■第145話 白銀の冒険編 暖炉の前の話
語られなかった言葉は、ずっとそこにある。
誰かが聞いてくれる夜を、待ちながら。
火の前では、やっと声になる。
■雪山の奥で
雪山の奥は、別の世界のようだった。
人の気配がまったくない。風の音と、雪を踏む音だけがある。空気は刃のように冷たく、吐く息はすぐに白く消えた。
エレナは薬草を丁寧に布で包みながら、目を細めた。
「この気温帯でしか育たない種類です。三種類も見つかるとは思いませんでした」
抱えた荷物は、来た時より明らかに重くなっていた。それでも足取りは軽かった。
「……神々の庭のようですね」
レイナが立ち止まり、広大な雪原を見渡した。遠くの山々が夕暮れの光に輝き、雪面がオレンジ色に染まっている。両手を胸に当て、静かに目を閉じた。
「雪の精霊よ……この美しさをありがとうございます……」
「レイナ、また祈っとる。今日何回目?」
「……七回目です」
「数えてたんかい」
さくやはユーリの隣を歩きながら、トナカイの手綱さばきをじっと観察していた。
「ユーリって、トナカイにどうやって指示出してるん?言葉?それとも体で?」
「……両方」
「教えてくれへん?」
「……乗ってから覚えろ」
「乗ったことないねんけど!」
ユーリはそれ以上答えなかった。でも少しだけ、口元が動いた。
さくやはめげずに観察を続けた。手綱をどのタイミングで引くか、体重をどちらに傾けるか。ユーリの動きには無駄がなかった。
■そろそろ帰らないと
ユーリが空を見上げた。
「……そろそろ帰らないと暗くなる」
「もうそんな時間か!」さくやが振り返ると、山の稜線がすでに赤く染まり始めていた。
「さあ、三人とも乗れ」
ユーリがトナカイの背を叩いた。
「え、三人とも一緒に乗るん!?」
「文句があるなら歩け。暗くなってからでは道が消える」
「乗ります!」
三人が一斉にトナカイの背によじ登った。さくやが一番前、レイナが真ん中、エレナが後ろ。エレナは薬草の荷物をしっかり抱えたまま乗り込んだ。
「落ちるなよ」
ユーリがトナカイを走らせた。
雪原を蹴る音、風を切る音。白い粉が舞い上がり、三人の周りを包む。
「うわぁぁぁ!はやっ!たのしっ!」
さくやが両手を広げて叫んだ。
「……薬草が!薬草が落ちそうです!」
エレナが必死に荷物を抱え直した。
レイナは目を閉じ、口の中で何かを呟いていた。祈っているのか怖いのか、もはや区別がつかなかった。
村の灯りが見えてきた頃、さくやがユーリの背中に叫んだ。
「ユーリ!今の操作、ちょっと見えたで!」
ユーリは答えなかった。でも、トナカイのスピードが少しだけ落ちた。
■暖炉の前で
その夜、食事が終わると自然と暖炉の前に集まった。
クマ肉のシチューの温かさがまだ体に残っている。薪がパチリと音を立て、炎が揺れる。
しばらく誰も何も言わなかった。
ユーリが口を開いたのは、炎がひとまわり小さくなった頃だった。
「……話しておきたいことがある」
三人が顔を上げた。
「あたしたちが三十人になった理由だ」
■ユーリの話
「千人いた頃は、賑やかだった」
ユーリは炎を見つめたまま言った。感情を押し殺したような、静かな声だった。
「さくやたちと同じくらい。笑い声が絶えなかった」
「……ある夜、仲間が三人消えた」
炎が揺れた。
「翌朝見つかった時には……血を抜かれて、干からびていた」
さくやは息を呑んだ。レイナが胸を押さえた。エレナは動かなかった。
「吸血鬼だった」
「毎晩現れた。逃げても追ってくる。隠れても見つけ出される。毎晩、仲間の悲鳴が響いた」
ユーリの拳が、膝の上で小さく震えた。
「あたしたちは罠を仕掛けた。氷の洞窟におびき寄せて、地下水脈の水を一気に流し込んで凍らせた」
「でも……その戦いで、多くの仲間を失った」
「九百七十人」
数字が、炎の中に落ちた。
三人は何も言えなかった。
九百七十人。それがどれだけの賑やかさだったか、三人には痛いほどわかった。笑い声が、声が、温度が、九百七十人分消えたということが。
「氷の中に封じ込めて……しばらくは安心していた」
ユーリが続けた。
「でも、ある日……消えていた」
「洞窟に行ったら、氷だけがあった。やつの姿はなかった」
炎がパチリと鳴った。
「だから、あたしたちは探している。やつを倒すことが、生き残った三十人の使命だ」
■沈黙
誰も何も言えなかった。
レイナは手を組んだまま、目を閉じていた。エレナは炎を見つめたまま、動かなかった。さくやは膝を抱えて、ユーリの横顔を見ていた。
薪がまた音を立てた。
三人は、ゆっくりと頷いた。
言葉はなかった。でも、それで十分だった。
ユーリは炎に目を戻した。その表情は変わらなかった。ただ、少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
暖炉の火が、静かに揺れ続けた。
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