■第101話 小さきもの大航海編 白い原野と、眠る冒険者たち
氷は、すべてを映す鏡だ。
空も、足跡も、涙も。
そして——夢も。
■突然の助っ人
翌朝、船の中は妙な静けさに包まれていた。
外は相変わらずの白。地平線も空も境界がなく、世界がひとつの色に溶けている。
そこへ、甲板のほうから声がした。
「えー!!おるやん!!!」
さくやが叫ぶと同時に、船倉の扉が開いた。
現れたのは——真っ白でふわふわの大きな犬が三匹。
エレナの国で育ったサモエドだ。口角が自然に上がっていて、どこから見ても笑っているように見える。体はひとまわり大きく、しっかりとした足腰をしていた。
「この子たち、エレナさんとこの犬や……!」
「一匹で十人乗りのソリが引けるそうでござる」
「でしょ、頼りになるやろ!」
さくやが得意げに言うと、一匹がとてとてと近づいてきて、鼻先をそっと押しつけてきた。笑顔のまま。
リアンが毛布の隙間から顔だけ出して眺めていた。
「……笑っ、てる……」
片言だった。まだ寒いらしい。
■選抜、出発
選抜は三十人。ソリ三台に十人ずつ分乗し、北極点を目指す。
残るメンバーが見送る中、さくやが振り返って叫んだ。
「いってきまーす!!」
「気ぃつけてや!」「絶対無理したらあかんで!」「待ってるからな!」
声が白い空気に溶けていく。ソリが動き出した瞬間、世界は一気に広がった。
■白の行軍
最初の数時間は、まだよかった。
風は冷たいが、視界はきいている。地平線が遠く、空が広く、サモエドたちが雪を踏む「キュッ、キュッ」というリズムが気持ちよく聞こえていた。
「意外といけるやん」
「なめたらあかんでござるよ」
ジュウベェが言い終わるより早く、風向きが変わった。
瞬間、世界が閉じた。
吹雪が横から叩きつけ、視界が一メートルを切る。雪が針のように頬を刺し、息をするたび肺が冷える。サモエドたちの白い背中が、白い嵐にかき消されそうになる。
「……さっき何て言ったっけ、ジュウベェ」
「……聞こえなかったでござる」
■根性と敗北
「こういう時こそ根性でござる!」
ジュウベェが立ち上がった。吹雪の中、毅然と仁王立ちした。
強風。吹き飛んだ。
「でごぁ」
雪の中に綺麗に埋まった。サモエドが一匹、笑顔で覗き込んでいた。
「……生きてるでござる」
「それだけでええわ」
■クレバス
吹雪が少し収まった頃、地形が険しくなってきた。
氷原の下で、地割れのような裂け目が口を開けている。クレバスだ。一歩踏み外せば底が見えない。
サモエドたちはそれを本能で察知していた。慎重に足場を選び、時には大きく迂回して安全な道を探してくれる。
その時だった。
さくやの足元の雪が、音もなく崩れた。
「——っ!」
体が傾く。暗い裂け目が、すぐそこに口を開けている。
次の瞬間、首元に温かいものが触れた。
サモエドの口だった。一匹が跳躍して、さくやの襟元を咥えていた。笑顔のまま、しかし全身に力を込めて、踏ん張っている。
仲間たちが駆け寄り、引き上げた。
「……ありがとう」
サモエドはさくやの顔をひとなめして、また前を向いた。笑顔のまま。
さくやはしばらく、その白いふわふわの背中を見つめていた。
■白夜のキャンプ
夜——いや、白夜の空は薄く明るいままだ。
テントを張り、全員が身を寄せ合う。外は吹雪が唸っている。テントの生地を叩く風の音が、眠りを遠ざけていた。
そこへ、サモエドたちが入ってきた。
三匹とも、当然のように全員の間に割り込んで、丸まった。笑顔のまま。
「……あったか」
リアンが毛布の中でぽつりと言った。
「……この子ら、いっつも元気やな」
「不思議でござるな。この寒さでも笑っておる」
「笑顔が顔についとるんちゃうん」
くすくすと笑い声が上がった。
吹雪の音が遠くなった気がした。サモエドの温もりが、じわじわと体の奥まで染み込んでくる。
「……明日も行けそうや」
誰かが言った。返事はなかったけれど、全員がそう思っていた。
■最北端へ
翌日、空が晴れた。
視界が一気に開け、どこまでも白い平原が広がっている。その果てに、何もない。ただ地球の丸みだけがある。
足の指先の感覚はなく、会話は最小限だった。それでも、足は止まらなかった。
ジュウベェがまた立ち上がり、吹き飛ばされた。記録は七回になった。
「……GPSでは、あと少しでござる」
声に張りを戻そうとしているのが伝わった。
さくやが前を向いた。
「行こ」
それだけで、全員が立ち上がった。
■北極点
真っ白な景色の中、GPSが最北端の座標を示した。
「……ここや」
誰も叫ばなかった。しばらく、全員がその数字を見つめていた。
それから——
「ついたーーー!!!」
さくやが旗を取り出した。ʕ•ᴥ•ʔの旗を、両手で雪にしっかりと固定する。風にあおられながらも、旗は真っ直ぐに立った。
「……こんなところまで来るなんて」
リアンが毛布から顔を出して、旗を見上げた。目が赤くなっていた。
ジュウベェが包帯だらけの手で、静かに旗の根元を押さえた。
三匹のサモエドが、笑顔で並んでいた。
「そうや——師匠に連絡や!」
さくやが衛星電話を取り出した。画面が繋がる。小さな画面に、師匠の顔が映った。
「着きました師匠!最北の地です!旗、見えますか!」
「……うん。見えているよ。すごいな」
その一言で、張り詰めていたものが溶けた。声を上げて泣いた。
笑いながら泣いた。嬉し涙か寒さか、もうわからなかった。
■氷の影
帰る準備をしていたその時、吹雪が一瞬止んだ。
雪煙の向こうに、何か黒い影が並んでいる。
「……ん?なんやあれ」
岩かと思った。近づくと、岩ではなかった。
もう少し近づいた。
「……あれ」
氷だった。大きな氷の塊が、いくつも並んでいる。その中に、何かが——
「……っ」
小さきものだった。
何百もの、小さきもの。透明な氷の中に、静かに封じられている。
苦しそうではなかった。怖そうでもなかった。
ただ——誇らしそうだった。
「……来てたんや」
「……ここまで」
しばらく、誰も何も言えなかった。
リアンが毛布を少し下げて、その顔をじっと見た。
「……オレらと、おんなじや」
ジュウベェが膝をついた。言葉を探して、見つからなかった。
さくやは旗を持ったまま、動けなかった。
風が止んだ。雪片だけが、ゆっくりと落ちてきた。
そのとき初めて、青空が見えた。
氷の中の顔が、微笑んでいるように見えた。「お疲れ様」と、言っているように。
涙が頬を伝って、凍りついた。
「……頑張って、ここまで来てたんや」
さくやの声が、白い空に消えた。
同じ夢を見た、仲間たちへ。
同じ旗を立てたかった、冒険者たちへ。
遅れてきたオレたちが、代わりに立てておいたよ。
■帰路
「吹雪、また来る前に戻ろう」
誰かが静かに言った。
氷の小さきものたちに、最後の敬礼をした。
サモエドたちが静かに並んで待っていた。三匹とも、笑顔のまま。
帰り道、ソリの上でリアンがぽつりと言った。
「……来てよかった」
毛布にくるまったまま、でも目だけは、来た道をずっと見ていた。
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