芽は出たのに、帳面はそれより先に僕の畑へ来た
石を拾い始めて、三日が経った。
賦役が終われば東端へ走り、日が暮れるまで石をどける。それだけが今の僕の仕事だった。
手のひらに豆ができた。翌日には潰れる。その翌日には硬くなった。
一つどけるたびに、その下からまた小石が出てくる。終わる気がしない。
四日目の夕方、足音が聞こえた。
振り返ると、イェニーだった。何も言わず、僕の隣にしゃがんで、石を拾い始めた。
「母さん、いいよ。僕一人で——」
「拾えばいいんでしょう?あなたがやりたいことなんでしょう?ならやるわ」
匙を持つ手とは違う力で、イェニーは石を持ち上げた。小さな石を二つ、三つ。畝の外に並べる。手が土で黒くなる。
何も聞かない。なぜ石を拾うのか、何を育てるのか。ただ隣にいて、同じことをしている。
「……理論どおりには始まらないな……」
「何の話?」
「独り言だよ。気にしないで」
イェニーの顔が、ほんの少し動いたが、少し微笑んで前を向いた。
(——父さんも、こうやって黙って石を拾っていたのだろうか。何も言わずに)
その考えが浮かんで、すぐに振り払った。今は石を拾う。
休憩のとき、水を分け合いながら、ふと聞いた。
「母さん、文字って読める?」
イェニーが水瓶を傾ける手を止めた。少し驚いた顔をした。
「……昔、少しだけ教わったことがあるよ。奉公に出てたとき」
「奉公先で?」
「教会付きのお屋敷でね。司祭さまの身の回りの世話をしていたことがあるんだ。司祭さまが気まぐれで、ちょっとだけ教えてくださった」
イェニーは落ちていた小枝を拾って、地面に文字を書いた。三文字。不格好だが、確かに文字だった。
「これで『麦』。こっちが『水』。もう一つは——何だっけ。忘れちゃった」
僕も小枝を拾って真似た。だが、手が動かない。鍬と鎌は覚えているのに、文字を書く動きだけがぎこちない。線が曲がる。角が丸くなる。
翌日には、昨日書けた字の形すら曖昧になっていた。
転生してから文字を見たのは、グリュンの帳面の表紙だけだった。農奴は読み書きを習わない。
「……教会以外で、文字を教えてくれるところはあるのかな」
「ないよ。読み書きは司祭さまのものだもの」
「司祭さまの——」
「何でそんなこと気にするんだい」
「ううん。——もう少し教えてくれないかな。毎日、少しずつ」
イェニーは小枝を地面に刺して、立ち上がった。
「忘れてるのが多いよ? でもいいなら」
石を拾う。文字を覚える。どちらも、一つずつだ。
五日目。
石を拾い続けて、二畝分ほどの空間ができた。
掘り返した土は黒かった。湿っていて、腐葉土の匂いがする。石が蓋になって水分を保っていたらしい。指先で土を崩すと、細かい根が混じっている。
鼻を近づけた。酸っぱくない。腐った匂いもない。根が生きているなら、土も死んでいない。
大麦を試す。この土なら育つ可能性がある。
保有地の片隅に残っていた種を少しだけ蒔いた。ほんの一握り。失敗しても惜しくない量だ。
畝を作り、種を蒔き、水をやった。
あとは待つしかない。
七日目の昼。賦役を終えて実験区画に向かう途中、赤い髪が目に入った。
ローザだった。薪を背負って、畑道を歩いている。
僕の区画の前で足を止めた。石を除けた地面と、不格好な畝を見ている。
「……何やってるの」
「畑を作ってるんだ」
「石をどけただけでしょ」
「石をどけて、畝を作って、種を蒔いたんだ」
「畑を作るの?」
「そのつもり。どうなるかはわからないけど」
ローザは畝を見下ろした。眉をひそめている。
「そこ、水が溜まるよ」
「何?」
「春に大雨が降ると東から水が来る。その向きだと種ごと流されるよ」
僕は畝を見た。確かに、東側がわずかに高い。傾斜に気づかなかった。
「……なるほど、斜めか……」
「水が畝を横切るように、斜めにすればいいでしょ」
「詳しいね」
「……住んでるんだから当たり前でしょ」
恥ずかしそうにつぶやいている。褒め慣れていないのだろうか。
ローザは薪を背負い直して、歩いていった。
「……助かった、ありがとう」
声に出していた。ローザは振り返らなかった。だが、三歩ほど先で言った。
「知ってることを伝えただけ」
畝を作り直した。斜めに切り直し、溝を深くした。土の匂いが鼻に染みる。腰が痛い。だが、手は止まらなかった。
それから、二十日が過ぎた。
毎日、賦役の後に区画を見に行った。水をやり、雑草を抜き、土の状態を確かめる。
変化は遅かった。祝福なら一晩で色を変える。だが、こちらは十五日経っても何も出ない。
十五日目に土が少しだけ盛り上がった。十八日目には、それが気のせいではないと分かった。
そして今日。
二十一日目の朝。賦役に出る前に、区画に寄った。
——芽が出ていた。
小さな、緑色の芽。土を割って、二枚の葉を広げている。
一つではない。畝に沿って、ぽつぽつと。隣の保有地の畑と比べると、明らかに密度が違う。石を除けた土は養分を蓄えていた。
しゃがんで、芽を見た。湿った土の匂いが、鼻の奥まで届いた。
指で触れるのが怖かった。折れそうなほど小さい。
(——教科書には、この匂いは載っていないな)
この土から、この水から、この光から、現実に立ち上がってきたものだ。
胸の奥が熱くなった。
目頭が——いや。
立ち上がった。深く息を吸った。
(落ち着け。芽が出ただけだ。芽が出ただけだぞ)
だが、駄目だった。
胸の底から、何かが込み上げてくる。抑えようとしたが、抑えられなかった。二十一日間、石を拾い、畝を直し、水をやり、雑草を抜き、何も起きない土を見続けた二十一日間の——。
結果が、ここにある。
目の前の、この小さな芽。
考えが走り始めた。止まらなかった。
足音が聞こえた。
ローザだった。水汲みの帰りらしい。桶を肩に担いでいる。
僕の区画の前で足を止めた。芽を見ている。
「出たんだ」
「うん。——ローザ、見て」
僕は芽を指さした。朝の光が葉先を白く光らせている。声が震えている自覚はあった。だが止まらなかった。
「この芽は種だけで出たんじゃない。土も、水も、石をどけた手間も、お前の助言も、全部重なった結果で——」
「芽が出ただけでしょ」
静かな声だった。
桶から水が一滴、こぼれた。僕の足元の土に染みて、黒い点になった。
ローザは芽を見下ろしていた。
「水はけが良くなったからでしょ」
「——いや、そうなんだけど、僕が言いたいのは」
「水が溜まるって言っただけでしょ」
「……わかった。ローザは手伝ってない。でも、ローザが向きを教えてくれなかったら芽は出てなかった」
「勝手に感動して勝手に巻き込まないで」
向こうを見ているので、顔は見えない。
ローザは桶を地面に置いた。しゃがんで、芽を見ていた。指先で触りはしなかった。ただ、見ていた。
数秒。
それから桶を担ぎ直して、歩き出した。腰に括った麻袋から、紡いだ糸の束がのぞいていた。
三歩ほど進んで、振り返りもせずに言った。
「——でも、隣の畑よりは育ってる」
それだけ言って、行ってしまった。
膝についた土を払った。手のひらが黒い。
「……その通りだ」
だが、「隣の畑よりは育ってる」。
あの最後の一言が、どんな壮大な言葉より重かった。
区画を離れようとしたとき、畦道の向こうにハインリヒがいた。鍬を肩に乗せたまま、畝の端の芽に一瞬だけ目を止めた。何も言わずに、そのまま歩いていった。
その日の賦役で、グリュンが来た。
帳面を片手に畝の間を歩いている。農奴たちの手元を確認し、何かを書き付けている。
僕の前を通り過ぎるとき、足を止めた。
掌が、鍬の柄に張り付いた。
帳面の紙がぱさりと鳴った。
「お前、東の端で何かやっているな」
「石を拾ってるだけだよ」
「石を拾って何をする」
「畑にする。何も育たない場所だったから」
視線を落としたまま答えた。グリュンは帳面から目を上げた。細い目が僕を見ている。
「——勝手なことをするな、と言いたいところだ」
帳面に目を落とした。
「だが、何も育たない場所なら、好きにしろ。実ったら報告しろ。取り分は俺が決める」
「取り分の割合は——」
「余計なことを言うな」
グリュンは帳面を閉じて、歩いていった。
芽より先に帳面が届く。それがこの村の仕組みだ。
「……最悪の宿題は続くな……」
鍬の柄を握り直した。
隣の畝で鎌を研いでいた男が顔を上げた。
「お前、何かあったのか。顔がひどいぞ」
「……ううん、何でもない」
「そうか」
男は鎌に目を戻した。
帳面に書かれたのだろう。「東端・ムーア・開墾中」とでも。
グリュンが去ったあとの畝道に、紙片が落ちていた。
風で飛んだらしい。小さな紙切れ。帳面から剥がれたのか、挟んであったものか。
拾い上げた。
文字が書いてある。イェニーに教わった三文字と見比べる。『麦』と『水』。そして、数字らしいもの。
品名と数字の対応が、かすかに見え始めた。
紙を返すべきだろう。だがその前に、記録する。
石を一つ拾い上げた。裏面に、尖った小石で刻みつけた。紙片の文字を、一字ずつ。
最初の一画で小石が滑った。やり直す。何かバランスが悪い。
読むのと書くのは別の技術だ。
紙がない。この世界の農奴に紙は与えられない。なら石が帳面だ。三度目でようやく、判読できる文字が刻めた気がする。
紙片はグリュンの動線に置いておいた。風で飛んだように見えるだろう。
石の帳面を、小屋の床下に隠した。
夜、小屋に戻ると、イェニーが地面に文字を書いて待っていた。
「今日は三つ、思い出したよ。『畑』と『種』と——『実り』」
棒で書かれた不格好な文字。だが読める。
「ありがとう、母さん」
粥を食べながら、今日のことを整理した。
芽が出た。グリュンに目をつけられている。文字を少し覚えた。石に記録を刻んだ。
小さな進歩だ。だがこの小さな進歩が、二十一日前には存在しなかったものだ。
気になることは他にもある。だが今は、芽の番だ。
外は暗い。風が小屋の隙間から入ってくる。春の風だが、夜はまだ冷える。竈の灰と、粥の湯気が混じった匂いが小屋に籠っている。
ローザの言葉を思い出す。「隣の畑よりは育ってる」。
あの芽が穂をつけるまで、まだ何ヶ月もかかる。穂をつけたとき、グリュンが取り分をどう決めるか。
だが今は、まだ芽の段階だ。
明日も賦役がある。終わったら、区画に行く。水をやり、雑草を抜き、芽が一つでも多く育つように。
椀の底に残った粥をすすった。薄い。だが、今日の粥はいつもより温かい気がした。
——気がしただけだ。鍋は同じ。麦も同じ。変わったのは、たぶん僕の方だ。
芽はまだ指で摘めるほど小さい。
だが、グリュンの帳面にはもう僕の名前が書かれている。
取り分の話は、穂がつくより先に来る。
これ、主人公が死ぬまでに、共産主義にたどり着けるのか?




