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ヤンキースタジアム Yankee Stadium

 ニューヨーク州マンハッタン島の南端、ロウアー・マンハッタンに位置する押しも押されぬ世界最大の金融街、ウォール街には裏の顔がある。

 地震のないこの地区の金融機関には、戦火による焼失や略奪を避けるため、中東の超大富豪たちがこぞって現金や金、証券に貴金属類を預け入れた歴史があった。だが、元はと言えば、資源簒奪と軍需景気を狙って、中東で終わりなき戦争や紛争を陰で演出したのも、ウォール街を陰で動かすハゲタカたち、すなわち、冷血な投資家や軍事産業経営者とそのロビイストや政治家だったのである。


 納税者の多くは、肥大化した軍事予算から甘い汁を吸う彼らの存在にとっくに気づいている。

 しかし、一度(ひとたび)巨大化した核や軍事産業の裾野はとてつもなく広い。多くの国民がその裾野でつましい生活を営む現実は如何ともし難い。

 巨大な権力が敢えて手を下さずとも、抗議の声は目先の生活に追われる仲間の圧力で、内側から分断され押し殺されてしまうのだった。巨大利権構造の現実に直面した時、人はともすれば勝ち組につこうと開き直ったり、心のどこかで超富裕層のような贅沢な暮らしを望んだりする。


 こうして世界は凡庸な貪欲に支配されたまま、同じ悲劇を延々と繰り返している・・・



 超人気カードの金曜ナイターとあって、ウォール街の北約二十キロに位置するヤンキー・スタジアムは詰めかけたファンでごった返していた。マーカス・メトカーフはベースボール好きだが、独りでスタジアム観戦するほど熱狂的なファンではない。二十二世紀末の現在、再び治安が悪化したブロンクス地区に出向いたのには理由があった。


 ここならCIAも尾行はできまい。メッセンジャーは実に賢い・・・どうやって出入りしているかは不明だが、ヨガ教室のロッカーに紙の暗号メモを入れるとは。何ともアナログな方法だが、ハッキングの恐れがないのが利点だ。

 新たに受け取ったメモに添付されていたのは、インターリーグの地元対決、通称「サブウェイ・シリーズ」ヤンキース対メッツ戦の指定席チケットだった。MLBは伝統を頑なに守り、いまだに紙の入場券を販売している。メッセンジャーが現金で購入してメトカーフに渡せば、足がつく恐れもなかった。


 プレイボール前のバックスクリーンには、ヤンキースの歴史的映像が流れていた。高々と舞い上がって右翼外野席に落ちたホームランと、無表情にベースを一周する背番号55の姿が映った。


【 2009年ワールドシリーズ。日本人大リーガー、ヒデキ「ゴジラ」マツイ、シリーズ六割超の打率と三本塁打。最終戦では六打点をマークしてMVP獲得!】

 

 日本人プレーヤー、初のワールドシリーズMVPか・・・第二戦の本塁打は実に見応えがある。膝下に鋭く逸れた高速カーブを、片手一本ですくい上げるとは、まさにゴジラだ。

 いや、勝ち誇った様子も見せず淡々とした姿は、敵や敗者にも敬意を忘れないサムライと言うべきか?日本人らしい控えめな態度は、自然に周囲の尊敬を集めたことだろう。

 映像が鮮明でちょっと見は分からないが、今から二百年近く前だ。デジタル技術が確立した頃か?・・・

 親日家のメトカーフが感慨に耽っていると、突然、女の弾んだ声が響いた。


「あらッ、メトカーフ教授!?驚いたッ、お久しぶりです!」

 隣のシートにやって来た三十台の女性が声をかけた。

「メリンダ、君か!?奇遇だな~、こんなところで会うとは!」

 軽くウェーブした黒髪にクリッとした黒い目、鼻筋が通ってえくぼが印象的な色白の小顔を目にして、メトカーフはかつての教え子をすぐに思い出した。

「すごい偶然ですね、教授!あれから、もう十年になりますわ」

「教授はやめてくれないか?たまたま招聘されて、非常勤講師を務めただけだんだ。しかも、君は今や国務長官の首席補佐官だ」

「先生の高度プロファイリング講座のおかげですわ!政界入りを勧めて下さったのも先生でした」

「そうだったな・・・政府高官で妙齢の女性が独り一般席で観戦するのはなぜか?また、講義を受け持つ機会があったら、是非ケーススタディに取り上げたいぐらいだ」

 メトカーフが冗談を飛ばすと、メリンダは明るく笑った。

「とっくにお見通しでしょう?わたし、ストレスが溜まって大声で叫びたくなると、ここへ来るんです!」


 メトカーフは、元気づいたメリンダが取り留めもなく話すに任せて、じっと聞き入った。

 大佐がセキュリティレベル7をクリアした軍諜報参謀と知るメリンダは、個人的に信頼する「教授」に心を許している。副大統領、国防長官、CIA長官、ダレス補佐官の共謀を疑わせるプロファイリングに悩んでいる、とそれとなく匂わせた。

 辺りは熱狂的なファンの歓声や罵声が飛び交い、盗み聞きされる心配はなかった。しかし、メトカーフはメリンダが現れる前に、既にバグ・フィルターのスイッチを入れていたし、突然の再会にも全く驚いてはいなかったのである。


 話の途中でさりげなく左手を伸ばして、メリンダの右手首を握った。メリンダは訝し気に首を(かしげ)げてメトカーフを見つめた。が、明敏な補佐官はすぐさま大佐の意図を察した。

 マーカスはわたしがレズビアンと知っている。十年前にあっさり見抜かれた。だから、口説くつもりじゃないわ!

 メトカーフが右手で上着の内ポケットを探り、バグ・フィルターを取り出して見せると、メリンダは無言でIDブレスレットを取り外した。

 すでに機能停止した盗聴ワームがポロっと外れて、形よく揃えた両脚を包むスカートの上に落ちた。弾力性に富む薄い形状記憶合金で造られた精巧なワームだった。メリンダはワームを指先で摘まみ上げ、メトカーフが開いたバグ・フィルターに落とし込んだ。

 約二メートル圏内なら機能を停止させられるものの、自走機能のないこの手のワームは、バグ・フィルターでは捕獲できない。


 メリンダが大佐の耳元でささやいた。

「わたし、盗聴されていたんですね?仕こまれたのは・・・ホワイトハウスだわ!閣僚会議室に入る前に、デジタル機器はすべて預ける決まりなのです」

 メトカーフも声をひそめた。

「君が共謀に気づいたと彼らは知っている。闇雲に動いたら最後、君やご家族に危険が及ぶかも知れない。しばらくの間、慎重に行動してほしい。事情は追って話すつもりだが、私は君の味方だ。とりあえず、連絡手段を決めよう」

 メリンダはじっとメトカーフの目を見つめて、やおらえくぼを浮かべて微笑み。首を縦に振った。

「どうしてご存じなのかはお尋ねしません。でも、事情はともかく大きな借りができました。ありがとう、マーカス!」

 ここで出会ったのは偶然ではないのね・・・

 メリンダは鋭く察していた。しかし、メトカーフの人となりを承知しているだけに、性急に詮索するような真似はしない。


「盗聴器が停止したから、相手は別の手を打ってくる。それを利用しよう。ところで、君はヨガに興味があるかな?好物のピザの宅配でもいいんだが・・・」

 メトカーフが目じりにいかにも人の好さそうな皺を寄せて笑顔を見せると、メリンダも微笑んだ。そして、無言でそっと頭を大佐の肩にもたせ掛けた。

 十年前、メトカーフは自らパートナーとなって、互いを知り尽くすほど集中的にメリンダにプロファイリングを教えこんだ。統合参謀本部と政権中枢と今では立ち位置こそ違うが、あの当時培った信頼関係は微塵も損なわれていない。

 マーカスが女だったら、否応なしに惚れてしまいそう、と密かに思う。

 それも見抜かれてるわ。だから、この人と居ると気が楽なの。素のままの自分でいられるもの。


 メッセンジャーは、電磁パルス爆弾開発にまつわる不穏な動きをメトカーフに伝え、メモの最後をこう締めくくっていた。

「ダグラス補佐官のIDの裏に、形状記憶型盗聴ワームが仕掛けられています。無力化したら、バグフィルターは補佐官に預けてください」

 スタジアムの熱狂と喧噪をよそに、メトカーフの灰色の目は穏やかに澄み切っていた。長年の諦念の色は消え去り、明るい希望の光が浮かんでいる。

 過去数世紀に渡って、欲しいがままに世界を動かして来た巨大利権の魔の手に、ついに対抗し得る力を持つ者たちが立ち現れたようだ。

 あの謎の鮮明夢も彼らと繋がっているに違いない。私は命を懸けて新人類を支援する!


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