■第222話 渓谷の光編 渓谷を降りる者たち
青い靄の底へ、25人が命綱一本で踏み込む。 獣たちは牙を剥き、チュール一本で頭を垂れた。 渓谷は、試した者だけに扉を開く。
■ 渓谷の縁に立つ
朝霧が渓谷の縁を這うように流れている。薄明の中、25人の降下班が最終確認を進めていた。
「無線、持ったか?」ラーシュが周囲に声をかける。「常に拠点と連絡を取る」ユーリが腰の無線機を軽く叩いた。「水と食料は三日分あります」エレナが水筒を振る。チャプチャプと音がした。「よし行くで。ぐずぐずしてたら日が暮れるわ」さくやが荷物を肩で調整しながら笑った。
渓谷の縁に立つと、冷たい風が吹き上げてきた。ラーシュが慎重に下を覗き込む。岩壁の果てに、遥か下方の底が青い靄に包まれている。まるで世界の裂け目だ。
「……深いな」「引き返すなら今のうちだぞ」ユーリが冗談めかして言う。「誰も引き返さへんわ。うちらの辞書にそんな言葉はあらへん」さくやが笑う。
レイナが深呼吸をした。「行きましょう。慎重に、でも確実に」
岩場に自然が作り出した細い裂け目があった。小さきもの二人がようやく並べる幅。岩肌は湿って苔が生え、足を滑らせたらそのまま奈落だ。「一歩ずつ確実に。焦るな」ラーシュが先頭に立った。
■ 深部へ——傷ついたコンドルの雛
岩肌を伝い、隙間を抜け、時には四つん這いになりながら降りていく。高度が下がるにつれて空気が変わった。湿度が上がり、岩肌に苔が増え、どこからか水の気配がする。
中腹に差し掛かった頃、岩棚の上で何かがもがいていた。
コンドルの雛だ。まだ羽毛が生えそろっていない。翼の一枚が岩の隙間に挟まって身動きが取れなくなっている。親の姿は見えない。目が弱々しく虚ろだった。
「助けるか?」「当たり前やろ」さくやが既に岩棚に登り始めていた。
近づくと雛が嘴を開いた。「ギャッ!」「痛い痛い!」さくやが顔を引っ込める。「怖いから暴れてるんでしょう」エレナが言った。「ゆっくりな。痛くせえへんから」さくやがそっと手を伸ばし、岩の隙間に挟まった翼を慎重に、少しずつ動かす。雛が震えている。「もうちょっとや……」ぐっと力を入れると——スルッと翼が抜けた。
雛がよろめいて、さくやの胸に倒れ込んできた。温かい。柔らかい羽毛の感触。大きな赤い目がさくやを見上げる。さっきまでの威嚇が嘘のように、じっとこちらを見つめていた。「……可愛いやん」さくやが思わず呟いた。
しばらく抱いていると、雛の目に力が戻ってきた。「もう大丈夫そうやな」さくやがそっと岩棚に下ろす。「気をつけるんやで」
雛がしばらくこちらを見つめていた。
その時——バサッ。大きな影が降りてきた。親コンドルだ。翼を広げれば優に二メートルを超える巨体が、さくやのすぐ前に降り立った。全員が息を呑んだ。
親コンドルが雛を確認する。怪我がないか、丁寧に嘴で羽毛を梳いていく。雛が親に寄り添って小さく鳴いた。それから——親コンドルがゆっくりとさくやを向いた。何も言わない。ただじっと見つめる。大きな赤い目が、さくやの目を真っ直ぐに捉えていた。
数秒の沈黙。それだけだった。親コンドルが雛を促し、翼を広げて飛び立つ。雛がよちよちと後を追い、小さな翼を懸命に動かしながら岩棚の奥へ消えていった。
「……伝わったな」ラーシュが静かに言った。「うん」さくやが空を見上げる。「なんか、伝わった」言葉にはならない。でも確かに何かがあった。全員がそれを感じていた。
「またいつか会えるかな」エレナが呟く。「会えると思う」さくやが笑った。「絶対に」
それからユーリが、誰にともなく言った。「……あの子が大きくなったら、背中に乗れるんちゃうかな」誰も笑わなかった。全員が同じことをワクワクしながら考えていた。
■ 中間広場——無線の謎
昼過ぎ、岩場の途中に平らな広場が現れた。「今日はここで休もう」テントを張り、焚き火を起こす。夜の渓谷は静かだった。遠くでフクロウが低く鳴き、岩壁のどこかで小動物が動く気配。この渓谷にも、確かに命が息づいていた。
「拠点、聞こえるか?」ラーシュが無線を取り出した。『聞こえてる。状況は?』「順調だ。怪我人ゼロ。中腹まで来た」『良かった。こっちは色々あった』「色々って何だ?」『……後で話す。信じられないことが起きてる』プツン。
「なんやそれ」さくやが眉をひそめる。「気になるやろ、そういう言い方したら」「まあ、明日には分かる」ラーシュが無線をベルトに戻した。「今は休もう」
■ 拠点班——チュールとコヨーテ
一方、拠点に残った25人は周辺探索を続けていた。
初日、コヨーテの群れが小動物を追っているのを目撃した。じわじわと包囲を狭めるコヨーテ。必死に逃げる小動物。「助けるか?」「自然の摂理だぞ」「でも——」ユーリが迷いなく弓を構えた。「ごめん、コヨーテ。だけど見過ごせない」矢がコヨーテの足元に突き刺さる。「キャンッ!」コヨーテが散り、小動物が逃げ出した。
コヨーテたちが振り返る。黄色く光る瞳。獲物を横取りされた怒りが滲んでいた。
翌日も、また翌日も鉢合わせた。そのたびに小競り合いになった。不思議なことに、戦うたびにコヨーテとの距離が縮まっていく気がした。最初は一方的な怒りだったものが、いつしか「こいつらは何者だ」という好奇心に変わっていくのが、その目を見ていると分かった。
三日目の夜。焚き火を囲んで荷物を整理していると、さくやの手に何かが当たった。「……なんやこれ」チュールだった。いつ入れたのか全く記憶がない。旅立ちの朝、無意識に掴んで突っ込んだのだろうか。自分でも謎だった。
その時、岩陰からコヨーテが一頭、焚き火の明かりに引き寄せられるように近づいてきた。昨日も一昨日も顔を合わせた個体だ。さくやと目が合う。「……食うか?」何気なく差し出した。コヨーテが鼻をひくひくさせ、恐る恐る近づいてくる。そして舐めた瞬間——目がハートになった。
「食いついた!」「コヨーテにチュール効くんか……」「動物やもん、美味しいもんは分かるやろ」尻尾が激しく揺れている。さくやが思わず頭を撫でると、目を細めた。それを見ていた他のコヨーテたちが、ぞろぞろと近づいてくる。「ちょ、一本しかないわ!」「均等に舐めさせる」「均等て」
四日目。追いチュールを持って、さくやが岩陰に向かった。「昨日の続きや」コヨーテたちが一斉に集まってくる。目がハートの行列だ。「……百頭に一本は足りひんな」「足りないのは分かってただろ」「でも気持ちの問題や」
チュールが空になった頃——リーダーが、ゆっくりと前に出てきた。片目が潰れた、歴戦の戦士。その体には無数の傷がある。強さと誇りだけで生きてきたような獣が——さくやの前に来て、頭を下げた。地面に前足をつき、完全な服従の姿勢を取る。それを見た百頭以上が、一斉に頭を下げた。
静寂。
「……チュール一本で百頭落としたな」ユーリが呆然と言った。「戦闘力より食の力や」さくやが笑った。「舎弟、確定やな」
翌朝、拠点の前にコヨーテたちが整列していた。百頭以上が軍隊の閲兵式のように列を作っている。ユーリがリーダーの前にしゃがんだ。「よろしくな」リーダーが小さく鳴き、力強く頷いた。
■ ラーシュとユーリ、コヨーテで駆け上がる
その日の午後、渓谷の底でラーシュが無線を握った。
「拠点、聞こえるか。最下層に到達した。川がある。綺麗な水だ」『本当か!』拠点班のユーリの声が弾んだ。「ああ。そっちも降りてこい。コヨーテの背に乗れ」『……は?』「小さきものならコヨーテの背中に乗れる。一頭に二人行けるぞ。まずこっちが迎えに行く」
ラーシュが振り返った。「ユーリ、行くぞ」渓谷の底で出会い、少しずつ距離を縮めていたコヨーテが数頭いた。ラーシュがリーダー格の一頭に近づき、しゃがんで目線を合わせる。「拠点まで連れて行ってくれるか」コヨーテが数秒じっと見つめた後——体を低くした。乗れという合図だ。
ラーシュとユーリが背に乗り込む。毛並みは硬く、温かい。しっかりと毛を握ると——コヨーテが走り出した。渓谷の獣道を、矢のように駆け上がる。岩を跳び、隙間を抜け、急斜面を息も乱さず駆け上がる。風が顔を切り、景色が流れていく。「速い……!」やがて——拠点が見えてきた。
拠点班の全員が呆然として見つめている。「……ラーシュ?コヨーテに乗って来たのか?」「ああ」ラーシュがコヨーテから降りた。「全員乗れ。百頭いるんだろ」「コヨーテに乗って渓谷を降りるて、正気か?」さくやが目を丸くする。「正気だ」ラーシュが笑った。「コヨーテを信じろ」
■ 百頭のコヨーテ、渓谷を駆ける
コヨーテのリーダーが群れを見渡し、低く一声鳴く。一斉に体を低くした。一頭に二人ずつ、25人が乗り込む。毛並みは硬く、温かい。
「行くで!」さくやが叫んだ。
コヨーテたちが一斉に走り出した。渓谷の獣道を、百頭が駆け下りる。岩を跳び、隙間を抜け、急斜面を一気に下る。風が顔を叩き、景色が矢のように流れていく。「うわああああ!」「速い!速すぎる!」「神様——!」レイナが叫ぶ。「レイナ、今は祈らんでええから掴まれ!」さくやが怒鳴った。
やがて青い靄が晴れた。緑が見える。川の音が聞こえてくる。コヨーテたちが川のほとりに静かに止まった。
■ 渓谷の底——合流、そして即座の舎弟
「無事だったか!」降下班が駆け寄ってくる。50人が揃った。川が流れ、透明な水の底に石がはっきりと見える。エレナが測定する。「煮沸なしで飲めます」「水の心配はないな」ラーシュが頷く。
「よし、川沿いを進むで」さくやが地図を広げる。「光鉱石は、この先にあるはずや」
その時——ガサガサッ。茂みが揺れた。全員が身構える。飛び出してきたのは、リスだった。ちょこんと座って、頭を下げた。
「コヨーテは何日もかかったのに」「リス、早すぎだろ」「何を見てたんだ……」
リスがぴょんとさくやの肩に飛び乗り、小さく鳴いた。「チチチッ」「乗ってきたわ……うちら、何者やねん」全員が笑った。
川面に太陽が反射してキラキラと輝いている。さくやの脳裏に、あの雛コンドルの大きな赤い目がよぎった。あの子が大きくなったら——きっと空を飛べる。きっとまた会える。
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