傷痕
アルデバランがヘレナの傷痕を診始めたことで、初めてロゼアリアも彼女の状態を知った。それまでは何となく、視線を向けない方が良いような気がしていたのだ。
ヘレナの頬は傷痕のある場所だけが灰色にくすみ、ひび割れが走ったような模様が浮いていた。
「切られた部分だけエリューを奪われたのが原因だな。すぐに治せる」
アルデバランが傷痕から数センチほど離れたところに手をかざす。すると、端からゆっくりと灰色が消え始めた。ひび割れた模様も引いていき、健康的な肌色へと変わる。
全ての傷痕が消えるのに数分とかからなかった。何事もなかったかのように元通りになったヘレナの顔を見て、侍女達が感極まる。うち一人が侯爵夫妻に伝えるべく部屋を飛び出していった。
「ほら、これで十分だろ」
手渡された鏡をヘレナが恐る恐る覗き込む。頬には何もない。あの気味の悪い傷痕はどこにもなかった。
「わたくしの、頬が……」
信じられない、というようにヘレナが頬に触れる。鏡を見る度に目に飛び込んできたあの傷痕が無い。鏡を二度と見たくないと何枚も割り、見兼ねた侍女達が部屋から鏡を全て運び出した日がつい先日だった。
あの日からずっと諦めていたのに。
濃紫の瞳が揺れる。
「本当に、治ったの……?」
ヘレナは何度も頬に触れて確かめた。感触だって他の皮膚と何も変わらない。
「わ、わたくし……っ」
両眼に涙が滲んだところで、侯爵夫妻が飛び込んでくる。
「ヘレナっ!!」
娘の頬を見て夫妻の方が先に涙を流していた。
「良かった……っ! 本当に良かった……っ!!」
「ちょっ、お父様お母様! 泣きすぎですわ!!」
「──本当に、なんとお礼を申し上げたらいいか」
侯爵夫妻はもうずっとそればかりだった。
「言っただろ。俺は頼まれて来ただけだ。礼ならロゼにしてくれ」
そう言われても、ロゼアリアはアルデバランとフィグミュラー侯爵家を繋いだにすぎない。アルデバランがいなければヘレナの傷は治せなかった。
しかし、侯爵がロゼアリアの手を両手でガシッと掴む。
「ロードナイト姫君、本当にありがとう! 君は魔物に襲われた娘を救ってくれたと聞いた。二度もヘレナを救ってくれて、本当にありがとう」
「わたくしからも、お礼を申し上げます。この子を救ってくださり、本当にありがとうございました。貴女は伯爵様に似て、とても勇敢な騎士でいらっしゃいますわ」
過ぎる感謝だ。こっちは家の扉を蹴破ったというのに。
「貴女にお兄様を紹介してあげてもよくってよ? お兄様はまだ、婚約者選びに手間取っていらっしゃるみたいだし」
「大丈夫です。間に合ってます」
ふふん、と勝ち気な笑みを浮かべるヘレナはロゼアリアのよく知っているヘレナだった。前はそんな彼女の態度に苦手意識を感じていたが、今はそこまで嫌だとは思わなかった。
こっちの方がヘレナらしくて良い。
「あら、お兄様を断るなんてさすがは白薔薇姫様でいらっしゃいますわ」
「もしかしてヘレナ様は私を『お義姉様』と呼びたいのですか? そこまで親しく思っていただけるなんて」
「真冬の湖で泳ぐお義姉様なんか要らないわよ!!」
やはりヘレナの皮肉はちっとも怖くない。それどころかむしろ、愛らしさまで感じた。
いや、これは今までの皮肉とは違うだろう。ヘレナなりの愛情表現なのかもしれない。現にロゼアリアを見るヘレナの瞳に、憎悪や嫉妬といった感情は滲んでいなかった。
「では、そろそろ失礼いたします」
ヘレナの傷痕を治すという目的を達成したので、ロゼアリアとアルデバランは帰ることにした。何度も見送りを申し出されたが丁重に断った。慣れない場所で人間に囲まれるのはアルデバランにとって辛いはずだ。そろそろ解放してやりたい。
「喜んでもらえてよかったね」
侯爵邸の庭を歩きながら、ロゼアリアが隣を歩くアルデバランを見上げる。
「できることをやっただけだ」
「遠慮してるの? お礼くらい素直に受け取れば良いのに。アルデバランにしかできないことなんだから」
「そうだな。ロゼがここでやったのは扉を蹴破ることと紅茶とクッキーを食べてくつろぐことだもんな」
「う……ま、待たせたこと根に持ってるの?」
「別に」
アルデバランはいつも無表情だから怒っているように見える。だが、彼がそれくらいのことで本気で怒るような人でないことはもう十分に分かっていた。
「アルデバラン、扉直してくれてありがとう」
「あのままにするわけにはいかないだろ」
魔法で開けてもらうという考えは本当に出てこなかったのだ。アルデバランに頼らずとも、自分の力(物理)で開けられると確信していたから。
鼻歌交じりに歩くロゼアリアを、ふとアルデバランが見下ろす。
「……ロゼは良いのか?」
「え? 何が?」
歩みを止めたアルデバランを、数歩先を行くロゼアリアが振り返った。良いのか、とはなんのことだろうか。
聞く前に、彼の目が答えを言っていた。アルデバランが見つめる先は、ロゼアリアの頬にある傷痕。
あの時聞こうとしていた問いはこれだったのか。
何故だろう。今はすごく、アルデバランに傷痕を見られたくなかった。彼は傷があろうとなかろうとずっと変わらず接してくれていたのに、それで態度を変える人じゃないと分かっているのに、今はアルデバランから傷痕を隠したかった。
左の頬を庇うようにアルデバランから顔を背ける。
「あの娘を助けてロゼになんのメリットがある」
「……あるよ。ヘレナ様はロードナイトと同じ王太子派の貴族だし……」
「ロゼ個人になんのメリットがある。俺に頼んでまで治してやりたいほど大事な相手なのか? そうは見えなかったがな」
アルデバランは鋭い。感情や感覚ではなく、論理的な推測や根拠から積み上げて確信を得る彼は、逃げ場を用意してはくれない。そして彼の性格上、こちらの感情を読み取って気持ちに寄り添ったりしないはずだ。
「自分の傷と重ねたんじゃないのか。ロゼが救いたかったのは、あの時傷を負った自分じゃないのか」
淡々と詰めてくる。そこにロゼアリアがどう思うか、どう感じるかの配慮は一切無かった。
あの時とは真逆だ。ロゼアリアがアルデバランの罪と秘密を知ったあの時とは。ロゼアリアがアルデバランの心を暴いたように、今度はアルデバランがロゼアリアの心を暴こうとしている。
逃げられない。逃げることを彼は許してくれない。あの時のロゼアリアがそうだったように。
「ロゼは傷を消せるって提案を断ったが、本当は治したかったんじゃないのか? 治して、全部元通りにしたかった。けどできないと分かっていたから断った。だが、あの娘は違う。あの娘は、傷痕が消えれば元に戻れる。だから助けたかった。違うか?」
ゆっくりと、ロゼアリアが再びアルデバランを向いた。
「…………貴方も、この傷痕が醜いと思う?」
僅かに歪められた表情に滲むのは、恐怖。
白薔薇姫という仮面を失った時の恐怖。
打ち明けられずにいた秘密を無遠慮に暴かれる恐怖。
婚約者に裏切られた時の恐怖。
必死に築き上げた居場所が崩れ落ちた恐怖。
アルデバランにだけは嫌われたくないという、恐怖。
ロゼアリアのそんな表情を見るのは初めてだった。彼女が涙を流すところは何度も見ているが、それでも必ず立ち上がる子だった。次の日にはすっかり元気に笑い飛ばす子だと思っていた。
アルデバランがロゼアリアに近づく。ロゼアリアの数歩は、アルデバランの一歩で簡単に埋まってしまう。
「そんな風に思ったことは一度もない。ただ──」
そっと傷痕に触れる親指。塞がって、痛みなどとっくに消えてしまったそれを、アルデバランはガラス細工にでも触れるような手つきでなぞる。
「痛かっただろうな、とは思う」
顔が熱い。耳まで熱い。ただひたすらに、彼の冷たい指先だけが鮮明で。
「こっ、これあげる!!」
ロゼアリアはピアスの入った箱を押し付けた。
渡すタイミングは絶対に今じゃなかった。
魔塔に訪れた時に渡そうと思った。リブリーチェとオロルックがいる前で結局渡せなくて。ここへ来る途中の馬車で渡そうと思った。けど、いつ渡せば良いか迷ってるうちに到着して結局渡せなくて。
それでも、渡すタイミングは絶対に今じゃなかった。
心臓が弾けそうな勢いで脈打っている。俯いた顔を上げられない。
「これは……」
アルデバランが戸惑うのも無理はない。何かを渡すような話はしていなかったのだから。
「り、リブには渡したんだけど、アルデバランには渡せてなくて! 星祭り、星祭りの贈り物! 友達にもあげるのが普通だから!!」
何を言っているのだろうと自分で分かっていても、止められない。何か話したり行動していないと頭がおかしくなりそうで。
だってあんな風にアルデバランから触れられるとは思わないじゃないか。
「……開けてもいいか」
「う、うん」
贈った物を目の前で開けられるのはなんだか恥ずかしい。気に入ってもらえなかったらどうしようとドキドキした。
「うん。悪くないな」
アルデバランがピアスを手に取る。日の光を浴びてゆらゆらと輝く赤い石は、やはり彼の瞳によく似ていた。
気に入って、もらえたのだろうか。
そう尋ねようとした矢先、アルデバランがピアスを付け始める。魔法ではなく、自分の手で。
「いっ、今付けるの?」
「付けて使うもんだろ」
「そうだけど」
天球儀のデザインにして良かった。アルデバランの耳元で揺れるそれが、やけに艶めかしくて。
「……他にも、星屑みたいなキャンディーをお土産に買ってたんだけど……星祭りの初日に買ったものだから、今度別のあげる」
「飴なら腐るもんじゃないだろ」
「腐ってなくてもだめ」
傷は、治さなくて良いと思った。このままで良いと。だってこの傷のおかげで、今、彼とここにいられるのだから。
「……ね、明日の夜のランタン飛ばし、アルデバランも一緒に行けない?」
尋ねてみれば、アルデバランが少し考える。やはり断られるだろうか。
「んー……まあ、問題はあらかた片付いたしな。別にいいぞ」
「ほんと!?」
承諾してもらえるとは。星祭りこそ一緒に過ごせなかったが、アルデバランとランタン飛ばしに参加できることに嬉しさのあまり飛び跳ねそうだった。




