洞窟 The Cave
意識を取り戻したサウロンは、暗がりで目をこらした。目の粗いブライズとシャツだけの下着姿で、おまけにずぶ濡れだ。身体が冷え切って身震いが止まらない。
上半身を起こした瞬間、吐き戻した水が口元から溢れ出た。少年は身体をかがめて激しく咳きこみながら、何度も大きく喘いだ。ようやく普通に呼吸ができるようになると、記憶が急速に蘇った。
「渓流で溺れかけて、エメラルドフォールズから落ちた・・・シンクホールに呑まれたんだ!」
生還した者がいないことから「帰らざる滝」とも呼ばれている。自分が生きているのが不思議だと思う反面、ここから出られるのだろうか、と少年は不安に駆られた。
辺りは濃密な闇に閉ざされ、滝の轟音が遠く響いて、ひたひたと緩やかに渦を巻いて流れ去って行く水音が周囲を包んでいた。暗がりに目が慣れるのを待って、少年は周囲を見回した。
どうやら奔流から脇に入った洞窟のような場所に流れついたらしい。坐っている場所は、水面から一メートルほどの高さで、なだらかな丸みを帯びた固い台地の上だった。どこからか微かな光が射しているらしく、頭上に洞窟の天井が薄っすらと見えた。
手を着いて立ち上がろうとした瞬間、奇妙な感触に思わずビクッと身震いした。
なんだろう?
手探りで地表を撫でまわした。十センチほど堆積した湿った土砂の下に、ツルツルと固い奇妙な地面が広がっている。
刀の表面のような感触だ!滑らかで鉄のように冷たいし、拳で軽く叩いてもはじき返されるほど固い。なんとも妙な岩だ・・・
黒曜石を磨くとすべすべになるが、こんな巨大な物は見たことがなかった。
サウロンはふと目を凝らした。岩の中から仄かな光が射していたのだ。両手で表面に溜まった土砂を拭ってゆくと、目に入ったのは直径一メートルほどの丸く淡い光だった。
「なんだ、この光は?・・・岩の中が光るなんて!」
不思議なこともあるもんだと、膝をついて仔細に眺めた。軽く叩いてみたが、岩はビクともしない。好奇心に後押しされた少年は立ち上がって、試しに右足で光輝の真上を蹴りつけた。
その刹那、唐突に岩の床が抜けた。
「うわッ!」
少年は泡を食ったが、敏捷に身体のバランスを取って両足から着地した。本能的に膝を曲げて衝撃を和らげ、狩人の習い性で姿勢を低く保って辺りを見回した。
そこには、見たことのない不思議な光景が広がっていた。
そこは高さ二メートル、奥行き三メートルほどの四角い部屋だったが、壁も床も石でも木でもレンガでも鉄でもなかった。およそ知り得る限りのどんな素材ともかけ離れた、光沢のある硬質の床の滑らかな感触に、少年は驚きのため息をもらした。
「これは岩じゃない!人工物だ!」
上を見上げると抜けたはずの天井は、いつの間にやら元に戻っている。少年と共に床に落ちた土砂がなければ、天井が開いた形跡はどこにも残っていない。部屋中キョロキョロと見回したが、出入口に付き物の取っ手もノブも閂も見当たらなかった。一面がのっべらぼうで、深い群青色の壁と床と天井だけだった。
「参ったな・・・どうやって出るんだ?」
閉じこめられたようにも思えたが、好奇心旺盛な少年は、もはや先のことなどさほど気にかけなかった。冷え切った身体のことも忘れていた。希望が湧いて、恐怖に打ち勝ったのである。
人工物ならどこかに出入口があるはずだ!
用心深く壁に沿って歩いて、じっくり辺りを観察した。何より不思議なのは、どこにも松明や蝋燭がないのに、部屋全体が昼間のように明るいことだった。
と、目の前でいきなり壁の一部が音もなく開いた。サウロンは本能的に後ろに跳び退って身構えた。
な、なんだッ!誰かいるのかッ?
恐る恐る隣り合った小部屋の中を覗きこんだ。が、やはり薄っすらと明るい部屋の中に人の姿は見当たらない。
どこにも扉がないのに、どうやって開いたんだ?見たところ、中には誰もいないようだが・・・
サウロンの目は、想像を絶する不思議な部屋に釘付けになった。少年が落下した部屋より一回り広い。正面の壁の手前には、明らかに椅子のような背もたれがあった。やはり知る限りのどんな素材でもなさそうだ。四方の壁には、奇怪なボタンのような出っ張りや平たい板がいくつも埋めこまれている。
「なんなんだ?この妙ちくりんな部屋は?赤や黄色や青に光っている小さな物体はなんだ?どうして光ってるんだ?」
ますますもって不思議千万だ!
想像を絶する謎めいた光景に唖然とした少年は、物珍し気にキョロキョロ辺りを見回した。誰もいないので警戒心が緩んだが、ふとその視線が止まった。
部屋の片隅に、横に間延びした卵のような丸い立方体が置かれていた。壁や床と同じ深い群青色で滑らかな材質でできている。
突然、その楕円形の物体がまるで律動するように、緩やかに青い輝きを増したり減じたりし始めた。少年は引き寄せられるように物体に歩み寄った。
リズミカルに明滅する淡い青の輝きは、立方体の中から射している。不思議と眩しくはない。そっと上から覗きこんだ少年は仰天してビクッとすくんだ。この場所の天井や壁と同じように、いきなり立方体の「蓋」が滑るように開いたのだ。
反射的に身を退けようとした刹那、耳元で轟いた朗々とした声に、サウロンは凍りついたようにその場に立ちつくした。
紛れもないイタリア語で男性のバリトンだったが、正確には言葉ではなく、頭の片隅で、これは普通の声ではないと感じていた。
「我が同胞を探し出すのだ。そして伝えるのだ、これを・・・」
少年は頭の中に直接届いた響きに圧倒された。その場から逃げ出そうとする本能的な衝動も湧かないほど、我を忘れて聞き入った。
それほどまでに「声」は厳かで力量に溢れていたのである。
「声」の主は光の繭から手を伸ばした。それは淡い青い輝きに包まれ、人間の手のようでもあり、そうではないようにも見えた。濡れそぼった黒い蓬髪にその手が触れた時、もはや抵抗はおろか警戒心さえ失ったサウロンはなすがままだった。
直後に全身を青い光が包みこんだ。少年は驚愕した。茫然自失して自分の体を見回したが、頭の中は空白になり、何が起きているか考えることさえできなかった。
「お前が来た場所へ戻るがいい。時が至ればお前は目覚める。何をすべきか自然に分かるだろう。それまで、すべて忘れるのだ」
力に溢れた「声」は唐突に途絶えた。同時にサウロンの全身を包んだ光が眩く輝いた。思わず目を閉じた瞬間、少年は身体が揺らぐほどの戦慄を覚えた。
「・・・兄上、兄上~ッ、しっかりしてッ!!目を覚ましてェ~!」
揺さぶり起こされた少年は、ぼんやりと青い目を見開いた・・・
目を開けた大滝は。瞬間、周辺を見回して敵の姿を探した。目を開く前に周囲の気配を探る条件反射が、今日に限って働かなかったが、それにも気づかないほど気が動転していた。
物事に動じないこの男の心胆すら寒からしめるほど、今しがたの夢は鮮烈だったのである。およそ自己分析には縁のない行動主義者だが、その大滝にとってさえ、二度目の明晰夢は心の琴線に痛烈に響いたのだった。
部屋に人影はなかったが、大滝はひどく面食らった。まったく見覚えのない場所だったのである。清掃用ロボットが数台に、洗剤や消臭剤の容器が並んだ棚が目に入った。
どこだ、ここは?
素早く立ち上がり油断なく眼を光らせたまま、スーツの上下を丹念に触って、盗聴器や紛失した所持品がないか探った。ホログラスもイヤ・モジュールも軍用IDもすべて揃っていた。その動作で連想記憶が蘇った。
ホログラスとイヤーモジュールを外した。靴も脱いだ覚えがあるが・・・そうだ、カウンセリングだ!
大滝は眉をひそめて唸った。
「おかしい。途中から記憶が空白だ・・・」
目論見通り、例の大学生の姉、深山貴美の面談を受けた。いくつか質問された場面まではハッキリ覚えているが、その後はまったく思い出せない・・・何があった?
しかし、大滝は時間を無駄にしなかった。人混みのざわめきがひっきりなしに聞こえている。慎重にドアに近づいてノブを回してそっと開いた、今時珍しくスライド式ではない。
ここは・・・メガロポリス中央駅だ!さては清掃用備品室か。
大滝は驚愕した。思わずいったんドアを押し戻して閉めた。気持ちを鎮めようと備品室の壁にもたれ、腕を組んで必死に記憶を探った。
覚えてない!どうして、俺はここにいるんだッ!?
記憶が空白になった経験はかつてない。明らかに何かがおかしい。
さっきの妙な夢と関係があるのか?あれは夢の続き、いや、欠落していた部分だが、そうとはっきり分かるぐらい鮮明だった・・・
大滝はふと目を見開いて、低くつぶやいた。
「汚染地帯にいたのはあの女か?だとしたら接触は二度目だ・・・さては、あの女が明晰夢の原因か!」
直感的に正解が閃いた。
確かな手がかりをつかんだとなれば、これ以上考える必要はない。行動が先決だった。
再度、衣服と身体中を探って、盗聴デバイスの有無をチェックした。首の後ろや背中に貼り付けられていれば、手探りでは分からないが、それなら近距離盗聴で尾行者がつく。連中を見分けるのは、大滝には造作のない仕事だ。
「とりあえず基地に戻るまでだ!」
思い定めると、抜かりなく目を光らせ備品室から抜け出し、雑多な人々が行き交う構内に足を踏み入れた。体調に異常はない。
巨体に似合わぬ滑らかな足取りで、一日に五十万人が出入りする世界有数の巨大ステーションの人混みに紛れこんだ。




