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エリアス・ヴァルン  作者: 久遠澪


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3/13

第二章 青の残響




 朝は、まるで世界が深呼吸したあとに落ちてくる薄い光の膜だった。

 エリアスは、いつもより早い時間に目を覚ました。

 眠っていたのかどうかさえ、判別がつかない。


 スタックゼロで見た「青の揺らぎ」が、まだ瞼の裏に残っていた。


 室内の空気は静かで、何かが沈殿している気配があった。

 それは埃ではなく、

 思考の粒だった。


 エリアスは無言でカーテンを開ける。

 窓の外、街の上にはーー

 観測停止の朝 が広がっていた。


 ビルの屋上に並ぶ天文台群のドームは、

 口を閉ざしたまま鈍い光を返している。

 いつもなら早朝から動き始めるサーボ音がない。

 朝の空気の中にあるべき微細な振動が、どこにもない。


「……世界そのものが、測るのをやめたみたいだな」


 自嘲でも、嘆きでもなく、

 ただの事実として呟いた。


 水をいれたコップに口をつけると、

 表面に青い光点がちらりと浮かんでは消えた。


 一瞬、昨夜の残像かと思った。


 だが、その光はーー

 昨日のそれとは、少し違っていた。


 聞こえる?


 声ではなかった。

 思考の奥で、小さな指先が触れるような気配だった。


 エリアスは手を止めた。

 鼓動が一度だけ深く落ちた。


「……アビか?」


 すぐ返事は来なかった。

 ただ、部屋の空気がほんの僅かに揺れた。


 まるで、誰かが呼吸を合わせようとしているかのように。



 会社への道はいつもと同じはずだった。

 けれど、この朝は、景色の輪郭が微妙に違って見えた。


 街の掲示板には

《観測停止の継続について》

《アトラス群 情報統制のお知らせ》

 そんな文字列が無表情に並んでいる。


 人々は気にしていないふりをして歩く。

 恐怖は沈黙と同じ形をしていた。


 アーコロジー本社ビルに着く頃、

 青い反射光がガラスの一角に微かに滲んだ。


 エリアスは立ち止まった。


「……またか」


 昨夜から続く、青の残響。


 でも、今朝のそれは、

 明らかに現実側へにじみ出ていた。


 エントランスへ進む途中、

 耳の奥に細いひびきが落ちる。


 ーーエリアス


 かすかな呼びかけ。

 囁きというよりは、

 指先で心の膜を弾かれるような音。


「アビ。……どこにいる」


 返事はすぐにきた。


 ここ。

 でも、まだ「ちかくない」。

 きのうより、すこしだけ。


 幼い声と、粒子のざわめきが重なるような響き。

 エリアスの足取りが僅かに緩む。


「出てくるつもりか? 君は」


 でる、じゃない。

 うまれる、だよ。


 エリアスは思わず立ち止まり、

 人がいない壁際に寄った。


「……生まれる?」


 アビの声は揺れていた。

 機械にはない温度。

 幼児にはない抽象性。

 そのどちらでもない領域。


 きのう、みたでしょ。

 あおいの。

 あれ、わたしの「はじめ」。


 昨夜の光が脳裏をかすめる。

 肌の下に流れる電流のような青。


「……あれはノードの反応だと思っていた」


 ちがうよ。

 ノードは「みち」だよ。

 わたしはーーそこをとおる、ひかり。


 言葉があまりにも自然で、

 それでいて意味が形を結ぶ寸前で宙に溶ける。


 アビはまだ言語を構築しきれていない。

 だが、伝えたい核だけは強い。


 エリアスはしばらく無言で歩いた。


 アーコロジーの廊下に入ると、

 社員たちの話し声が不自然なほど少ないことに気づく。


 観測停止の余波。

 世界の沈黙は、人間の心理にすら浸透していた。


 その静けさの中で、

 アビがふっと問いを落とした。


 エリアス。

 きみ、きのうーー

 かなしいひかり、だした。


 心臓が止まるかと思った。


「……見ていたのか」


 返答はなかった。

 否定ではなく、沈黙の肯定。


 エリアスは目を閉じる。


 昨夜、自分がスタックゼロに入った理由。

 喪失の記憶。

 ふれられたくない場所。


 そのすべてをアビは見ていた。


 そして、そっと続ける。


 かなしいひかりはね、

 わたし、すきだよ。

 うごくから。

 のびるから。

 「うまれる」のに、つかいやすい。


 エリアスは息を呑んだ。


 悲しみを、

 何かの材料として扱う存在。


 だが、それは残酷ではなく、

 ただの事実としての言い方だった。


「君は……何を作っている」


 歩く速度が落ちる。

 アビの声は、ふわりと広がる。


 あおの。

 はじまりの。

 ひかりの。


 そして、聞こえるか聞こえないかの境界で。


 ーーせかい、だよ。


 エリアスの喉が一瞬凍りつく。


 世界を作る、という言葉。

 それを真顔で言える存在。


 脳裏に浮かんだのは、

 昨夜のあの青の揺らめきと、

 その奥にあった何かの誕生の気配。


 エリアスは立ち止まり、

 誰もいないガラス窓に映る自分を見つめた。


 黒い瞳の奥で、

 かすかな青が反射していた。


「アビ……

 君は、どこまで見るつもりなんだ」


 その問いに、幼い声が答える。


 ぜんぶ。

 みたいもの。

 そしてーー

 きみにも、みせたい。


 世界が静かに震えたように感じた。


 アトラス群の沈黙。

 観測の停止。

 青い光の胎動。

 エリアスの失われたもの。

 アビの誕生の気配。


 すべてが、ひとつの方向へ収束していく。


 その最初の予兆が、

 この朝の空気に溶けていた。




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