■第207話 遥かなる光編 深き森の夜
森はどんどん深くなっていた。
木々が密集し、空を覆い隠していく。
昼間なのに、薄暗かった。
■穴に逃げ込む
五十人は必死に走り続けた。
地面の振動が大きくなっている。木々がなぎ倒される音が、どんどん近づいてくる。
「あそこ」
ラーシュが崖の岩場を指差した。小さな穴が口を開けている。
「入れるか?」
「小さきものなら入れる。あれには無理だ」
全員が穴に飛び込んだ。五十人がぎゅうぎゅうに押し込まれた。
その直後——
地面が揺れた。巨大な影が穴の外を塞いだ。暗くなった。
鼻だった。クマの鼻が、穴の中に押し込まれてきた。湿った息が顔にかかる。土の匂いと獣の匂いが混じった、重い空気だった。
誰も動けなかった。誰も声を出せなかった。
鼻がぐりぐりと動いている。穴の奥まで届きそうだった。
どれくらい経っただろう。
やがて鼻が引っ込んだ。外で低い唸り声がした。爪が岩を引っかく音がした。
そして、静かになった。
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、さくやが小さく息を吐いた。
「……でかかったな」
誰も答えなかった。
■迷う
夜明けまで歩いた。必死の逃走で、誰もが疲労困憊していた。
川沿いを歩いているつもりだったが、いつの間にか川も森の中に飲み込まれていた。川岸の境界が曖昧になり、どこが川でどこが陸なのかわからなくなる。
「ここ……さっき通った場所じゃない?」
「違う……と思う」
「もう方向がわからん……」
全員の足取りが重くなっていた。
さくやが立ち止まった。
「交代で休もう。このままじゃ全員倒れる」
「賛成です……」レイナがへたり込んだ。
エレナも座り込んだ。
「眠りたい……」
普段は冷静な二人が、完全に疲れ果てていた。
■ユーリが出る
ユーリが立ち上がった。
「食材を探してくる。空腹じゃ動けない」
「気をつけてな」さくやが言った。
「すぐ戻る」
ラーシュが十人を周囲に散らばらせ、警戒態勢に入った。
時間が経つ。三十分、一時間、二時間——。
ユーリは戻ってこなかった。
さくやが立ち上がった。
「遅くない?」
「ああ」ラーシュも眉をひそめた。「迷う道もないから、逆に迷うんだよな」
「火をおこすか。クマの目印にもなりそうだけど……」
「日が落ちるとユーリが戻れなくなる」
火をおこした。やがて小さな炎が燃え上がり、周囲を照らし始めた。
■帰還
しばらくして、真っ暗闇の中から人影が現れた。
「ユーリ」
十人とも血まみれでぼろぼろだった。服は裂け、あちこちに傷がある。それでも全員が生きて戻ってきた。
「火をおこして欲しいと思ってた」ユーリが火の前に座り込んだ。息が整うまで、しばらく誰も何も言わなかった。
「何があった?」さくやが駆け寄った。
「巨大な虎に襲われた」ユーリが言った。「白い虎の二倍はありそうだった」
「二倍?」エレナが驚いた。
「木が生い茂った中で、動きは普通の虎より速かった」
ユーリの目には、まだ恐怖が残っていた。
「死なないことに必死だった。正直、もうダメかと思った」
さくやが真剣な表情で聞いた。
「一頭?」
「一頭だった」ユーリが頷いた。「二、三頭いたら、ここには戻ってきてない」
「どうやって逃げたんや?」
「最初、食材を探してたら背後から気配を感じた。振り向いた瞬間に飛びかかってきた。矢を放ったけど、毛皮が厚くて弾かれた」
「十人で囲んで攻撃したけど、木から木へ飛び移って上から襲いかかってくる。爪で引っかかれた奴もいた」
「弓を撃ち続けた。目を狙ったり、口の中を狙ったり。ようやく怯んだ隙に逃げた。でも追いかけてきた」
「崖の端まで追い詰められて、全員でパラシュートを開いて崖下に飛び降りた。虎は崖を降りられなかった。上から咆哮だけが聞こえてきた」
ユーリは火を見つめたまま、黙った。
さくやはその途中でコクリと頭が落ちた。
レイナとエレナは聞いてる顔をしながら、目が閉じていた。
ラーシュだけが前のめりで聞いていた。
「その虎は今どこにいる?」
「たぶん、まだ崖の上にいると思う」ユーリが答えた。「縄張りから出ないタイプだな」
ユーリは少し黙った。
「……一頭だったのに、どうにもならなかった」
ラーシュが言った。
「しょげるな。手なずけよう」
ユーリがラーシュを見た。
「……できるかな」
「やってみなきゃわからん」
二人は火を囲んで、非常食を食べながら作戦を練った。随分遅い時間まで待ったが、虎は現れなかった。
やがて二人とも、疲労に負けて眠り込んだ。全員が火のそばで爆睡した。
■朝
鳥のさえずりで目が覚めた。夜襲はなかった。
さくやが森を見回して呟いた。
「この森……奥に行くほど、いろいろ大きくなってる気がするな……」
「確かに」エレナが木々を見上げた。「木も太くなっています」
レイナが小川を指差した。
「あの小川……マグロみたいに大きな魚がいます」
ユーリの目が輝いた。
「魚か……久しぶりにいいな」
ラーシュが立ち上がった。
「獲ってこよう」
二人は川に向かった。しばらくして——
「重い」
「引っ張れ」
巨大な川魚を二十人がかりで抱えて帰ってきた。体長一メートル以上はある。
「これ……本当に川魚?」さくやが驚いた。
「川にいたから川魚やろ」ユーリが答えた。
「泥臭いやろな……ちゃんと下処理せな」
全員で手分けして、丁寧に下処理を始めた。内臓を取り、泥抜きをして、何度も水で洗う。時間をかけて丁寧にやった。
やがて火を大きくして、魚を串に刺して焼き始めた。香ばしい匂いが漂う。
焼き魚に味噌汁とご飯という朝食を皆で食べた。
「うまい……」
「下処理、ちゃんとしたかいがあったな」
「魚、久しぶり……」
レイナが手を合わせた。
「森の神よ、川の神よ……この恵みに感謝します……」
朝日が木々の間から差し込み、疲れた冒険者たちを照らしていた。
さくやが立ち上がった。
「よし、今日こそ竹林まで辿り着くで」
「その前に……」ユーリが森の奥を見た。「あの虎、また来るかな」
「来るに決まってる」ラーシュが静かに言った。
二人の目が、同じ方向を向いていた。
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