■第135話 師匠の拠点巡り編 農園の恵みと甘い作戦
街は歩くたびに、少しだけ顔を変える。
雨の日も、晴れの日も、知らなかった路地がひとつ増える。
そうして街は、自分だけの地図になっていく。
■久しぶりの街へ
新体制が始まって数日。師匠は1か月の現場巡りに出る前に、まず街をゆっくり歩くことにした。
普段はオフィスと自宅の往復。街の風景を楽しむ余裕など、どこにもなかった。
久々に時間を気にせず歩けることに、心がふっと軽くなる。
■師匠とさくやの散歩道
「今日は街を歩こう」
師匠の言葉に、さくやがぴょこんと飛び出した。
「わーい!お散歩や!師匠、走ってもええですか?」
「走るのはちょっと……歩きましょう」
さくやにとって、街は別スケールの世界だ。タイルの目地が道路くらいある。植木鉢のふちが手すりになる。師匠の歩幅一歩が、さくやには十歩以上だ。
「師匠待って待って!」
ちょこちょことダッシュしながら、それでも追いついて、街角の花や看板に目をキラキラさせる。
「師匠、あのパン屋さん新メニュー出てますよ!あの看板、うちらより大きいやつ!」
「じゃあ今度寄ろうか」
「師匠〜、あの工事中の建物、設計したんですか?足場の一本がうちらの柱くらいあるで!」
「うん、来月完成予定だ」
師匠は自分が普通に歩いているだけなのに、さくやには冒険みたいに見えているらしい。それがなんだか、少し誇らしかった。
■定食屋と喫茶店
街歩きの後は定食屋へ。
「師匠、今日もいらっしゃい!」おばちゃんがにっこり顔を出す。
師匠の前にはアジフライ定食。さくやの前には……キャップほどの味噌汁椀、指ぬきサイズのご飯茶碗、爪楊枝よりちょっと太い箸。アジフライは親指の爪ほどだが、衣はちゃんとサクサクだ。
「わーい、いただきまーす!」
さくやが両手で抱えてかじりつく。
「おばちゃん、今日もサクサクや!!」
「そうでしょ、腕によりをかけて作ったんだから」
おばちゃんは自慢げに胸を張った。板前さんが「俺が揚げたんだけど」と厨房から呟いたが、誰も聞いていなかった。
昼食後はマダムの喫茶店へ。コーヒーカップの縁にちょこんと座ったさくやが、湯気をじっと見つめている。
「師匠、うちのカップ、お風呂みたいに大きいわ」
マダムが吹き出した。
膝の上で本を覗き込んださくやが、ページをとんとん叩く。
「師匠、このイラストみたいな建物、作れますか?」
「いつか作ってみたいね」
「絶対ですよ!約束やで!」
小さな手がぱちんと合わさった。
■雨の日の街
水曜日は雨だった。
師匠が傘を開くと、さくやは迷わずその端っこに潜り込んだ。
さくやの目線では、雨粒がビルくらいの高さから落ちてくる。水たまりは湖だ。側溝は川になっている。
「師匠、街が全部変わってるで!水たまりに空が映ってる!」
「そうだね、また違った表情が見られる」
「あの側溝、渡れますか?」
「それは無理」
さくやはじっと水の流れを見つめてから、「……確かに無理やな」と呟いた。
木曜も金曜も、毎日新しい発見があった。定食屋で昼食、喫茶店で読書。気づけば街歩きは、師匠の1週間にすっかり馴染んでいた。
■農園の恵み
街歩きの後は農園へ。50人のさくやたちが元気よく働いていた。
「師匠ー!イチゴ見てください!大きいでしょ!」
差し出された赤いイチゴを口に入れた師匠が、ふと動きを止めた。
「これは……本当に美味しいね」
「やったー!!」
リンゴ、ブドウ、次々に手が伸びてくる。
「さくやちゃん、ブドウ持ってきすぎ!」
「だって師匠に全部食べてほしいんですもん!」
師匠は笑いながら、もう一粒口に入れた。
■ケーキ屋店主の大作戦
農園に、毎日顔を出すようになった人物がいた。
街のケーキ屋の店主だ。
「師匠〜っ!」
「また来たの?」
「あの、新しいジャムのレシピを……」
そのたびに小声で何かを呟いている。さくやたちがそっと耳を澄ませると「師匠って素敵……」。
くすくす笑いが農園に広がった。
火曜は大きなかごを持参。水曜は雨の中に現れ。木曜は大量のケーキを差し入れ、金曜にはついに作業に加わった。
「師匠、土いじりって楽しいですね!」
泥だらけの手を見せる店主に、師匠が優しく笑う。その顔を見て、店主はますます赤くなった。
さくやたちは遠くから、にやにやしながら見守っていた。
■いい1週間だった
夕日が農園をあたたかく染める。
「みんなの技術も愛情も、本当に素晴らしいね」
さくやたちが胸を張った。
「明日からはどこの拠点に行きましょうか?」
「海の拠点!」「高地もおすすめ!」
師匠は遠くを見ながら、静かに微笑んだ。
そこへ遠くから声が飛んできた。
「あの、明日も来ていいですか……?」
「お店は大丈夫?」
「は、はい!大丈夫です!!」
週1回のつもりだった約束は、いつの間にか毎日の日課になっていた。
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