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第4話 消えた小麦

第4話 消えた小麦


秋の風が吹き始めていた。


夏の熱気はすでに遠く、朝晩には肌寒ささえ感じる。


バルトロメウス伯爵領の農村では、収穫を終えた畑が黄金色から褐色へと変わりつつあった。


例年なら人々は安心して冬支度を始める時期だった。


だが今年は違った。


領都の大市場。


朝早くから人々が集まっている。


パン屋の前では長い列ができていた。


焼きたてのパンの香りはいつもと同じだったが、人々の表情は暗い。


「高くなったな……」


農夫の男が呟く。


「先月の倍じゃないか」


隣にいた女性も顔をしかめた。


「うちの子、育ち盛りなのに」


店主は申し訳なさそうに頭を下げる。


「私だって好きで値上げしてるわけじゃないんだ」


「小麦が来ないんだよ」


その言葉に周囲がざわついた。


「来ない?」


「どういうことだ?」


店主は声を潜める。


「いつもの商会が契約を打ち切ったらしい」


「だから仕入れ値が跳ね上がってる」


不安が広がった。


市場のあちこちで同じ会話が交わされる。


小麦。


塩。


乾燥豆。


保存肉。


どれも少しずつ値段が上がっていた。


その頃、伯爵邸では。


レナードが朝食を取っていた。


白いテーブルクロスの上には、卵料理、焼いたソーセージ、果物、蜂蜜入りの紅茶が並んでいる。


ミレーヌは新しい翡翠の首飾りを見せびらかしていた。


「どうかしら?」


「綺麗だ」


レナードは笑う。


「君には宝石がよく似合う」


そこへ執事のガルドが入ってきた。


顔色が悪い。


「旦那様」


「何だ?」


「少々お時間を」


「朝食中だぞ」


「重要な報告です」


レナードは不機嫌そうにフォークを置いた。


「言え」


ガルドは震える手で書類を差し出した。


「小麦の納入業者から最終回答が届きました」


「それで?」


「契約更新は不可能とのことです」


レナードは眉をひそめる。


「まだその話か」


「代わりを探せばいい」


「探しました」


「それで?」


ガルドは唇を噛んだ。


「価格が三倍です」


静寂が落ちた。


ミレーヌが笑う。


「冗談でしょう?」


「残念ながら」


「三倍?」


レナードの声が裏返る。


「なぜだ!」


ガルドは答える。


「以前の契約はアルティナ様の個人信用による特別価格でした」


「商会側はアルティナ様が保証人だったから安く供給していたそうです」


レナードは立ち上がった。


椅子が大きな音を立てる。


「そんな話は聞いていない!」


「契約書には明記されております」


「誰がそんなもの読む!」


ガルドは心の中でため息をついた。


アルティナは読んでいた。


一文字残らず。


だから問題が起きなかった。


しかし今は違う。


ミレーヌが口を開く。


「でも、お金ならあるでしょう?」


ガルドは首を横に振った。


「予算が足りません」


「え?」


「祭りと晩餐会、それに新しい馬車の支払いで余剰資金が大きく減っております」


ミレーヌの顔色が変わった。


レナードは怒鳴った。


「予算を組み直せ!」


「既に組み直しております」


「なら何とかしろ!」


ガルドは何も言えなかった。


数字は怒鳴っても変わらない。


その日の午後。


領都ではさらに不安が広がっていた。


倉庫の在庫が減っているという噂。


小麦価格の高騰。


冬への不安。


市場を歩く母親たちは皆、ため息をついていた。


一方その頃。


王都のメルカトル商会本館ではまったく違う空気が流れていた。


大きな窓から秋の日差しが差し込む執務室。


アルティナは藍色の仕事着に身を包み、大きな地図を見つめていた。


地図には赤い線が何本も引かれている。


セドリックが笑う。


「本当にやるのか?」


「はい」


「普通の商人なら思いつかないぞ」


アルティナはペン先で地図を指した。


「北方の毛皮と南方の香辛料」


「両方を結ぶ交易路です」


セドリックは目を見開く。


「なるほど」


「途中の関税を避けられる」


「利益率は二倍以上になります」


兄妹は顔を見合わせた。


そして同時に笑う。


「面白い」


「成功します」


数週間後。


新交易路は大成功を収めた。


大量の商品が流れ込む。


商会の利益は倍増。


王都の市場は活気づいた。


ローウェンは報告書を読みながら満足そうに頷く。


「さすがだな」


アルティナは答える。


「まだ始まったばかりです」


彼女の机の上には分厚い帳簿が積まれていた。


数字が並んでいる。


しかし彼女にとって数字はただの数字ではない。


生活だった。


食事だった。


人々の未来だった。


だからこそ見逃さない。


だからこそ守れる。


夕暮れ。


窓の外では王都の灯りが輝き始めていた。


その頃、バルトロメウス領では。


倉庫管理人が最後の在庫表を見つめていた。


棚の空白が増えている。


小麦の残量は半分を切った。


彼は震える声で呟く。


「冬まで……持たない」


誰も聞いていなかった。


伯爵は怒り。


婚約者は宝石を眺め。


役人たちは責任を押し付け合う。


だが数字だけは静かに真実を語っていた。


そしてその真実は、もうすぐ誰の目にも見える形になる。


冬は確実に近づいていたのである。



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