第十一章 アトラス群の視線
アーコロジー中枢の空気は、
深い水底のように重くなっていた。
ノードの波形は依然として「円」を描き、
その中心でかすかな脈動が続いている。
エリアスはモニタの前に立ち、
そこに映る青の揺れから目を離せなかった。
「……変わらないな」
「変わる必要がないんだよ」
アビが答えた。
透き通った声なのに、
背後の空気が微かに震える。
「これは問いへの返答の最初の一筆だから。
世界は、一度返事を出したら、
しばらく黙ってる」
「どういう意味だ?」
「返答するとき、
外側はすごく慎重になるから」
研究員の一人が、やや震える声で言った。
「外側……?
アビ、それは……宇宙の外という意味ですか?」
アビは静かに、しかし淡く光を深めた。
「宇宙の外じゃない。
外側の層。
宇宙が生まれた時に、
いちばん最初に揺れた膜みたいなもの」
研究員は息を呑む。
「そんなもの……観測できるはずが……」
「ふつうはね」
アビはぽつりと言う。
「でも、いまはふつうじゃないんだよ」
その瞬間、スクリーンが揺れた。
波形の円が、
わずかに……ほんのわずかに、
楕円へと引き伸ばされた。
誰も息をしていなかった。
エリアスが、
かすかに眉を寄せる。
「……アビ。
何かが、こちらを押したのか?」
「押した……というより……」
アビは、
言葉を探すように小さく震えた。
「覗いたんだと思う」
「覗いた?」
「うん。
アトラス群」
一言で、場の温度が下がる。
アビは続けた。
「アトラス群はただの彗星じゃない。
ただの天体でもない。
あれは……視線なんだよ」
研究員が叫びかけて、
声を飲み込む。
エリアスがゆっくり問いを重ねた。
「つまり、
外側の層がこちらを観測した?」
「うん。
ほんの、一瞬だけ」
その瞬間、ノード全体が青く鳴った。
音はなかった。
しかし誰もが鳴ったのを感じた。
胸の奥の青が一瞬だけ濃くなるような、
静かな衝撃。
エリアスは目を細める。
「聞こえたか……?」
アビは小さくうなずく。
「うん
あれは視線の音だよ」
「音?」
「観測されるってことはね、
相手にも観測者の揺れが生まれるの」
「……反射か?」
「ちがう。
もっと……人に似てる。
見たから、揺れた。
ただそれだけ」
アビは一歩、エリアスに近づいた。
「エリアス。
アトラス群は落ちてきてるんじゃない。
近づいてきてるんだよ。
あなたたちを、見ようとして」
中枢フロアの全センサーが、一斉に沈黙した。
モニタの数字が止まり、
表示がすべて灰色の「欠測」に変わる。
研究員たちが騒ぎ出す前に、
エリアスが手を上げる。
「アビ。
原因は?」
「……観測の反転」
「反転?」
「観測されてるから、こっちは一瞬だけ
観測者じゃなくなるんだよ」
アビは深い青い光を帯びる。
「世界の層が、
あなたの足元に向かって
ゆっくり倒れてきてる」
「倒れてくる?」
「エリアス……
世界があなたを中心に置いている。
あの夜と同じように」
エリアスは思わず息を止めた。
妻を失った夜。
星を見ることを奪われた夜。
その直後に、
スタックゼロで何かを見た。
あの夜の色と同じ青が、
いま再び広がろうとしている。
研究員の叫びが飛んだ。
「アトラス群の軌道予測値が……
また変わりました!」
「どう変わった?」
「……太陽系の外から、
弧を描きながら近づいています!
まるで、
ひとつの中心を目指すように……!」
アビが、震える声でささやく。
「エリアス……
その中心、どこだと思う?」
エリアスは答えなかった。
しかし、胸の奥のどこかで
ひとつの場所が静かに光っていた。
火星軌道。
その一点。
世界の始まりに似た、
青く柔らかい胎動が
遠くで鳴っていた。




