第9話 小さな冒険 魚市場と大漁旗
パトロールには、一応「公式ルート」というものがある。
地図に引かれた線で、順路も時間も決まっている。
ただし――
それは、ネコが納得している場合に限る。
「……ネコ、左に行きたがってる」
「完全に力入れてる」
「はいはい、じゃあ左ね」
ネコ台車は、ぐいっと方向を変えた。
潮の匂い。
遠くから聞こえる声。
「……魚市場だ」
街の外れ、海に面したその一角は、
朝から威勢のいい声と金属音が飛び交う場所だった。
発泡スチロール。
濡れた床。
跳ねる魚。
どう見ても、
リトルさくやの好物が、あらゆる意味であふれている。
「ちょ、ちょっと見るだけやからな」
「台車、止めるなって」
「ネコ、待て」
──と言った数分後。
ネコ台車の上には、なぜか発泡箱が積まれ始めていた。
市場の人たちは、何も聞かない。
ただ、黙って、後ろに、横に、上に、箱を足していく。
「これはサバ」
「ほら、イワシ」
「それは……ま、何かや」
「持てるだけ、持って帰りや」
ニヤリと笑う、その顔。
台車が限界まできしみ始めると、
ネコたちは少し誇らしげに胸を張った。
「今日の晩ごはん……」
「すごいことになるよね」
「……しっぽが……サバか……」
市場の隣、漁港のほうから声が飛んできた。
「おーい!ちっこいの!」
振り向くと、筋肉、日焼け、声量。
すべてが過剰なおじさんが立っていた。
元気すぎる。
近い。
眩しい。
でも、その日は断れなかった。
「今日はな、ええ日や」
気づけば、
網焼きのサバ。
ぷりぷりのエビ。
ネコは食べすぎて、腹が丸くドーム状。
「……うま」
「……生きててよかった」
「ネコ、三回目やで」
おじさんが、ぽんと膝を叩いた。
「なぁ、船、乗ってみるか?」
一瞬の沈黙。
「……師匠に、聞かないと」
「ん……自由にしていいよ」
その返事が届いたのは、早かった。
というより、準備はすでに済んでいた。
ライフジャケット。
サイズぴったり。
海へ。
「風、つよ――」
「きゃーっ!」
「一人、飛んだ!」
師匠は知っていた。
これは“浮く”ためじゃなく、
“飛ばされる”ための装備だということを。
この日の漁は、イカ。
吸盤がぺたり。
墨で真っ黒。
「……足、八本じゃなかった気が」
「気にすんな、それ胴体や」
「うわあああ!」
それでも――
大漁。
「こんな日、久しぶりや」
「才能あるで、お前ら」
帰港後。
「何杯、持ってく?」
「えーと……1000人分です!」
「……ほな、50杯な!」
帰り道。
あまりにおいしそうで、
気がつけば、包んで、配っていた。
公園のベンチ。
商店街の角。
見えないように、そっと。
「シール、忘れんなよ」
「ʕ•ᴥ•ʔな」
気づけば、
イカは一杯だけになっていた。
「……ま、いっか」
「師匠分はあるな」
「もちろん」
その夜。
師匠のオフィスの屋上には、
長いテーブルと、
ネコが引いた照明。
「……できた」
イカ墨スパゲッティ。
もしゃもしゃ。
もしゃもしゃ。
「……おいしい」
「……最高」
ふと、誰かが笑った。
「……ちょっと待って」
「みんな……歯、真っ黒やで」
「ホラーや」
「笑うな、でも無理!」
笑いが広がる。
師匠も、くすっと笑った。
その夜、街のどこかで、紙に包まれたイカを見つけた人が、小さなシールに首をかしげた。
──ʕ•ᴥ•ʔ
街は、今日も少しだけ、優しく、そして不可解になっていく。




