■第152話 波乱の女子旅編 海と荒野
海は、思ったより喋らなかった。
でも波の音は、ずっと何かを言っているようだった。
ユーリはその意味を、まだ知らない。
■出港
翌朝、港に出ると船が一艘停まっていた。
白い船体に帆が一枚。さくやたちが普段使う貿易船より小さいが、四人で乗るには十分な大きさだった。
ユーリが船の周りをゆっくり一周した。船底を叩き、ロープを引っ張り、舵を回した。
「……ロープウェイのゴンドラより大きい」
「海の上を走るんやよ」さくやが言った。
「……沈まないのか」
「沈まへんよ。エレナに聞こうか」
「保証します」エレナがすかさず答えた。
帆を張り、船が港を離れた。朝の光が海面に散らばり、波がきらきらと光っている。風が帆を膨らませ、船がゆっくりと加速していく。
港が遠ざかった。陸地が小さくなっていく。気がつくと、四方が海になっていた。
レイナが船首に立ち、水平線を眺めた。しばらくしてスケッチブックを開いた。光の粒が散らばる海面、遠ざかる港、空と海の境目。手が静かに動く。
エレナは航路を確認しながら、風向きと波の高さを記録していた。
さくやが舵を握りながら言った。「気持ちええな」
「……広い」ユーリが船縁から海を見下ろしながら言った。
■ユーリと魚
しばらくすると、ユーリが船縁に張り付いた。
「……魚がいる」
「おるよ。釣り竿があれば捕れるんやけど」さくやが言った。
ユーリがすでに荷物をあさっていた。釣り竿を見つけると、湖で慣れた手つきで船縁に陣取り、糸を垂らした。
しばらくして、竿がしなった。
次の瞬間には二本目を垂らしていた。狩猟で鍛えた勘が、海の中の気配を読んでいた。竿がしなるたびに手首が動く。魚が飛び出す。素手で押さえる。また糸を垂らす。
「……ユーリ、早」さくやが呆れた。
魚が甲板に並んでいく。一匹、二匹、三匹。どれも大きかった。
レイナが甲板に並んだ魚をスケッチし始めた。エレナが魚の種類を調べていた。さくやは舵を握りながら遠い目をしていた。
昼を過ぎた頃、ユーリが網を見つけた。
「……これは何だ」
「投網やよ」さくやが言った。
ユーリが網を手に取り、しばらく眺めた。それから船縁に立って、一度だけ大きく振り回した。網が海面に広がって落ちた。
引き上げると、船が傾いた。
「重っ」さくやが叫んだ。
「……多い」ユーリが言った。
「多いどころやない、船が持っていかれるで」
レイナがくすりと笑った。エレナが魚の重量を素早く計算していた。
■屋台
昼前、甲板に屋台が出現した。
さくやが鉢巻きを締め、法被を羽織って網の前に立っていた。ユーリが捕った魚が、次々と網の上に並んでいる。脂が滴り、煙が潮風に混じって流れていく。
「いらっしゃい!海の幸、焼きたてやで!」
レイナ、エレナ、ユーリが思わず列を作った。
「……なんで屋台になってるんだ」ユーリが言った。
「雰囲気や」さくやが言った。
「理由になってないですよ」エレナが言った。
「細かいことは気にせんといて。ほら、焼けたで」
魚が一匹ずつ手渡された。ユーリが一口食べた。
「……うまい」
「やろ。雪山で食べるクマ肉とどっちがうまい?」
ユーリがしばらく考えた。
「……どちらもうまい」
「正解や」さくやが笑った。
レイナが食べながらスケッチブックを開いた。屋台のさくや、列に並ぶ三人、煙が潮風に流れていく様子。エレナが「記録帳を持ったまま並んでいるのは私ですか」と聞いた。「そうです」とレイナが答えた。「……正確ですね」とエレナが言った。
■四人の船上
食べ終わると、さくやが法被を脱いで甲板に寝転んだ。空が青い。雲が流れていく。
「ええな、こういうの」
エレナが隣に座り、航路の記録をつけていた。「このペースなら三日で未確認海域に入ります」
「楽しみやな」
「データが少ないので慎重に進みます」
「わかってる」さくやが目を閉じた。「でも楽しみやな」
レイナは船尾に座って絵を描いていた。波の形、帆の膨らみ、空の色。筆が止まらない。
ユーリは船縁に腰かけて、海面を眺めていた。波が揺れるたびに、目が動く。
「……ずっと見ていられる」
「海、気に入ったん?」さくやが目を閉じたまま言った。
「……雪山と似てる」
「全然ちゃうやろ」さくやが目を開けた。
「……どちらも、果てがない」
誰も何も言わなかった。波の音だけが続いていた。
■貿易ルートを外れて
夜になり、さくやが海図を広げた。
「貿易ルートはここやけど、今回は旅やから外れてみようか」
エレナが海図を覗き込んだ。「この方角に未確認の航路があります。データが少ないですね」
「面白そうやん」さくやが言った。
「リスクはありますよ」エレナが言った。
「わかってる。でも行ってみたいんや」
エレナがしばらく海図を見ていた。それから静かに頷いた。
舵を切った。船が新しい航路へ向かう。
星が出ていた。海面に星の光が揺れている。レイナが夜の海をスケッチしていた。ユーリはまた釣り糸を垂らしていた。
「ユーリ、まだ釣るん」さくやが言った。
「……夜の魚は別だ」
「そういうもんなん?」
「……そういうものだ」
さくやはため息をついた。レイナがくすりと笑った。
翌朝、空の色が少し変わっていた。雲の形が違う。エレナが空を見上げて、静かに記録をつけた。
■荒野
三日後の朝、水平線に茶色いものが見えた。
「……陸や」さくやが目を細めた。海図にない場所だった。
船が近づくにつれて、輪郭がはっきりしてきた。崖が続き、その上に広大な大地が広がっている。草も木もほとんど見えない。熱風が海の上まで漂ってきた。
「緑がないですね」エレナが静かに言った。
レイナが荒野を眺めた。しばらく黙ってから、スケッチブックを開いた。崖の稜線、褐色の大地、熱風に揺れる砂埃。手が静かに動く。
ユーリが釣り竿を置いて立ち上がった。荒野をしばらく眺めてから、静かに言った。
「……降りるのか」
さくやが荒野を見た。熱風が髪を揺らした。
「降りてみようか」
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