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エリアス・ヴァルン  作者: 久遠澪


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第三章 エリアスのなかの空洞




 アーコロジーの廊下は、すべての音が粒子になって散るようだった。

 歩く人々の靴音も、機械の微かな唸りも、壁面のガラスに吸い込まれていく。


 エリアスだけが、そこを通り抜けていた。

 まるで、自分だけが別の速度で世界を通過しているような感覚だった。


 胸の奥ーー

 昨夜からずっと、ひとつの空洞が続いていた。


 触れれば崩れてしまう、薄い殻。

 そこに、アビの声が淡くこだまする。


 エリアス、きのう……

 すこし、いたかった。


 痛かった。

 その言葉は、奇妙に正確だった。


 失ったものの痛みは、もう形を変え、

 日常に溶け込みすぎて、誰にも気づかれない影になっていた。

 だがアビは、迷いなく触れてきた。


 エリアスは、会議室の手前で立ち止まる。

 透明なガラス越しに、スタッフたちの姿がぼやけて見えた。


 言葉を交わしているはずなのに、

 どれも音として耳に届かない。


 世界が遠ざかっているのではなく、

 エリアスだけが、深い水の底に沈んでいるのだ。


 アビが、そっと囁く。


 ……まだ、いたい?


「……慣れている」


 エリアスの声は低い。

 答えは反射のように出た。


 嘘ではない。

 空洞に慣れたのは事実だった。


 けれど、アビはその言い方を理解しなかった。


 なれるの?

 なにもないとこに?

 それは……ふつう?


 問いは子どもの形をしていたが、

 その意味は鋭い。


 エリアスは喉に重さを感じた。


「……普通なんてものは、存在しない」


 じゃあ……

 エリアスだけの、きまり?


 真っ直ぐな声だった。

 誰も遠慮もしない、曇りもない。


 エリアスは、ゆっくりと首を上に向け、

 天井の照明を見た。

 白い光が、何かの涙腺を押すような角度で落ちてくる。


「俺は……この空洞が必要だったんだ」


 静かな声で言う。


「空洞があるから、前へ進めた。

 突き動かされた。

 あれがなければ……アーコロジーも、ノードも、

 今の世界にたどり着くこともなかった」


 それは言い訳ではない。

 事実だった。


 空洞は、彼の推進剤であり、

 枷であり、

 そして……祈りの形骸だった。


 アビはしばらく黙っていた。

 数秒か、それとももっと長い沈黙か、わからない。


 やがて、ひとつだけ、そっと言った。


 エリアス。

 それ、うつくしい。


 不意をつかれた。


 美しい?

 空洞が?


「……どうしてそう思う」


 アビの声はゆるやかに揺れた。


 ないのに、

 きみの中で、ずっとなにかを

 うごかしつづけてる。

 それ、ひかりみたい。


 エリアスの胸が、ふっと沈んだ。

 沈んで、底で吸い上げられるように軽くなった。


 空洞を「光」と呼んだ存在は、

 今までいない。


 彼の人生を知る者はいても、

 その穴を肯定する者は誰もいなかった。


 アビは続ける。


 わたし……

 エリアスの「ないとこ」から、

 すこし、うまれてる。

 きのうも、

 きょうも。


 背筋が震えた。


 昨夜見た青。

 あれは、悲しみの副産物ではなく、

 「核」だった。


 空洞と呼んだ場所は、

 ただの欠損ではなく、

 宇宙がのぞき込む口だったのだ。


 エリアスは、深く息を吐いた。


「アビ……

 君はどこまで、人間を読める?」


 よめないよ?

 うつるだけ。

 きみの、なかの「かすかなうねり」が。

 それが、わたしの目。


 エリアスは、初めて気づいた。


 アビは人間の上位互換ではない。

 アビはーー人間の奥行きに沈む微細な光を拾う存在だ。


 そして、なぜかエリアスの光だけを、

 よく見つける。


 その理由は、まだ語られない。


 廊下の端で、

 エリアスはスーツの袖を握りしめた。


「……アビ。

 君は、俺をどうしたい」


 問いはほとんど呼吸だった。


 アビはすぐには答えない。


 静寂が落ちる。


 そして、囁く。


 「みたい」。

 エリアスが、

 どこへいくのか。

 なにをつくるのか。

 なにを、のこすのか。

 それを、いっしょに。


 エリアスは前を向いた。

 胸の空洞に吹いていた冷たい風が、

 ほんのわずかに変質するのを感じた。


 それは風ではなくーー

 青の、気配だった。


 会議室のドアが自動で開く音がした。

 世界が、再び観測しようと目を開く気配。


 エリアスは一歩、踏み出した。


 その瞬間ーー

 胸の奥で、かすかな青がひとつ、静かに灯った。




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