■第26話 霧の谷編 春の号令が響いた朝――新たな挑戦
春が来た。師匠が地図を広げた。
霧の向こうに何かがある――その一言が1000人の運命を動かした。
そして始まった、史上最大のじゃんけん大会。
■春の号令
その日の朝、湖畔オフィスに響いた師匠の声は、まるで春の号令のように軽やかだった。
「業務に支障のないものは、全員、会議室に集合」
それだけだったが、さくやたちは顔を上げて顔を見合わせた。いつもと違う。
廊下を歩きながらひそひそと話し合う。
大きな発表があるのか、また新しいプロジェクトなのか、誰も答えを持っていないのに、足取りだけが自然と速くなった。猛ダッシュ!
とはいえ1000人全員が行けるわけではない。
拠点の作業班、地域パトロール、通常任務に就く200人は、後ろ髪を引かれながらも持ち場へと向かった。
「あとで絶対教えてな」「うん、絶対」。何度も振り返りながら大声で叫ぶ。
800人が大会議室に集まると、椅子を引く音と小さな足音が重なり、広い室内がざわめいた。
しかし師匠が前に立つと、その喧騒がぴたりと止まった。
800人が息を呑む。その静けさが、逆に重かった。
■衝撃の発表
壇上に師匠。
「北の谷に、吊り橋を架けたいと思います」
会議室に静寂が降りた。プロジェクターに映し出された地図には、湖の北側に広がる深い渓谷が、まるで大地に刻まれた巨大な傷跡のように表示されていた。等高線が密に詰まって太線になっている。その太くなってしまった線が深さと険しさを物語っている。
「これまで誰も渡れると思ったことがない谷だと思います」と師匠は静かに続けた。
「霧が深く、風が強い。対岸の詳細も不明。幅も、分かりません」
幅が分からない谷に橋を架ける。
さくやたちはざわめいたが、師匠は少し間を置いてから言った。
「まず調査から始めます。谷の幅を知ることから。それが、すべての始まりです」
そして静かな確信を込めて続けた。
「霧の向こうには何かがある。そこへ繋がる道を作りたいのです!」
その言葉に、会議室の空気が変わった。
不安だけじゃない。
期待が、混じり始めていた。
■爆音社長、電撃参戦
その時――バーンッ!
会議室の扉が爆発したかのような音を立てて開いた。
革のつなぎに金髪をなびかせ、サングラスをかけた長身の女性――爆音社長
巨大なスパナを肩に担いで登場した。
その足音が床を踏み鳴らすたびに、最前列のさくやたちの体がふわりと浮き上がりそうになる。
「遅刻や〜!すんません〜!」
壇上へ向かいながら巨大なスパナを豪快に振り上げ、最前列のさくやたちが「ひいっ」と身を縮めた。
爆音社長はそのうちの一人をひょいと片手で拾い上げ、もふもふと頬ずりした。
「いつもかわいいなぁ!お前ら!よっしゃ一緒に谷を渡るで!」
さくやは「社長、会議中ですっ!静かにっ!」と抗議したが、爆音社長はもう師匠の方を向いていた。
「選抜チーム作ろうやないか!霧の谷、正面からガッツリいったろうや!」
師匠は静かに頷いた。
「そうですね、社長もご協力願います」
その言葉に、爆音社長はニヤリと笑った。
■200人という現実
「では、選抜チームを結成しましょう。希望者を募ります」
師匠の言葉が終わるか終わらないかのうちに、800人全員が一斉に手を挙げた。
師匠は少し困った顔をして、「……全員?」と呟いた。
「全員です!!」さくやたちは誰も手を下ろさない。
爆音社長が、親指を立てた。
「ヨッシャ、気持ちはよう分かる。でもな、作業効率と通常任務を考えてや。現地踏査に連れていけるのは200人や。それ以上は足手まといになる」歓声と静寂が同時に起きた。
800人いて200人しか行けないなら、600人は残らなければならない。会議室の空気が重くなった。
師匠が静かに言った。
「じゃあ、じゃんけんで決めましょうか・・・」
「じゃんけん!?」
「他に公平な方法あるかな?」
さくやたちは顔を見合わせた。
確かに。
民主主義の極地とも言えるし、あまりにも雑とも言える。でもフェアだった。
■史上最大のじゃんけん大会
ルールは単純だった。
師匠と対戦し、負けと引き分けは即退場。勝った者だけが残る。
爆音社長が深く息を吸い込んだ。
「最初はグー!じゃーんけん、ぽん!!」
その声が会議室を揺らし、800人の手が一斉に出された。粛々と退場していく。
爆音社長が「次!最初はグー!じゃーんけん、ぽん!!」と叫ぶ。
師匠はまた静かに手を出す。淡々と、まるで書類にハンコを押すように。
数回繰り返したところで、爆音社長が「よし、数えよか!」と宣言した。
これが、混乱の始まりだった。
30cmのさくやたちが800人いる部屋で、残った者だけを数えようとしたのだが、さくやたちはちょこちょこ動き回るし、興奮して跳ね回るしで、まったく数えられない。
爆音社長が「こっちおいで!」と呼び寄せながら一人ずつ拾い上げて数えようとするのだが、数えた子がまた別の場所へ移動する。「さっきの子ちゃうか?」「違います!」「ほんまか?」
全員同じ顔というのがややこしいが、さくや自身は誰が勝ったかわかるようだ・・・
最終的に師匠が何となく数えた。180人だった。さくやも納得の表情、合ってるようだ。
師匠「……20人、足りないね」
■敗者復活戦、そして601人の戦い
「敗者復活や!」と爆音社長が叫んだ。
「脱落した中から20人を選びなおすで!もう一回チャンスや!」
脱落者たちが師匠の前に殺到した。
爆音社長が「最初はグー!じゃーんけーん、ぽん!!」と叫び、師匠が淡々と手を出す。
数回で20人近くに絞れたところで、また数えた。またよくわからない。
「さっきの子ちゃうか?」「違います!」この会話が、何度繰り返されただろう。
そしてついに、残り1枠という局面が訪れた。
601人が残っている。
601人が、師匠の前に並んだ。
最後の1人を決めるじゃんけん。
爆音社長は既に声が少しかすれていたが、それでも深く息を吸い込んだ。
「最初はグー!じゃーんけーん、ぽん!!」
師匠が、静かに手を出す。歓声と悲鳴が入り混じる。
気づけば、日が傾き始めていた。
結局、全てが終わったのは夕暮れ時だった。
200人が確定した瞬間、誰かが天井からくす玉を割った。
「祝200人!!」
紙吹雪が舞い散る。
全員がキョロキョロと周りを見回す中、会議室の隅で一人のさくやがそっと目を逸らした。
「あんた、じゃんけん中に作ったんかい!!」
「だって、200人に絞れるって分かってたから……」
「時間かかりすぎて、完成してもうたやないか!!」
爆音社長は笑いながらそのさくやをひょいと拾い上げ、「準備がええなぁ!」と頬ずりした。
「社長、苦しいです!」と叫んだ。
師匠は紙吹雪を頭にかぶりながら静かに笑った。
■その夜の決意
夕方、湖畔の桟橋でさくやは一人、夕日を眺めていた。
北の谷か、とさくやは思う。ほんまに大丈夫やろか。霞んで見える北の方角から目を離せずにいた。
遠くに見える山々の向こうに霧深い谷がある。
渡れると思っていない谷に橋を架ける。
言葉にすると、途方もなかった。
「心配?」
振り返ると、師匠が静かに近づいてきていた。
桟橋の手すりに手を置き、同じく北の方角を見つめる。
さくやの全身がすっぽり収まりそうな大きな手がすぐそこにある。
それでもこうして隣に立ってくれると気持ちが高まった。
「大きなプロジェクトだから。不安になるのは当然だよ。きっとうまくいく」
その静かな確信に満ちた声に、さくやの迷いが少しずつ晴れていく。
「……わたし、設計やってみたいです」
「橋の設計。師匠に、教えてほしいです」
師匠は少し驚いた顔をして、それから優しく笑った。
「できる」
「……がんばります」
師匠はそう言って桟橋を後にした。さくやは夕日を見つめた。北の空が、オレンジ色に染まっている。
橋を架けるって、どういうことやろ。
分からないことだらけだった。
でも、知りたかった。
学びたかった。
師匠と一緒に、作りたかった。
■深夜のデザイン会議
その夜、師匠と爆音社長、そして200人のさくやたちが一堂に会した。
ホワイトボードには様々な橋のスケッチが描かれては消され、消し跡だけが増えていく。
吊り橋か、トラス橋か、アーチ橋か。議論が白熱する中、師匠は静かに橋の写真を見せていった。
ゴールデンゲート・ブリッジ、明石海峡大橋、ドン・ルイス1世橋。
さくやたちは目を輝かせてそれらを見つめた。
「でもな」と爆音社長が言った。
「現地調査してから決めんとな。谷の幅、深さ、風の強さ、地盤の固さ。全部分かってから、初めて橋の形が決まる。机の上だけじゃ、何も分からへん」
その言葉に、さくやたちはハッとした。一人が立ち上がった。
「早く現地行きましょう!見てみんと、感じてみんと、わからへん!」
師匠は優しく笑った。
「そうだね。明日、行こう」
ただし、と爆音社長が付け加えた。
「師匠もアタシも、谷には近づけへん。小さきものの世界や。現地踏査は、お前らだけで行ってもらうことになるで!」
会議室が静まった。200人だけであの霧深い谷へ。さくやたちは顔を見合わせた。
不安とそれ以上の何かが胸に広がってドギマギした。
爆音社長がホワイトボードに三つの橋を大きく描いた。
「吊り橋。トラス橋。アーチ橋。現地見て、どれがええか決めよう」
「橋長ごとに比較案だけはばっちりや!」
さくやは配布された地形図を広げて見つめた。
時計を見ると、夜中の2時を回っていた。
でも、誰も帰ろうとしなかった。
さくやは資料を胸に抱いた。
眠いけど楽しい。
そして少しだけ怖い。
そんな感情が混ざり合い、さくやは小さく笑った。
小さきものたちの手の中で、新しい物語が静かに大きく動き始めた。
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