第十二話 残業のお時間です
職員室に戻るとさっきまでの喧騒は落ち着きを取り戻し、人もまばらになっていた。隣の席のニグリスもいない。ふぅ、と私は一息ついて席についた。
つい数日前まで私は日本で普通に仕事をしていた。営業というのは業務時間内には人と会う仕事が多く、いつも落ち着いて席に座れるのは夜になってからだった。毎日のように残業をした。特に納品が近づくと、徹夜で会社に残り、次の日の夜まで会社に居続ける、なんていうこともあった。女性には向かないかなりハードな仕事だと思う。
しかし、私は業務時間後のこの残業時間が嫌いではない。電話が鳴る頻度も落ち着き、少し気の抜けた時間。自分の作業だけに集中できる。
人がまばらになったこの職員室にいるとそのことを思い出す。たった数日しか経っていないのに仕事のことを懐かしく思うなんて。
私はいつものように少しリラックスした気持ちでペンを握った。今度はカタカナの書き順本を作る。同じように三冊分線を引き、丁寧な字で書き順を記していく。タ行まで終えて気が付くと外は真っ暗。教員室に残っているのは私だけだった。そういえばこの国の人は早寝早起きなんだっけ。私は人が少ないほうが集中できるから好都合なんだけど。
一度伸びをしてから続きの紙に線を引こうとペンを持つと、ガラッとドアが開いた。
「佳菜!」
入ってきたのはニグリスだった。
「あれ?帰ったんじゃなかったの?」
静かな教員室に私達の声が響く。
「うん、一度帰ったけど食堂に佳菜が来ないから気になって」
ニグリスはトレーを持って私のところへ来た。
「夕飯持ってきたけど食べない?」
そういえばお腹が空いた。私はお礼を言ってニグリスと共にテーブルに座った。
「俺が頼んだ書き順表を書いてくれてるんでしょう?そんなに急がないからもう帰って大丈夫なのに」
「いいよ。私、残業体質でこんなに早く帰るの慣れてないし」
今日の夕飯はお肉の入ったドロドロとしたスープとパンだ。スープは食べたことのないスパイシーな香辛料が効いていてとても美味しい。
「そんなに忙しい仕事をしていたの?」
「うん、まぁね。家に帰り着くのなんて日付変わってからがほとんどだったよ。だから、こんなのなんてことないの」
「そんなに……!?」
ニグリスは驚いて綺麗な緑の瞳を見開いた。
「俺はそんなに残ったことないよ!」
「先生は体力勝負だろうし、そんなもんでしょ」
私はパンをスープにつけて頬張った。残業中にコンビニで買ってきたおにぎりやサンドウィッチ、それにスープなどを口にすることが多かったので、つい早食いになってしまう。
「聞いていると佳菜はすごく大変な仕事をしていたみたいだけど、とても楽しそうに話すね」
「そうね」
毎日がめまぐるしく過ぎていた。体力的にきつかったし、毎日愚痴を言ってばかりだったけれど、楽しくなかったら続けられていなかっただろうな。
「ニグリスは何で先生になったの?」
「俺は学校が楽しかったから!」
ニグリスは顔を輝かせた。元気いっぱいの生徒だったんだろうな、ということが容易に想像できる。
「だから異世界召喚の力が発現した時は本当に嬉しかったよ!」
先程のリプロートの話が頭をもたげる。ニグリスは運が良かったんだな。
「ご実家は何を?」
「父さんは日本語で街に掲示される新聞を作っているよ。妹は精霊召喚が発現したから街の自警団に」
「へ~妹がいるんだね」
「うん、俺と似ているよ」
それはたいそう美人なんだろうな。
「最近は親が結婚しろ、結婚しろってうるさいからあんまり実家には帰ってないんだけどね」
ニグリスは苦笑いを浮かべた。ニグリスも28歳って言っていたっけ。そりゃ結婚の時期だよな。
「ニグリスは恋人は?」
「いないいない!仕事が楽しいしさ」
こんなにイケメンなのにいないのか。てっきりナターシャ辺りと付き合ってるのかと思っていたけれど。
それを聞いて少しホッとした。あれ?なんで私ホッとしてるんだろ。仲間を見つけた気持ちになってるのかな?
「ニグリスはモテそうなのにね」
「えぇ!?全然だよ!今までモテたことなんて一度もないよ!」
ニグリスは少し顔を赤らめて否定した。
「そんなにいい顔してるのに」
つい本音を口にしてしまった。ニグリスはさらに顔を赤らめて、
「いやいやいや!」
と、両手をぶんぶんと振った。
「王様やヴァスリンを見たでしょう?俺もあんなにかっこよくなれればよかったんだけど」
「へ?」
王様と今朝会ったヴァスリンを思い出す。どちらも身体が大きすぎるし全然かっこよくなかったと記憶しているんだけど。
「ヴァスリンなんてモテるんだから!ませた生徒達からも告白されたりしてさ……」
「はぁ」
もしかしたらこの国の人の感覚は私達日本人の感覚と違うのかもしれない。
「私はニグリスの方がよっぽどかっこいいと思うけどねぇ」
「えっ!?」
ニグリスが顔を真っ赤にしたのを見てしまった、と思った。つい本音を口に出しすぎた。私まで恥ずかしくなってきた。付き合ってもない男にストレートにかっこいい、と言ってしまうなんて。私もニグリスの素直さが移ってきてしまったんだろうか。
「さ、私はもうちょっと書き順表書いてから戻るよ。食事ありがとう、ニグリス」
私は話題を切りたくてそう言って立ち上がった。
「まだやるの?」
「うん、でも今カタカナのタ行まで終わったから、そう時間かからずに終われると思うから」
「じゃあ俺も手伝うよ!」
ニグリスはまだ赤さの残った顔でそう言った。
「いや、いいよ。みんな早寝なんだし早く戻りなよ」
「ううん、もう少しなら二人でやった方が早いからさ!」
ニグリスは私の隣の自分の席についた。
「何をすればいい!?」
ペンを持って私を見上げてくる。その気迫に押されて、
「じゃあ、悪いけど線引いてくれる?今まで書いたのを参考に」
と、線引きをお願いした。
「任せて!」
ニグリスは早速紙を取って線を引き始めた。私も自分の席に座る。仕事をしていて今まで誰かに手伝うよ、なんて言われたことがあっただろうか。みんな自分の仕事が終わるとさっさと帰ってしまう。私だってそうだった。
ニグリスはなんて純粋で優しいんだろう。思えば私もみんなと一緒の仕事をしているのだからそう声をかければよかったのかな。
隣で真剣に紙に向かい合うニグリスを盗み見た。長い睫毛。透き通るような白い肌。ニグリスは男らしくはないが中性的でとても綺麗だ。こんなに顔が良くて性格もいい人がモテないなんてこの国の人はどうかしてる。私の年がもう少し若ければ……
私はハッと我に返った。私は何を考えているんだろう。こんな異世界の年下の男にそんなこと思うなんて。
一人で赤面して気づかれていないかチラッとニグリスを見るが、真剣に紙を見つめていて私のことは見ていなかった。よかった。それよりせっかく手伝ってくれているニグリスのためにも早く作業を終わらせなくちゃ。
私は気を取り直してペンを握った。




