第15話 設計女子爆誕 湖の奥に師匠あり
師匠が湖に常駐するようになってから、何日が過ぎただろう。
オフィスの定位置の椅子は、きれいに引かれたまま動いていない。
机の上のペンも、角度が変わらない。
誰も触らないからだ。
自宅の灯りもつかない。
代わりに――湖の南西、木立に囲まれた探索ラボの窓だけが、夜になるとやわらかく発光していた。
霧の中に浮かぶ小さな灯り。
それを見つけるたび、さくやたちは少し安心した。
「今日も、あそこにおるな」
「……いるね」
少しだけ関西の響きが混じる声が増えてきたのは、爆音社長の影響だった。
本人たちは気づいていない。
最初の数日は、オフィス全体が落ち着かなかった。
判断を仰ぐ相手がいない。
最後に「これでいこう」と言う人がいない。
それだけで、空気はこんなに揺れるのかと誰もが知った。
「師匠、今日戻りますかね」
「戻らない前提で回そう」
リーダーさくやが言った。
声はやわらかい。
内容は現場仕様だった。
そんな中、来客があった。
「すみません、師匠にご相談があって」
受付のさくやが一瞬だけ固まり、次の瞬間には営業モードに切り替わる。
「ただいま長期の現地調査に出ております」
背後で小声の会議が始まる。
「現地ってどこって言う?」
「海外案件風にする?」
「宇宙観測とか強ない?」
「裏山は近すぎるやろ」
「聞こえてます」
笑顔で押し切った。
成長だった。
オフィスでは案件が爆発していた。
確認待ちの図面。
最終判断待ちの構造計算。
止まっていた企画が一斉に動き出したようだった。
「これ、どない判断する?」
「師匠レビュー前提やで」
「せやけど止められへんやろ」
いつのまにか会話の語尾が関西寄りになっている。
感染源は明らかだった。
机には図面の山。
その間におにぎり。
その横に構造模型。
なぜか混ざるクッキー。
設計現場はだいたいこうなる。
影響は裏拠点にも出た。
リトルさくや城。
そこへ、爆音社長の特注大型トレーラーが突っ込んできた。
「ただいまやでーーー!」
「ちょ、そこ曲がれんって言うたやん!」
「いける思うたんや!」
いけていなかった。
完全にハマった。
出られない。
押しても引いてもびくともしない。
「……これ、もう据え置き設備やな」
正式名称が決まった。
トレーラー洞
内部は便利だった。
外せないだけで。
湖側の開発は、静かに精密に進んでいた。
南東丘陵にロッジ群。
宿泊、備蓄、整備、医療、計測。
動線が整理され、役割が割り振られ、責任が共有される。
“遊び場”は、もう“拠点”だった。
トレーラーは湖水濾過ユニットを運び込み、生活基盤を完成させた。
迷子の功績は消えない。
探索ラボ前の朝礼。
師匠が立つ。
声はいつも穏やかだった。
「おはようございます」
それだけで姿勢がそろう。
「無理をしないこと」
「確認を怠らないこと」
「楽しめる余白は残すこと」
短い。
でも現場は回る。
「今日ちょっと長めやった」
「録音したいレベル」
録音は禁止だった。なぜか。
インフラ班は下水ラインを敷設していた。
見えないが最重要の設計。
「この勾配ええな」
「流れがスムーズや」
爆音社長が腕を組む。
「排水ってな、美しさあるんやで」
「社長、それ下水です」
「知ってる!」
言いたいタイプだった。
そこへ師匠が来る。
図面を見る。
一瞬だけ。
「ここ、もう少し緩やかにしましょう」
理由は言わない。
でも後で全員が理解する。
それが師匠の指示だった。
拠点の秘匿は徹底されていた。
迷彩壁。
葉のゲート。
光量制御。
静音工具。
ルート日替わり搬入。
そして観測班。
白衣。
双眼鏡。
記録ボード。
無言の集中。
「15時15分、屋根上」
「15時20分、空を見る」
「15時25分、微笑」
記録が細かすぎる。
スクラップ帳は分厚かった。
師匠は見て、ほんの少し笑った。
止めなかった。
優しさだった。
湖の拠点はもう“現場”ではなかった。
ひとつの機能体だった。
笑いがあり、
失敗があり、
改良があり、
誇りがあった。
泥だらけの手で地図を指すさくやたち。
師匠は少し離れて見ている。
手を出さない距離。
信頼の距離だった。
霧はまだ晴れない。
未知は残る。
だから進む。
師匠が言った。
「――次は、あなたたちの出番です」
静かな声だった。
でも、全員が動いた。
号令とは、音量ではない。




