■第99話 小さきもの大航海編 師匠の言葉
旅は人を変える。
でも、変わったのは旅人だけではなかった。
遠く離れた場所で、誰かの世界も変わっていた。
■ 北国の朝
三日目の朝も、雪が降っていた。
さくやが窓の外を眺めた。
街が白く輝いていた。
煙突から立ち上る白い煙が青い空に溶け込み、蒸気機械の音が遠くから響いてくる。
「……好きやな、この街」
「何が好きですか」
エレナが朝食のトレーを持って入ってきた。
今日も白いパン、ホットミルク、チーズ、ハム。
「全部好きやけど——なんか、丁寧やな。古いものも新しいものも、全部大事にしてる感じが」
エレナが微笑んだ。
「……この街の人は、捨てません」
「何を?」
「昔のことも、古いものも。全部、今に繋げます」
さくやがホットミルクを両手で包んだ。
「……師匠に似てるな」
「師匠?」
「うちらの師匠。古いものも新しいものも全部大事にする人や」
エレナが頷いた。
「……会いたいです」
「絶対気が合うと思う」
暖炉の前でリアンが毛布にくるまったまま言った。
「……パン、うまい」
「毎日それ言うてるな」
「……毎日うまいから」
「それはそう」
■ 冬の祝祭の準備
午後、街の広場に出ると、賑やかだった。
住民たちが協力して雪で大きな彫刻を作っていた。巨大な白クマの形だった。色とりどりの旗が建物の間に張り巡らされ、街全体が華やかな雰囲気に包まれていた。
「……なんかお祭りの準備してるな」
「はい」エレナが言った。「もうすぐ、一年で一番夜の長い日が来ます。その日に、光の祭りをします」
「光の祭り?」
「みんなでランタンを作って、街を灯します。暗い夜を、光で包む祭りです」
さくやが広場を見渡した。
あちこちでランタンを作っている人たちがいた。木を削り、紙を貼り、丁寧に仕上げていく。
「……うちらも作っていいですか」
「もちろんです」
エレナが材料を持ってきてくれた。
さくやが木を削り始めた。
ジュウベェが細かい部分を仕上げた。
リアンが毛布にくるまったまま見ていた。
「……リアンも作る?」
「……てつだう」
リアンが毛布から手だけ出した。
「……これでいい?」
「えらい」
三人が黙々とランタンを作った。
エレナが隣で一緒に作りながら言った。
「……さくやたちが来てくれて、よかった」
「うちらもよかった。来てよかった」
「北国に、外から来る人は少ないです。言葉も違うし、遠いから」
「でもエレナさんは一晩で日本語覚えたやろ」
「……それは、話したかったから」
さくやが手を止めた。
「話したかったから、覚えたの?」
「はい」エレナが静かに言った。「言葉がわからないと、伝えられないことがある。それが、嫌でした」
さくやが笑った。
「……エレナさん、すごいな」
「普通です」
「普通やないわ!!」
■ 師匠への報告
夜、現場監視システムに繋いだ。
師匠が現れた。
「こちら海の拠点。さくや、聞こえますか」
「聞こえます、師匠!」
さくやが報告を始めた。
「北の国に着きました。エレナさんという人に出会って——一晩で日本語を覚えてしまう天才で、しかも医者で、この国の医療技術がすごくて、薬も全部自然のものから作ってて——」
「落ち着いて」師匠が笑った。「順番に聞かせてください」
「すみません!!でもほんまにすごいんです!!」
さくやが一つ一つ話した。
氷山のこと。オーロラのこと。エレナとの出会いのこと。白クマのこと。街の蒸気技術のこと。医療施設のこと。薬のこと。貿易計画のこと。
「……北国の薬が、うちの拠点に来たら絶対助かる人がいると思って」
「そうですね」師匠の声が少し温かくなった。「よく気づきました」
「エレナさんも師匠に会いたいって言ってました」
「そうですか」
「絶対気が合うと思います!!」
師匠がしばらく黙っていた。
「……さくやさん」
「はい」
「報告を聞いていて——少し、昔のことを思い出しました」
さくやが黙った。
師匠の声が、いつもより静かだった。
■ 師匠の告白
師匠が話し始めた。
「毎日忙しくて、何のために働いているのかわからなくなっていた時期がありました」
さくやが無線機を両手で持ち直した。
「誰かのためでも、何かのためでもなく——気づいたら、ただ動いているだけになっていた。心が空っぽになって、毎日がグレーの絵の具で塗り潰されたような気分でした」
コントロールルームでは、爆音社長が黙って聞いていた。
レイナが静かに立っていた。
「……少し壊れかけていた時、あてもなくふらついた裏山で、君たちと出会った」
さくやが息を呑んだ。
「一生懸命で、無邪気で——毎日何かに驚いて、毎日何かを喜んでいた。一緒に暮らしていたら、気づいたら毎日が楽しくなっていた」
師匠の声に、温かさが滲んでいた。
「グレーのキャンバスに、君たちが明るい色を落としていくような感じでした。赤、青、黄色、緑——毎日、新しい色が加わって、世界が鮮やかになっていった」
さくやの目が潤んだ。
「設計の手伝いから始まり、農園を作り、街の人たちと繋がって、そして今は海に出た。北の国まで行ってしまった」
師匠が少し笑った。
「こんなことがあるんですね。毎日が驚きと発見で——ただ、楽しい」
「……師匠」
さくやの声が震えた。
「君たちと出会えて、本当によかった。ありがとう」
誰も何も言えなかった。
コントロールルームの爆音社長が、珍しく黙ったまま空を見上げていた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「……へえ。そうか」
それだけだった。
でも、その声には普段の豪快さはなかった。
静かで、柔らかかった。
師匠が言った。
「それじゃあ、この後も気をつけてね」
「……はい」
さくやが答えた。
「師匠も——元気でいてください」
「もちろんです」
無線が切れた。
さくやがしばらく無線機を握ったままでいた。
ジュウベェが静かに言った。
「……よかったでござるな。師匠に出会えて」
「……うん」
リアンが毛布の中から言った。
「……師匠、いい人やな」
「いい人やで」
「……会いたいな」
「帰ったら会えるよ」
「……帰りたい」
「帰ろう」
「……でも北国、好きになった」
「よかった」
リアンが毛布にくるまったまま、暖炉の火を眺めていた。
「……さむいけど、来てよかった」
炎が揺れた。
■ 出発の朝
翌朝、出発の準備が整った。
エレナが桟橋まで見送りに来てくれた。
手には小さな木箱が抱えられていた。
「……これ、薬です。持って帰ってください。師匠に」
「ありがとう、エレナさん」
「使い方は、この紙に書きました。日本語で」
「日本語で書いたの?」
「……昨日、書きました」
「一晩でまた何か覚えたんや」さくやが笑った。「エレナさん、ほんまにすごいな」
エレナが微笑んだ。
「……普通です」
「普通やないわ!!」
ジュウベェが一礼した。
「……必ずまた来るでござる。和服を持って」
「待っています」
リアンが毛布にくるまったまま言った。
「……オレも来る。暖かくなってから」
エレナが笑った。
「……暖かい季節も、きれいですよ」
「……楽しみにする」
船が動き出した。
桟橋にエレナが立っていた。
雪の中で、静かに手を振っていた。
「……エレナさん!!また来ます!!絶対来ます!!」
「……待っています」
エレナの声が、雪の中に溶けていった。
■ オーロラの中へ
船が港を離れた。
夜空にオーロラが出ていた。
緑と青と紫の光が、船の行く手を照らすように夜空を舞っていた。
さくやが甲板に立って空を見上げた。
「……きれいやな」
「きれいでござるな」
毛布ごと甲板に出てきたリアンが言った。
「……同じ夜は、ひとつもない」
「エレナさんの言葉、覚えてたんや」
「……覚えてた」
リアンが空を見上げた。
「……次はどこ行くん?」
「まだわからん」
「……楽しみやな」
「そうやな」
オーロラが揺れた。
波が船を押した。
さくやが前を向いた。
「……行こか」
「行くでござる」
「……いく」
船が、オーロラの光の中へ進んでいった。
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