人食い熊 Man-Eater
少年は薄手の狩猟服を身に纏い、弓を片手に森の中を駆け抜ける。汗にほつれた黒髪の陰から、澄んだ碧眼で鋭い視線を辺りに巡らせ、一心に獣道を辿って渓流に向かってひた走った。
森が開けて渓流が見えてくると、野生動物の水飲み場となっている淀みに近づくにつれ速度を落とし、足を忍ばせて森蔭からそっと様子を窺がった。
美しい牝鹿が時おり頭を上げ周囲を警戒しながら、澄んだ水に口をつけている姿を目にして、少年の顔にしめたと笑みが浮かんだ。
背中の矢筒から素早く矢を抜き取り、姿勢を低く保って草むらを縫って足音を忍ばせる。風下に回り射程距離まで近づいて片膝をついた。矢を弓につがえて狙いを定めキリキリと引き絞った。が、次の瞬間、少年の目が曇った。
「小鹿が一緒か・・・」
と、つぶやき、弓を引き絞った腕を緩めて、失望と安堵が入り混じったため息をついた。
鹿の母子が寄り添って喉を潤す微笑ましい姿に、しばし見とれていた少年は、突然、背後から響いた微かな葉擦れの音を耳にした瞬間、振り向きもせず反射的に前方へ跳んで、一目散に駆け出した。
気配を悟った鹿の親子は敏捷に身をひるがえし、渓流から離れてあっと言う間に森の中へ跳びこんで姿を消した。
大型の熊は鹿の親子には目もくれず、巨体に似合わぬしなやかな走りで少年の後を追う。時速五十キロを超えるスピードで、見る見るうちに距離を詰めてゆく。
「くそッ、油断したッ!」
少年は口走ると、走りながらチラッと左肩越しに後ろを振り返り、背後十メートルまで迫った熊に向かって、右手の弓を左脇の下から放り投げ、腰に差した三日月刀を握った。
弓が顔に当たった熊は、戸惑って速度を落としたが、急流が目前に迫って少年は決断を迫られた。
立ち止まって振り返ると、巨大な肉食獣に対峙する。
威嚇して追い払えるだろうか?
一縷の望みを託した少年の手には、ずっしりと重い短刀が握られていたが、目の前で立ち上がった熊は身長二メートル以上、体重も二百五十キロはありそうなヒグマの雄の成体だった。太い爪が生えた片手の一撃で、少年の頭部は血しぶきを上げて吹き飛ぶだろう。
こいつは人食いだッ!
冬眠し損なってイタリア・アルプスから迷いこんだ個体は凶暴で、ひとたび人間の味をしめるとマンイーターと化すと言われている。最近、立て続けに北方の村人が襲われ、王家でも警戒を呼びかけていたのだが、少年は対岸の火事と気にも止めていなかったのである。
絶対絶命の危機に瀕した少年の脳裏を宰相の言葉がよぎった。博識なプロスペロは、古今東西の戦術家の言葉を、折にふれて少年に聞かせてくれる。
「若君、咄嗟の場合は逃げるか戦うかしかありませぬ。迷ったら終わりです!」
少年は瞬時に決断した。
三日月刀を握り直して、牙を剥いて襲いかかってきたヒグマの右眼目がけて全力で投じると同時に、身をひるがえして矢筒を投げ捨て、躊躇なく渓流の深み目がけて思いっきりダイブした。
浅瀬でもたもたしていては、熊に追いつかれてしまう。
春とは言っても、アルプスの雪解け水を含んだ急流の水は、氷のように冷たくショックで心臓が止まりそうだった。
しかし、少年は慌てなかった。一気に押し流されながらもバランスを取り戻して、岩にぶつからないよう目を見張った。
深々と水中に沈んだ身体を丸めると、靴とズボンと狩猟服を器用に脱ぎ捨ててから、流れに沿って浮かび上がった。
靴や服を着けたままではたちまち疲労困憊して溺れると知っていたのだ。
急激に体温を奪われた身体が凍えて、とめどなくガチガチと歯が鳴る。水面に浮かび上がると激しく喘いで、立ち泳ぎしながら回りを見回した。
幅が三十メートルほどある流れは、真っすぐ南へ向かっている。
まずいな、この先はエメラルド・フォールズだ!
流れが速くなってゆくにつれ、轟轟と鳴る滝の音が次第に大きく響いてくる。
少年は反対側の岸を目指して横泳ぎで水を掻いたが、凍えた身体では力が入らず思うに任せない。ようやく岸に近づいたかと思えば、ところどころに顔を出す大きな岩で気まぐれに渦を巻く水流が、少年を一気に押し戻す。
おのれッ、このまま死んでたまるかッ!!
少年は敗北を肯んじない生まれついての闘士だった。
逃げるのは決して恥ではない。だが、戦うしかない状況で自ら諦めてしまうつもりは毛頭なかった。
死に物狂いで水を掻いて岸辺に近づこうとしたが、やがて冷たい流れと疲労で身体が重くしびれてきた。
ち、力が入らない・・・
ついに奔流にのまれて、頭が水中にすっぽり沈んでまった。
このままでは滝に落ちる前に溺れてしまう・・・こうなったら、運を天に任せよう。
突如として、思いがけなく気持ちが切り替わった。
「もはやこれまで・・・」
頭をよぎった諦念は、不思議なほど清澄で穏やかだ。
少年は足掻くのを止めて辛うじて水面に頭を上げ精一杯息を吸い込んだ。仰向けに浮かんで激流に身を任せた目に、鮮烈なまでに彩り豊かな新緑の樹々と、深く真っ青な空が映った。
死ぬ間際はこんなふうに鮮やかに見えるのか?
そんな感慨がふと胸をかすめる。
「父上、母上、ニムエ・・・」
と、つぶやいた少年は観念して目を閉じた。
身体がフワッと宙に浮いた・・・
轟轟と音を立てて流れる澄み切った渓流は、やがて断崖絶壁の端から雪崩を打って、五十メートルほど下の湿地帯にぽっかり開いたシンクホールに流れ落ち、渦を巻く奔流となって暗い地下へ吸い込まれる。
エメラルド・フォールズ。帰らざる滝。(*)
少年の身体は迸り落ちる滝にのまれて、シンクホールの暗がりの中へ小さく消えた。
「・・・兄上、兄上~ッ、しっかりしてッ!!目を覚ましてェ~!」
揺さぶり起こされた少年は、ぼんやりと青い目を見開いた。身体がガタガタ震えていた。
寒い・・・
「ニムエ・・・オレはどうしてここへ?」
歯を鳴らしつぶやいた少年はギョっとなった。傍らに巨大な毛の塊が転がっていたのだ。
あのヒグマだ!
「よかった!気がついたのね・・・こんなに冷え切って、さあ、これを!」
馬の背に括り付けていた毛布で半身を起こした少年を包むと、少女は跪き、氷のように冷え切った身体をしかと抱いた。
「ねえ、靴と服はどうしたの?それにずぶ濡れ。何があったの?」
「わからない・・・」
頭が混乱した少年が答えると、少女は勝気そうな茶色の目を見張って、じっと兄の顔を見つめて言った。
「サウロン、あのヒグマを短刀で殺したのね?脳まで刺さっていたから、わたしの力じゃ、抜くのも一苦労だったわ!」
少女の言葉に少年の目が鋭く光った。
短刀?そうだ!ヒグマの目を狙って投げつけ、渓流に飛びこんだ・・・滝から真っ逆さまに落ちて、真っ暗な地下水脈で溺れて気が遠くなった。気づいたら洞窟のような場所に打ち上げられて・・・
あの光は、何だったんだ!?・・・
・・・ハッと意識を回復した大滝は、ヘッドギアの下で激しく咳きこんだ。
酸素を求めてしばらく激しく喘いでいるうちに、せわしない呼吸も激しい動悸も徐々に治まってくる。アイシールドに「バイタル注意」「安静時脈拍120」「血圧56-78」「体温35.3℃」の文字が、代わる代わる点滅していたが、ほどなくしてピタッと消えた。
な、何だ、今の夢は?やけにリアルだったが・・・短刀?そうだ、あの女に刺されてぶっ倒れたんだ!
むくッと上半身を起こして、左脇の下に手をやった。多少ガタついているが、予備電源ユニットは元通りスロットにはまっていた。
だが、スロットから流れ出た血が、装甲を赤黒く染めているのに気づいて、大滝は低く唸った。
「どうなってるんだ?・・・いかんッ!あのふたりはどこだ?」
歴戦の特殊部隊員らしからぬ慌てっぷりで、左腕のレーザー砲を構えて立ち上がりキョロキョロ辺りを見回わした。
午後のうららかな陽射しを浴びた草地は、何事もなかったかのように閑散としていた。新緑の森が風に吹かれて葉擦れの音を騒めかせているだけで、人っ子一人見当たらない。
しかし、大滝の目は草地が黒く焦げているのを見逃さなかった。電撃を受けた記憶が蘇って歯をギリギリ食いしばった。
「あれは夢じゃない!俺は妙な光の球に電撃を食らって、その後、女に刺された。間違いない!」
急いで時刻を確認した。
「四時前か。一時間ほど眠っていたらしい・・・いや、死んでいたのか?」
もどかしそうに霞がかかってぼんやりした頭を振ると呻いた。
「わからない・・・」
標的は姿を消した。モビールスーツの送受信機能も回復しそうもない。
ひとまず撤退だ!
大滝はややおぼつかない足取りで、西へ向かって森の中へ姿を消した。
* 「青い月の王宮」第51話「エメラルド・フォールズ」




