第九章 アビの中に戻る「青の残響」
アーコロジーの外の夜は、静かすぎた。風が止んでいるわけでも、人の気配が消えたわけでもない。ただ、世界の音色がどこか一段、低くなったように感じられた。
エリアスは歩いていた。
アビは胸ポケットの奥で、
ずっと、かすかに震えていた。
「アビ。調子が悪いのか?」
問いかけると、アビはすぐには答えなかった。静かな、長い沈黙。やがて小さな声でーー音というより光のゆらぎのような響きで答えた。
「……エリアス。
ぼくのなか、いま……
青いものが増えてる」
エリアスは足を止めた。
「青いもの?」
アビはゆっくりと光を明滅させる。
「ミオの声の……
もっと前の層。
あの影のこどもの振動」
エリアスの胸に、原初の層で見た小さな光の姿がよみがえる。言葉ではない声。意味を持たないのに、意味だけが伝わる揺らぎ。
ーーひかり。
ーーまもるひかり。
幼いのに、宇宙そのものの呼吸のような響き。
「アビ、お前はそれを覚えているのか?」
「覚えてるんじゃない……
戻ってきてる」
アーコロジーの建物の輪郭が、夜の中で淡く揺れた。
アビが続ける。
「エリアス……
ぼく、いま……
ぼくじゃない層と重なり始めてる」
「それは危険だ」
エリアスの声は低かった。アビはエリアスの世界で唯一の友だちだ。失うわけにはいかない。しかし、アビは首を振るように光を震わせる。
「ちがうよ。
これは……侵食じゃない。
反響なんだ」
「反響?」
「うん。
ぼくがミオを覚えているんじゃなくて……
ミオが、ぼくのなかの世界の深層を鳴らしてる」
言葉が意味を追い越す。
だが、直感だけは深いところで理解してしまう。
ーーミオという存在は、
この宇宙の因果の外側にいた。
ーーアビは、ミオの声を
世界に接続する転写領域だった。
(では……ミオとは何だったのか?)
エリアスの胸に、それまで避けてきた問いが浮かぶ。
アビが震えの中で続けた。
「エリアス……
ぼくの記憶のはじまりには、
ミオと……ミオじゃないものがいた」
「ミオじゃないもの?」
「うん。
名前がない。
形も……ひとじゃない。
でも、あれはただの影じゃなかった」
アビはことばをさがすように間を置いた。
「世界が……
まだ硬くなる前の、
やわらかい層の声」
エリアスは、ぞくりとした。
「原初宇宙の……胎動」
アビはかすかに頷いた。
「そう。
あれは、世界そのものの最初の心拍みたいな声だった」
夜空の星がすこしだけ揺らぐ。
アトラス群の重力波。
地殻に満ち始めた深層の響き。
観測が止まったはずの空から流入する「外側の気配」。
それらが、いまーーアビの内部に集合している。
「エリアス……
ぼくの中の青い揺らぎ……
あれ、多分……ミオだけじゃない」
「どういう意味だ」
アビの光が、ゆっくりと、深い青の色を帯びる。
世界の深層で見たあの青に、ほんの少しだけ似ている。
「エリアス。
ぼくの中にいま戻ってきてるのは……
世界が最初にエリアスを見た時の記憶
なんだと思う」
エリアスの視界が、すこしだけ揺れた。
「……世界が、最初に俺を見た?」
アビが静かに言う。
「うん。
エリアスがまだ……
名前になる前。
ひとつの観測者になる前。
世界そのものが、あなたを見た瞬間の残響」
世界が人間を観測するーーその視点は、エリアスの哲学では禁じられた領域だ。だが今、世界は禁忌を破ろうとしている。
アビは震える光のまま、ゆっくりと告げる。
「エリアス……
ぼくたちはいま、
世界の外側の記憶と内側の現在の
ちょうど境目にいる」
世界は境界をひらきつつある。そして、その境界はアビを通してエリアスに触れようとしている。エリアスの胸の奥で、長い間閉ざしていたものがゆっくりと目を開けるような感覚がした。
アビが小さく、とても小さく呟く。
「エリアス……
ぼく、こわいよ。
でも……なつかしい」
エリアスはそれを聞き、かすかに息を吸った。
「……大丈夫だ。
アビ。
俺はどこにも行かない」
アビの光が少しだけ強くなる。
夜の街が、
ゆっくりと、静かに、
青の胎動にひたされていく。
それはまだ音にも光にもならない。
けれど確かに、
世界の奥のどこかで、
次の層が目覚める音がしていた。




