■第138話 師匠の拠点巡り編 橋の向こうの人たち
雪山は、遠くから見るより近くで見る方が静かだ。
音を吸い込んで、ただそこにある。
この拠点に来るたびに、師匠はそれを思う。
■北西の拠点の朝
湖の北西側に位置する拠点から、薄っすらと雪化粧した山々が見える。
師匠はコーヒーカップを手に窓辺に立っていた。澄んだ空気が、肺の奥まで入ってくる。
「師匠、おはようございます」
振り返ると、さくや主任が3人、小さな荷物を抱えて立っていた。
「本日はレイナとエレナから報告があります。研究室に来てほしいそうです」
「わかりました」
廊下を歩いていると、向こうからさくや主任が一人、明らかに重すぎる荷物を運んでくるのが見えた。
「重そうですね」
「これくらい平気やで〜!」
よろけていた。師匠は黙って荷物の半分を持った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
■研究室の二人
研究室に入ると、レイナとエレナが並んで資料を広げていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
ふたりが開発した新薬の説明が始まった。風邪の症状を和らげる天然成分を使った薬で、副作用が極めて少ない。エレナが数値を淡々と読み上げ、レイナが補足する。呼吸が合っていた。
「臨床試験のデータも素晴らしい。実用化が楽しみです」
エレナが小さく頷いた。レイナがほっとした顔をした。
「ひとつ聞いていいですか」師匠が続けた。「ふたりはいつからこの研究を?」
レイナとエレナが、ちらりと顔を見合わせた。
■回想 渓谷の薬草
エレナが海の拠点から北西の拠点に立ち寄ったのは、特に目的があったわけではなかった。
翌朝、拠点の周辺を散歩していると、渓谷のそばで足が止まった。
見たことのない草が、岩肌に張りつくように生えていた。
手帳を取り出して記録し、少し採取して、成分を調べ始めた。調べるほどに面白くなった。翌日も渓谷へ行った。また別の草を見つけた。
気づいたら、北西の拠点に居着いていた。
「海の拠点には戻らないんですか」さくや主任に聞かれたとき、エレナは少し考えてから答えた。
「まだ調べ終わっていません」
■回想 絵の具の話
渓谷に通い始めて数日後。エレナが紫色の小さな花を調べていると、後ろから声がした。
「その花、きれいな色ですね」
振り返ると、レイナが立っていた。じっと花を見つめている。画家の目だった。
「薬草です。解熱効果があります」
「この紫、絵の具に使えないかしら」
エレナは少し間を置いた。「……絵の具」
「ええ。この深い紫、なかなか出せなくて」
エレナは花と、レイナの顔を交互に見た。医学の話をしているつもりだったのだが。
「成分を抽出すれば、色素として使えるかもしれません」
レイナの目が輝いた。「教えてもらえますか」
それが始まりだった。
抽出の方法を教えるうちに、レイナは「この草の色はどこから来るんですか」「この成分が効くのはなぜですか」と次々に聞いてきた。画家が色の理由を知りたがるように、薬草の仕組みを知りたがった。
気づけばふたりで、毎朝研究室にいた。
■回想 おわり
「……という経緯です」レイナが静かに言った。
「最初は絵の具の話でしたね」エレナが付け加えた。
「今でも絵の具の研究も続けています」レイナが少し照れた顔をした。「でも薬草の方が、気づいたら深くなっていて」
師匠はしばらく考えてから言った。
「色を見る目と、成分を見る目は、案外近いのかもしれませんね」
エレナが静かに頷いた。レイナは窓の外の雪山をちらりと見てから、「そうかもしれません」と呟いた。
■橋の向こうの村
午後、師匠は北西の拠点の外れまで歩いた。
古い吊り橋と、斜張橋が並んで立っている。どちらも真っ白で、雪山の景色に溶け込んでいた。吊り橋は小さきものたちが最初に渡り始めた橋で、今も現役だ。斜張橋は師匠が構想し、さくやたちが設計して建てた。両岸にそびえる主塔が、霞の中にゆっくりと溶けていく。
「師匠の構想を図面にするの、最初は全然わからへんくて。何度も聞きに行って」さくや主任が橋を見上げながら言った。「爆音社長が材料を手配してくれて、うちらが建てて」
「覚えてますよ」師匠が小さく笑った。
「レイナたちが毎日渡るから、絶対丈夫に作らなあかんって、みんなで必死で」
師匠はしばらく橋を見ていた。自分の構想が、さくやたちの手で形になった橋だ。渡り心地はどうだろう、といつも思う。確かめる方法が、師匠にはない。
「いい橋になりましたね」
さくや主任が少し間を置いてから、「はい」と言った。
■橋のメンテナンス授業
翌日の研修所には、レイナとエレナ合わせて30人ほどが集まっていた。
「今日は橋のメンテナンスについて学ぼう」
師匠がホワイトボードに吊り橋と斜張橋の構造図を並べて描くと、小さきものたちが真剣な顔で見つめた。
「吊り橋とこの橋、どう違うんですか?」レイナの一人が手を挙げた。
「吊り橋はケーブルが上から吊って支える。斜張橋は主塔から斜めに張ったケーブルで支える。荷重のかかり方が全然違います」
「点検する場所も違うんですね」
「そうです。斜張橋はケーブルの張力と主塔の傾きが特に重要で、吊り橋は床板と主ケーブルの腐食を見る」
エレナが手帳に書き込んだ。レイナたちは顔を見合わせた。毎日渡っている橋なのに、知らないことばかりだった。
「点検はどれくらいの頻度で行うんですか?」
「3段階あります。目視での簡易点検を年に1回。5年に1回は詳細点検を行って、そのときに小さな補修もまとめてやる。再塗装は20年サイクルが目安です。海から遠いので腐食のペースは緩やかですが、雪の重さと凍結には気をつけて」
さくや主任たちが真剣にメモを取った。
その言葉に、レイナがぴくりと反応した。
■レイナの塗装案
翌朝、レイナが大きな紙を広げた。
「塗装計画を考えました」
全員が覗き込んだ。
吊り橋は虹色のグラデーション。斜張橋の主塔は深い青、ケーブルは金色。床板は朝焼けのオレンジ。余白にはレイナの手書きのメモが躍っていた。「映えます」。
しばらく沈黙が続いた。
「……きれいやけど」さくや主任がおそるおそる口を開いた。「金色のケーブル、何本あると思てんの」
「美しさは手間を惜しみません」レイナが静かに言った。
エレナが手帳を取り出した。少し計算して、顔を上げた。
「手作業での全塗装完了まで、約10年と4ヶ月です」
「………」レイナが固まった。
「20年サイクルで塗り替えるのに、塗り終わったらすぐ次の塗装ですね」さくや主任が遠い目をした。
「爆音社長に塗装機械を頼む手もありますが」師匠がやんわり言った。
「機械で塗ったら味がありません」レイナが即座に答えた。
「10年と4ヶ月、待てません」さくや主任が即座に答えた。
師匠は苦笑いしながら、ホワイトボードに新しい図を描き始めた。「では、現実的な塗装計画を一緒に考えましょう」
レイナはしばらく自分の計画図を見つめてから、静かに折りたたんだ。
捨てはしなかった。
■夜の湖畔
3日目の夜、師匠は湖畔の東屋で一人静かに過ごしていた。星空が美しく、湖面に月が映っている。
「師匠、こんなところにいたんやね」
さくや主任が小さなランタンを持ってやってきた。
「散歩ですか」
「師匠が一人でいるの見つけたから」
さくや主任たちが隣に座った。しばらく誰も何も言わなかった。
「レイナとエレナ、仲いいですよね」さくや主任が言った。
「そうですね」
「最初は全然しゃべらへんかったんですよ、エレナが来たばかりの頃。渓谷から帰ってきたら毎日どろどろで、何してるんやろって思てたら」
「薬草だったんですね」
「そうなんです。で、レイナが声かけて、気づいたらふたりで研究室にこもって」
湖面の月が、少し揺れた。
■最終日
一週間の最後に、研修の成果発表が行われた。
「目視での簡易点検を年に1回、詳細点検と補修を5年に1回行います」
「再塗装は20年サイクル。雪解け後の春が最適なタイミングです」
「斜張橋はケーブルの張力、吊り橋は床板の腐食を特に注意して見ます」
一人一人の発表を聞きながら、師匠はずっと黙って聞いていた。
最後にさくや主任が立ち上がった。
「師匠、一週間ありがとうございました」
それから小声で「ほんまに勉強になりましたわ」と呟いた。
師匠は笑った。
帰り際、研究室の前を通ると、レイナとエレナがまだ資料を広げていた。
「ありがとうございました」エレナが顔を上げた。
「君たちの研究です。私はほんの少し手伝っただけ」
エレナが小さく首を振った。「師匠の視点は、私たちにないものでした」
レイナが静かに頷いた。それから少し間を置いて、「塗装計画、また考えます」と言った。
師匠は何も言わずに、軽く手を上げた。
■橋の向こうへ
翌朝、師匠が荷物をまとめていると、窓の外に人影が見えた。
斜張橋の上を、レイナたちが渡っていくところだった。真っ白な橋の上を、小さな姿が霞の中に消えていく。隣の吊り橋が、風にゆっくりと揺れていた。
いつかあの橋に、レイナの色が入る日が来るかもしれない。
「次の拠点、どこにしますか」さくや主任が地図を持ってきた。
師匠はしばらく窓の外を見てから、地図に目を落とした。
「行きましょう」
橋の向こうに、まだ見たことのない景色がある。
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