第二十三話 老夫婦の日常とは
ニグリスとのデートの翌日。私は一時間目から保健室にいた。リプロートは相変わらず私と目も合わせはしないが、逃げ出すこともなかった。
しばらくそんなリプロートの様子を見守ってから、私は声をかけた。
「リプロートはどうして日本の研究者になりたいの?」
リプロートはまた私を鋭い目で見た。
「だからなれないんだってば」
「じゃあ、前は何で興味を持ったの?」
私は質問の言葉を少し変えた。
「……文字を読んでるのが好き」
「日本語を?」
「うん。同じ意味でも言い回しがたくさんあって面白い」
なるほど。リプロートは日本語自体に興味を持ったのか。
「日本語学校には興味ないの?」
「働きたい仕事なんてない」
奨学金制度を受けるためには仕事を決めなければならない。日本語学校に興味はあるが、働きたい仕事はない、ということか。日本語に触れられる仕事、何があるだろうか。
「今から仕事なんてそう簡単に決められないよね。経験も時間も足りないよ」
こんな幼い子供が将来のことを決めなければならないなんて酷だ。
「私がリプロートくらいの歳の時は遊ぶことしか考えてなかった。将来何の仕事に就こうかなんて想像すらしてなかったから」
「そうなの?」
リプロートが私の独り言とも言えるつぶやきに食いついた。日本に対する興味は誤魔化せないのだ。
「日本では14歳までは義務教育で学校に通わなきゃいけないの。15歳になってからもほとんどの子はさらに教育を受ける。だから、就職は早くて18歳。私が就職したのなんて22歳だった」
「22歳……」
「就職は早い方がいいのか遅い方がいいのかはわからないけど、選択の幅が広い分、日本の方がいいのかもね」
リプロートは何かを考えるように口をつぐんだ。
「だから、私からしたらカーストゥン王国の人達は幼い頃から仕事のことを考えて働いて、偉いと思う。就きたい仕事がわからないリプロートのことは絶対に責められない。それが普通だと思うから」
リプロートと久しぶりに目が合った。真剣な顔で見つめてくる。
「答えを出すには経験が必要だよ。私は22年という長い時間の中で仕事を決めたけれど、時間が短いなら動くしかない。その上で今の最善の答えを出せばいいと思うよ」
「佳菜はどうやって仕事を選んだの?」
「私は小さめの会社の営業の仕事を選んだんだけど、それは私が学校とか大きい集団に属することが向いていないと思ったからかな。それより小さい会社で地道に頑張っていく方が向いていると思った。ま、結局上手くいかなくて辞めちゃったんだから、正しい選択だったかはわからないんだけどね」
私は天を仰いだ。
「人生に正解はないから。たくさん失敗して挫折して。でも、何かを選ばないと生きていけないから、悩みながらもその時の自分なりの答えを出していくんだろうね。失敗してもいいけど、せめて後悔はしないように」
リプロートは何も言わなかった。
「ははは、先生みたいなクサいこと言っちゃったわ。私が先生やるなんて夢にも思ってなかったのに」
私は自分で自分にそう言って立ち上がった。
「リプロートももがいていろいろ考えなよ。答えはイチかゼロかじゃない。働かずに家でゴロゴロしたり旅に出ることだって答えのうちの一つだよ。とにかく後悔しなければそれでいいから、自分で納得いくように考えな。何か悩んだら私でもナターシャでも相談すればいいからさ」
リプロートは小さく頷いた。それを見てから私は保健室を後にした。
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その日の夜、私はニグリスと異世界召喚室にいた。昨日ピュオーラさんに渡された鏡で実家を見るためだった。
いざ見るとなると少し恥ずかしい。今や私の好きな人となったニグリスに私が幼い頃まで育った実家を見られ、両親の顔も見られるからだ。それでもやめるわけにはいかない。ニグリスに頼む他、私が実家の様子を見ることは出来ないのだから。
「じゃあ行くよ」
ニグリスはそう言って鏡に向かって力を込めた。鏡がゆらゆらと揺れて家の様子が映し出される。そこは実家のダイニングだった。
久しぶりに見た。この前帰ったのはいつだったっけ。
四人がけのダイニングテーブルに白髪交じりの母が座っている。鏡からは背中しか見えない。背中は丸まっている。その小さな背中を見ていると歳を取ったな、と思う。私はもう31なのだから当たり前のことなのだけど。
今は両親のニ人暮らしだ。私と弟が座っていたダイニングテーブルには雑誌が重ねて置いてある。
母が一人でこうして過ごしているのを見ると、少しの寂しさが感じられた。母はここで日々何を考えて生きているのだろうか。
ダイニングのドアが開いてくたびれたスーツを着た父が入ってきた。
「おかえり」
母はそう言うと立ち上がった。夕飯の支度をするのだろう。火を点ける音などが聞こえてくる。
父はそのまま寝室に消えた。着替えてからダイニングテーブルに戻ってくる。いつものことだった。
両親の変わらぬ姿が見れた。もう十分、ありがとうとニグリスに声をかければいいのに、私はその両親の日常を何となく眺めていた。
父がダイニングテーブルに戻ってきて席に着く。そのままテレビに目を向けている。その間に食卓には料理が並んでいく。
母が最後に二人分のビールを持ってきて席に着いた。「できたよ」も「いただきます」もなく、二人でビールの缶を開けて無言で缶同士を合わせた。そうして食事が始まった。
母が今日あった出来事を話し始める。父は聞いているんだか聞いていないんだか、テレビと食卓を交互に見て時折相槌を打つように頷く。母がこうしていろいろ話してくることを私も鬱陶しいと思っていたんだっけな。
「佳菜は」
母の口から私の名前が出てビクッとした。
「今日も見つからなかったみたい」
心なしか声が暗い。
「そうか」
父が初めて声を発した。
「どこに行ったのかしら……」
母の声に涙が混じった。
「もっと話を聞いてあげれば良かった……そんなに辛かったなら…こうなる前に戻って来るように言うこともできたのに」
「……」
父も箸を置いた。
「無事でいてくれればいいんだけど……」
母はティッシュを取って目元に当てた。
「ダメね。毎日毎日そんなことばっかり。ごはんつぐわね」
母は立ち上がった。
「ありがとうニグリス」
そこで私はニグリスに声をかけた。ニグリスはチラッと私を見て、少し躊躇ってから力を抜いた。




