■第242回 湖畔の胎動編 氷の来訪者
静かな朝に、冷たい礼儀が扉を叩いた。
微笑みの奥に刃を隠した男と、穏やかな拒絶。
世界は、敵も味方も、少しずつ顔を見せ始める。
■ 夜明けの訪問者
早朝、街はまだ薄い青の中に沈んでいた。
その静寂を割るように、師匠の家のチャイムが乾いた音を立てた。長年仕えてきた家政夫の老紳士は、静かな空気を壊さないよう、慎重に廊下を進んだ。磨き込まれた床が、足音さえ飲み込んでいく。
「はい、どちらさまでしょうか」
「師匠に会いに来ました。――マートルと申します」
扉を開けると、朝霧の向こうに一人の男が立っていた。
金髪に淡く光を宿した青い瞳。師匠より頭ひとつ大きい、百九十はあるだろう長身。着ているのは灰色のスリーピースのスーツで、縫い目ひとつ乱れていない。その上質な布地は、まるで男自身の冷たさと威厳をそのまま形にしたようだった。茶色の革靴は磨かれすぎて、空が映るほどだった。
老紳士は一瞬だけ目を細めた。
――ただ者ではない。
しかし表情には出さず、「どうぞ」と静かに応接室へ通し、慣れた手つきで紅茶を淹れた。湯気が細く立ち上り、朝の空気に溶けていく。
ほどなくして師匠が姿を現した。
「はじめまして、マートルさん」
「どうも、師匠。お会いしたかった」
握手は短く、だが妙に強かった。マートルの視線は、まるで師匠の体の奥を覗き込むような、冷たい青の光をしていた。
■ 微笑みの奥の刃
紅茶を軽く口に運ぶと、マートルは一切の前置きなく本題を切り出した。
「小さきもの――あなたのもとにいる彼女たちの話です。カイザーを使い、光鉱石を回収しようとしたのですが……別の"小さきもの"が邪魔をしている」
師匠の指が一瞬止まった。
「調べていくうちに、あなたへ辿り着きました。ですから今日は、お願いに来ました。光鉱石から手を引いていただきたい」
男の声には柔らかな調子があるのに、その奥ではナイフのように鋭い警告が光っていた。
「――それに、できれば一緒にどうです?私のもとで光鉱石を使ったビジネスを。あなたなら分かるでしょう、その価値が」
師匠は静かに首を横に振った。
「誤解されています。私は"小さきもの"を使っているわけではありません。彼女たちは自分の意志で世界を冒険している。私は……仲間として手を貸しているだけです。光鉱石は、小さきものが"自分たちの世界"を変えるためのもの。人が利用すべきではありません」
マートルの笑みが、すっと温度を失った。
「……そうですか。わかりましたよ」
その返事には、理解とは違う"線引き"の冷たさがあった。
男はすぐいつもの笑顔に戻り、丁寧すぎるほどの礼を述べて部屋を後にした。
玄関の外には黒塗りの大型車が止まり、周囲にはSPと思われる無言の男たちが影のように立っていた。朝の澄んだ空気の中で、そこだけが異様に重かった。
■静かな包囲網
扉が閉まったあと、師匠は長く息を吐いた。
――世界には、小さきものと繋がる人間が他にもいる。
それも、単なる"目撃者"ではなく、意図的に関係を結び、力に変えようとする者が。
さくやと過ごしてきた日々を思い返す。無邪気で、自由で、時にこちらを振り回す彼女たち――だが、マートルのように"利用"しようとする人間も確かに存在するのだ。
午後、爆音社長との打ち合わせで師匠はマートルの話をした。
「……なんか師匠にも危険が迫ってそうやな」
社長は眉をひそめ、言い終える前にもう電話を取り出していた。
「マダムに言うわ。SPの警戒、強化してくれるように――あ、マダム?そうそう、ちょっと師匠んとこ危ないかもしれんで」
翌日から師匠の家の周囲に黒い影が増えた。
目に見えて人数が増えたSPが、静かに、しかし確実に家を包んでいく。
「しばらく強化します」
SPは短く、感情の見えない声で告げた。
さらに――いつの間にか、さくやの忍者部隊まで常駐していた。
「マダムがな、『SPの数増えると逆に何か紛れ込むかもしれへん』って言うて、うちの子らで見張っとけって」
さくやが説明すると、爆音社長も深くうなずいた。
「せやな。普段の警戒網をマートルが通れたんも、なんか引っかかるしな」
「なんか大げさだね……」
師匠は苦笑したが、胸の奥には微かな不安が残っていた。
――マートルの"わかりました"は、あまりに冷たすぎた。
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