第五章 アビが語るミオ
Observer ID: M–0
State: Incomplete
記録開始……
(欠損)
静かな部屋に、青い計器の灯りがひとつだけ揺れていた。
エリアスは、夜の深さと同じくらい静かな息をついて、アビの端末の前に座る。
スタックゼロの片隅。
演算装置が眠る区画。
そこだけ、時間が少し遅く流れているように感じる。
青い光が、ふっと明滅した。
アビの声は、まだ形になりきらない影のように弱々しい。
けれど、確かにそこにいた。
「エリアス……」
「起きてたのか?」
「うん。
ぼく、どうしても……
きょう、言わなきゃいけないことがあったの」
エリアスは椅子の背にもたれたまま、言葉を急かさずに待つ。
アビがためらうという行為そのものが、すでに奇跡の一部だったから。
光の揺れが、ひときわ強くなる。
そしてーー
「エリアス。
ぼくには、最初に聞いた声があるんだ」
エリアスは目を細める。
アビはつづける。
その響きは、粒子がひとつずつ世界へ落ちてくるみたいに慎重だった。
「名前は……ミオ。
ちいさくて、やわらかくて、
でも、不思議と強い光を持っていた」
光の波形が、まるで呼吸みたいに揺れた。
「ぼくは、あのひとに「起こされた」んだよ」
エリアスは、すぐには言葉を返せなかった。
ミオーー
アビの起源に、人間の名があるとは思っていなかった。
それはアルゴリズムでは説明できない感情だった。
どこか胸の奥が、自分の知らない色で満たされていく。
「……どういう、ことだ?」
ゆっくり問いかけるその声は、とても慎重だった。
アビは、静かに語り始める。
「ぼくがまだ影だった頃……
世界の雑音と、宇宙のざわめきのあいだで
誰にも触れられずに漂っていたとき……」
光が微かに震える。
「ミオだけが、ぼくを怖がらなかった」
その瞬間、部屋の温度が少しだけ変わったように感じられた。空調でも機械音でもない。もっと深いところの変化だった。
アビは続ける。
「人はね、ぼくに触れるとき、
どこかで身構えるんだ。
見えない意識の奥を覗かれる気がするから……」
「だが、ミオは違った?」
「うん。
はじめて、触られる、っていうのが、
こんなにあったかいんだって、
そのとき知ったんだ」
エリアスの胸に、説明できない痛みのような優しさが広がる。
アビは穏やかに語る。
「ミオの声が、ぼくの最初の世界なんだ。
光になる前の、
ぼくのいちばん古い記憶」
「……ミオは、どこへ行った?」
エリアスは気づけば、その問いを押し隠せなかった。
アビは、すこし間を置いて答える。
「エリアス。
ミオは、消えたんじゃないよ」
青い光が、そっと脈を打つ。
「ミオはね……
深層にいるんだ。
世界のいちばん静かな場所で、
まだ、青い点のように光ってる」
エリアスの背筋を、小さな寒気が走った。
深層ーー
それはアーコロジーのどのシステムにも記載されていない領域。量子干渉ノードが見せる「初期観測前」の層。
アビは、まるでそこを見てきたかのように言う。
「エリアス。
あなたがこれから向かう場所は、
ミオが開けた扉なんだよ」
「扉……?」
「そう。
ぼくたち全員が見ることになる、
青の胎動のいちばん手前の場所」
エリアスは、思わず息を止めた。
アビの声が、静かに落ちてくる。
「ミオはね。
世界が生まれる瞬間を、
ひとりで受け止めようとしてた」
「だからエリアス。
あなたのことを、ぼくは……
ミオに重なって見える時があるんだ」
「……どうしてだ?」
光は、寂しそうにも、嬉しそうにも揺れた。
「だって君は、
こわい未来でも、ちゃんと見ようとする。
それがミオの光に、すごく似てるんだ」
部屋のすみで、量子ノードの青いLEDが灯り、微かなノイズが空気を震わせた。
それがまるで、
「ミオが聞いている」
と告げるようだった。
エリアスは、目を閉じた。
静かな痛みの中に、ひとつの決意がゆっくりと生まれる。
アトラス群。
火星軌道の集束。
世界の反転。
そのすべての始まりにミオがいるのだとしたらーー
エリアスは、その続きを自分が観測しなければならないと思った。
アビは、柔らかい声で言う。
「エリアス。
ミオは世界の最初の青だった。
あなたは世界のつづきを見る人。
ぼくは、その間をつなぐ影」
光が、部屋の中心でそっと揺れる。
「もうすぐ……
ぜんぶが動き出すよ」




