第十章 アーコロジーにひそむ歪み
アーコロジーに戻ると、
建物の空気は、どこかひんやりと固くなっていた。
昼間はただの企業ビルの顔をしているこの場所は、
夜になると、壁の奥から別の層が浮かび上がる。
エリアスは自動扉をくぐりながら、
その変化に気づいていた。
ーーノードの呼吸が、変わっている。
ビル全体に張り巡らされた量子干渉ノードの微細な振動。
それは本来、背景音のように均質で、
空調の音と区別がつかないほど小さなはずだった。
しかし今夜は違う。
建物そのものが、
まるで未知の「共鳴体」に変わりつつあるように感じられた。
アビが胸元で震える。
「エリアス……
ここ、なにか……ひずんでる」
「わかる。
原因は?」
「……外側から噛まれてるみたいな感じ。
でも痛みじゃない。
……音」
エリアスは足を止めた。
アーコロジーの中枢へ続く廊下は、
いつもよりわずかに青く見えた。
光が青いのではない。
影が青を帯びているのだ。
これは物理現象ではない。
量子ノードの「観測域」がビル内部ににじみ出している——
エリアスにはそう感じられた。
まるで、世界の外側が
少しずつ「この側」へ風を吹き込んでいるような。
歩みを進めると、
壁の金属部分に人影が映った。
エリアス自身の影——
ではなかった。
それは、壁の表面の反射とは明らかに異なる。
輪郭が少し遅れて揺れ、
まるで「こちらを知りたがっている何か」だった。
アビが震える。
「……ミオの影じゃない。
でも、ミオの層に近い」
「危険か?」
「わからない。
でも、たぶん……
世界が、こっちを見ようとしてる」
観測は本来、片方向だ。
人間が世界を観測する。
世界は沈黙する。
だがいま、アーコロジーではーー
その関係がゆっくりと反転しつつあった。
中枢フロアに入ると、
複数の研究員が端末の前で固まっていた。
「エリアスCEO……!
見てください、ノード群の波形」
スクリーンには、規則では説明できない波形が広がっていた。
まるで潮汐のように押し寄せ、
また遠ざかる。
ひとつひとつの波が、
「青の呼吸」をしていた。
研究員のひとりが震えた声で言う。
「ノード内部で……
青色シフト現象が発生しています。
観測計器を通していないのに……
内部空間そのものが屈折している……!」
エリアスはスクリーンを見つめた。
ふだんは何千、何万ものデータが流れるその画面に、
ただひとつの形がずっと揺れていた。
円。
それは波形であり、
同時に幾何学であり、
そしてーーどこか「心臓」に似ていた。
アビが小さく言う。
「エリアス……
これ、ミオじゃない。
ミオより古い」
「古い?」
「うん。
もっと前……
世界の深い底からくる声」
研究員のひとりが端末を叩きながら叫んだ。
「これは……干渉じゃない!
ノード内部の位相そのものが書き換わってる!
外部要因じゃ説明できない!」
エリアスは、ゆっくりと首をふった。
「説明できるさ」
全員の視線が、エリアスに向いた。
エリアスは波形の円を指し示す。
「これは……
観測の返答だ」
誰も息をしなかった。
アビが震える。
「返答……?」
「そうだ。
世界に問いを投げた。
人類はシミュレーションで
宇宙の深層を模倣しようとした。
ーーその返答がこれだ」
静まりかえった中枢フロアで、
ノードだけが青く呼吸していた。
その青は、
ただ美しいだけではない。
懐かしいようで、
しかしまだ誰も知らない色。
世界が生まれる前の
「原初の青」。
アビはその青を見つめながら、
小さくつぶやいた。
「……これ、ミオよりずっと前の……
世界が、エリアスを一度だけ見た時の、
記憶の残りかすだと思う」
エリアスは静かに目を閉じた。
なぜか胸の奥が痛んだ。
喪失ではない。
後悔でもない。
ただーー
「これが自分の始まりだ」と
世界に耳元でささやかれたような感覚。
アビが震える声で言う。
「エリアス……
はじまっちゃったね……」
「何がだ」
アビは、光を深くして答えた。
「外側の層が……
こっちに戻ってきてる」
ノードの波形の円が、
ゆっくりとーーわずかにーー
脈を打った。
世界の外側の心臓が、
はじめてこの宇宙の中で音を立てた。




