表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/19

芽は出たのに、帳面はそれより先に僕の畑へ来た

 石を拾い始めて、三日が経った。


 賦役が終われば東端へ走り、日が暮れるまで石をどける。それだけが今の僕の仕事だった。


 手のひらに豆ができた。翌日には潰れる。その翌日には硬くなった。


 一つどけるたびに、その下からまた小石が出てくる。終わる気がしない。


 四日目の夕方、足音が聞こえた。


 振り返ると、イェニーだった。何も言わず、僕の隣にしゃがんで、石を拾い始めた。


「母さん、いいよ。僕一人で——」


「拾えばいいんでしょう?あなたがやりたいことなんでしょう?ならやるわ」


 匙を持つ手とは違う力で、イェニーは石を持ち上げた。小さな石を二つ、三つ。畝の外に並べる。手が土で黒くなる。


 何も聞かない。なぜ石を拾うのか、何を育てるのか。ただ隣にいて、同じことをしている。


「……理論どおりには始まらないな……」


「何の話?」


「独り言だよ。気にしないで」


 イェニーの顔が、ほんの少し動いたが、少し微笑んで前を向いた。


(——父さんも、こうやって黙って石を拾っていたのだろうか。何も言わずに)


 その考えが浮かんで、すぐに振り払った。今は石を拾う。


 休憩のとき、水を分け合いながら、ふと聞いた。


「母さん、文字って読める?」


 イェニーが水瓶を傾ける手を止めた。少し驚いた顔をした。


「……昔、少しだけ教わったことがあるよ。奉公に出てたとき」


「奉公先で?」


「教会付きのお屋敷でね。司祭さまの身の回りの世話をしていたことがあるんだ。司祭さまが気まぐれで、ちょっとだけ教えてくださった」


 イェニーは落ちていた小枝を拾って、地面に文字を書いた。三文字。不格好だが、確かに文字だった。


「これで『麦』。こっちが『水』。もう一つは——何だっけ。忘れちゃった」


 僕も小枝を拾って真似た。だが、手が動かない。鍬と鎌は覚えているのに、文字を書く動きだけがぎこちない。線が曲がる。角が丸くなる。


 翌日には、昨日書けた字の形すら曖昧になっていた。


 転生してから文字を見たのは、グリュンの帳面の表紙だけだった。農奴は読み書きを習わない。


「……教会以外で、文字を教えてくれるところはあるのかな」


「ないよ。読み書きは司祭さまのものだもの」


「司祭さまの——」


「何でそんなこと気にするんだい」


「ううん。——もう少し教えてくれないかな。毎日、少しずつ」


 イェニーは小枝を地面に刺して、立ち上がった。


「忘れてるのが多いよ? でもいいなら」


 石を拾う。文字を覚える。どちらも、一つずつだ。



 五日目。


 石を拾い続けて、二畝分ほどの空間ができた。


 掘り返した土は黒かった。湿っていて、腐葉土の匂いがする。石が蓋になって水分を保っていたらしい。指先で土を崩すと、細かい根が混じっている。


 鼻を近づけた。酸っぱくない。腐った匂いもない。根が生きているなら、土も死んでいない。


 大麦を試す。この土なら育つ可能性がある。


 保有地の片隅に残っていた種を少しだけ蒔いた。ほんの一握り。失敗しても惜しくない量だ。


 畝を作り、種を蒔き、水をやった。


 あとは待つしかない。



 七日目の昼。賦役を終えて実験区画に向かう途中、赤い髪が目に入った。


 ローザだった。薪を背負って、畑道を歩いている。


 僕の区画の前で足を止めた。石を除けた地面と、不格好な畝を見ている。


「……何やってるの」


「畑を作ってるんだ」


「石をどけただけでしょ」


「石をどけて、畝を作って、種を蒔いたんだ」


「畑を作るの?」


「そのつもり。どうなるかはわからないけど」


 ローザは畝を見下ろした。眉をひそめている。


「そこ、水が溜まるよ」


「何?」


「春に大雨が降ると東から水が来る。その向きだと種ごと流されるよ」


 僕は畝を見た。確かに、東側がわずかに高い。傾斜に気づかなかった。


「……なるほど、斜めか……」


「水が畝を横切るように、斜めにすればいいでしょ」


「詳しいね」


「……住んでるんだから当たり前でしょ」


 恥ずかしそうにつぶやいている。褒め慣れていないのだろうか。


 ローザは薪を背負い直して、歩いていった。


「……助かった、ありがとう」


 声に出していた。ローザは振り返らなかった。だが、三歩ほど先で言った。


「知ってることを伝えただけ」


 畝を作り直した。斜めに切り直し、溝を深くした。土の匂いが鼻に染みる。腰が痛い。だが、手は止まらなかった。



 それから、二十日が過ぎた。


 毎日、賦役の後に区画を見に行った。水をやり、雑草を抜き、土の状態を確かめる。


 変化は遅かった。祝福なら一晩で色を変える。だが、こちらは十五日経っても何も出ない。


 十五日目に土が少しだけ盛り上がった。十八日目には、それが気のせいではないと分かった。


 そして今日。


 二十一日目の朝。賦役に出る前に、区画に寄った。


 ——芽が出ていた。


 小さな、緑色の芽。土を割って、二枚の葉を広げている。


 一つではない。畝に沿って、ぽつぽつと。隣の保有地の畑と比べると、明らかに密度が違う。石を除けた土は養分を蓄えていた。


 しゃがんで、芽を見た。湿った土の匂いが、鼻の奥まで届いた。


 指で触れるのが怖かった。折れそうなほど小さい。


(——教科書には、この匂いは載っていないな)


 この土から、この水から、この光から、現実に立ち上がってきたものだ。


 胸の奥が熱くなった。


 目頭が——いや。


 立ち上がった。深く息を吸った。


(落ち着け。芽が出ただけだ。芽が出ただけだぞ)


 だが、駄目だった。


 胸の底から、何かが込み上げてくる。抑えようとしたが、抑えられなかった。二十一日間、石を拾い、畝を直し、水をやり、雑草を抜き、何も起きない土を見続けた二十一日間の——。


 結果が、ここにある。


 目の前の、この小さな芽。


 考えが走り始めた。止まらなかった。


 足音が聞こえた。


 ローザだった。水汲みの帰りらしい。桶を肩に担いでいる。


 僕の区画の前で足を止めた。芽を見ている。


「出たんだ」


「うん。——ローザ、見て」


 僕は芽を指さした。朝の光が葉先を白く光らせている。声が震えている自覚はあった。だが止まらなかった。


「この芽は種だけで出たんじゃない。土も、水も、石をどけた手間も、お前の助言も、全部重なった結果で——」


「芽が出ただけでしょ」


 静かな声だった。


 桶から水が一滴、こぼれた。僕の足元の土に染みて、黒い点になった。


 ローザは芽を見下ろしていた。


「水はけが良くなったからでしょ」


「——いや、そうなんだけど、僕が言いたいのは」


「水が溜まるって言っただけでしょ」


「……わかった。ローザは手伝ってない。でも、ローザが向きを教えてくれなかったら芽は出てなかった」


「勝手に感動して勝手に巻き込まないで」


 向こうを見ているので、顔は見えない。


 ローザは桶を地面に置いた。しゃがんで、芽を見ていた。指先で触りはしなかった。ただ、見ていた。


 数秒。


 それから桶を担ぎ直して、歩き出した。腰に括った麻袋から、紡いだ糸の束がのぞいていた。


 三歩ほど進んで、振り返りもせずに言った。


「——でも、隣の畑よりは育ってる」


 それだけ言って、行ってしまった。


 膝についた土を払った。手のひらが黒い。


「……その通りだ」


 だが、「隣の畑よりは育ってる」。


 あの最後の一言が、どんな壮大な言葉より重かった。


 区画を離れようとしたとき、畦道の向こうにハインリヒがいた。鍬を肩に乗せたまま、畝の端の芽に一瞬だけ目を止めた。何も言わずに、そのまま歩いていった。



 その日の賦役で、グリュンが来た。


 帳面を片手に畝の間を歩いている。農奴たちの手元を確認し、何かを書き付けている。


 僕の前を通り過ぎるとき、足を止めた。


 掌が、鍬の柄に張り付いた。


 帳面の紙がぱさりと鳴った。


「お前、東の端で何かやっているな」


「石を拾ってるだけだよ」


「石を拾って何をする」


「畑にする。何も育たない場所だったから」


 視線を落としたまま答えた。グリュンは帳面から目を上げた。細い目が僕を見ている。


「——勝手なことをするな、と言いたいところだ」


 帳面に目を落とした。


「だが、何も育たない場所なら、好きにしろ。実ったら報告しろ。取り分は俺が決める」


「取り分の割合は——」


「余計なことを言うな」


 グリュンは帳面を閉じて、歩いていった。


 芽より先に帳面が届く。それがこの村の仕組みだ。


「……最悪の宿題は続くな……」


 鍬の柄を握り直した。


 隣の畝で鎌を研いでいた男が顔を上げた。


「お前、何かあったのか。顔がひどいぞ」


「……ううん、何でもない」


「そうか」


 男は鎌に目を戻した。


 帳面に書かれたのだろう。「東端・ムーア・開墾中」とでも。


 グリュンが去ったあとの畝道に、紙片が落ちていた。


 風で飛んだらしい。小さな紙切れ。帳面から剥がれたのか、挟んであったものか。


 拾い上げた。


 文字が書いてある。イェニーに教わった三文字と見比べる。『麦』と『水』。そして、数字らしいもの。


 品名と数字の対応が、かすかに見え始めた。


 紙を返すべきだろう。だがその前に、記録する。


 石を一つ拾い上げた。裏面に、尖った小石で刻みつけた。紙片の文字を、一字ずつ。


 最初の一画で小石が滑った。やり直す。何かバランスが悪い。


 読むのと書くのは別の技術だ。


 紙がない。この世界の農奴に紙は与えられない。なら石が帳面だ。三度目でようやく、判読できる文字が刻めた気がする。


 紙片はグリュンの動線に置いておいた。風で飛んだように見えるだろう。


 石の帳面を、小屋の床下に隠した。



 夜、小屋に戻ると、イェニーが地面に文字を書いて待っていた。


「今日は三つ、思い出したよ。『畑』と『種』と——『実り』」


 棒で書かれた不格好な文字。だが読める。


「ありがとう、母さん」


 粥を食べながら、今日のことを整理した。


 芽が出た。グリュンに目をつけられている。文字を少し覚えた。石に記録を刻んだ。


 小さな進歩だ。だがこの小さな進歩が、二十一日前には存在しなかったものだ。


 気になることは他にもある。だが今は、芽の番だ。


 外は暗い。風が小屋の隙間から入ってくる。春の風だが、夜はまだ冷える。竈の灰と、粥の湯気が混じった匂いが小屋に籠っている。


 ローザの言葉を思い出す。「隣の畑よりは育ってる」。


 あの芽が穂をつけるまで、まだ何ヶ月もかかる。穂をつけたとき、グリュンが取り分をどう決めるか。


 だが今は、まだ芽の段階だ。


 明日も賦役がある。終わったら、区画に行く。水をやり、雑草を抜き、芽が一つでも多く育つように。


 椀の底に残った粥をすすった。薄い。だが、今日の粥はいつもより温かい気がした。


 ——気がしただけだ。鍋は同じ。麦も同じ。変わったのは、たぶん僕の方だ。


 芽はまだ指で摘めるほど小さい。


 だが、グリュンの帳面にはもう僕の名前が書かれている。


 取り分の話は、穂がつくより先に来る。

これ、主人公が死ぬまでに、共産主義にたどり着けるのか?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ