷いた。

 

■谷の声、聞けたか

帰りのバスの中、さくやは窓の外を見ながら呟いた。

「……谷の声、聞けたかな」

昨夜師匠が言っていた言葉。

でも正直、風がうるさすぎて、谷の声どころじゃなかった。

隣にいた仲間が頷いた。

「わたしも。ていうか、谷って声出すんかな」

「出さへんやろ、普通」

「師匠、詩人やからな」

二人は顔を見合わせて笑った。

でもさくやは手帳を開いた。

谷の地形図。測量データ。風速。霧の濃度。

「……でも、来てみて分かったことがある。

現場でしか、分からんことがあった。それが……谷の声なんかもしれん」

「強引やな」

「でも、そういうことにしとこ」

また笑い声が起きた。

 

■霧の向こうの影

そのとき、記録班のさくやが叫んだ。

「対岸に、大木が確認されました。あと……鳥? 何羽も飛んでる……めっちゃでかいなあ……あんな大きな鳥、見たことない……」

運転手のさくやはバスを止めた。

全員が霧の向こうを見た。霧がわずかに薄れた一瞬、巨大な白い影が舞っていた。

羽根が光を受けて輝いている。優雅に、静かに、霧の中を舞っている。

誰かが呟いた。「……きれい」

「あれ、渡ったら食べられたりせぇへんよね……?」「それ、今は置いといて」「でも気になる……」救急班が静かに手を挙げた。「食べられた場合も、一応想定しておきますか」「しといて」「了解です」。連絡係がタブレットをその方向に向けると、師匠が霧の向こうをしばらく見つめていた。「……対岸に、何かありそうですね。」「何?」

霧の向こうに白い影が舞い続けている。バスが、静かに動き出した。

 

■設計の始まり

さくやは手帳のスケッチを見つめた。まだ、答えは出ない。でも、考えることが楽しかった。

現場を見て、初めて設計が始まるんや。師匠が言ってた意味が、分かった。

隣に座っていた仲間が覗き込んだ。

「めっちゃ描いてるやん」「わくわくすんねん」「楽しそう」「楽しい」さくやは、笑った。

バスの窓の外に、湖が見えてきた。夕日が、湖を照らしている。

明日も来よう、とさくやは思った。

もっと現場を見て、そして設計しよう。

霧の向こうに、白い影がまだ舞っている気がした。

あの白い鳥が、何かを守っている。その先に、何があるのか。まだ、誰も知らない。

小さきものたちの手の中で、橋の夢が、静かに、大きく、形になり始めていた。

 



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