四束の麦が実った日に、帳面の男は余りを先に持っていくと言った
春に蒔いた種が、ようやく穂をつけた。
水をやり、雑草を抜き、虫を取り、何ヶ月も見続けた区画だ。直営地の穂はもっと太い。あの春の祝福の差は、ここまで残る。
そして秋の風が吹く朝、僕は初めて収穫する。
賦役を終え、道具小屋から鎌を借りて実験区画に走った。
朝露が畝に残っている。足元の土は冷たく、靴の裏から湿気が伝わってくる。
風が穂を揺らしている。黄金色とまではいかない。やや痩せた、薄茶の穂が畝に沿って並んでいた。だが、何も育たなかった石だらけの土地から、これだけの穂が立った。
鎌を握り、穂に刃を入れた。
ざくり、と乾いた茎が倒れる音。掌に伝わる抵抗が、腹の底まで響いた。刈った穂を左手に受けると、確かな重さがある。小さいが、粒は詰まっている。
まず四束を刈り取り、麻紐で縛った。あの石だらけの地面からなら、上出来だ。鼻先に干し草と土の混じった匂いが届く。
息を吐いた。両手が震えていた。
イェニーが畑道を歩いてくるのが見えた。穂の束を掲げた。
「母さん、見て。——実った」
イェニーが駆けてきて、目を丸くした。穂を手に取り、指先で粒を確かめている。
「……こんなに。あの畑から?」
「うん。石を除けて、水をやり続けただけだよ。土が死んでなかった」
イェニーの唇が震えた。
「……粥が、少し濃くなるね」
穂の束を両手で抱え直した。掌に茎の硬い感触と、粒の重さが伝わってくる。目頭が熱くなりかけた。——いや、こらえろ。芽のときも泣きそうになっただろう。学ばないのか僕は。
だが、こみ上げるものが抑えきれなかった。つい口が滑った。
「……ここから全部ややこしくなるよ」
「ややこしい……? ——ムーア、それより穂を踏まないで。根が傷むから」
イェニーは穂を大事そうに抱え直した。理論語は完全に素通りして、足元の穂だけが見えている。
「……粥が濃くなるってことだよ」
「うん。それはわかるよ」
(僕もいい加減にしろ。毎回これだ)
収穫の翌日、僕は教会に向かった。
目的は信仰ではない。文字だ。イェニーに教わった数文字だけでは、グリュンの帳面は読めない。教会の聖典なら、正確に書き写された文字がまとまって残っている。村で文字に触れられる場所は、あそこしかない。
村の外れの小高い丘。石造りの建物の扉を押すと、冷たい空気が肌を刺した。蝋燭の蝋と古い羊皮紙の埃っぽい匂いが鼻の奥に届く。
(研究室の書庫に似た匂いだ。知識が閉じ込められている場所は、どの世界でも同じ匂いがするらしい)
聖職者が祭壇の前にいた。痩せた中年の男だ。農奴の子供が一人で来たことに、眉をわずかに上げた。
「何用だ」
ここからが勝負だ。信心を装え。
「……神のことを、知りたいのです」
——口の中が苦い。
聖職者はしばらく僕の顔を見つめていた。だが信仰心と解釈したのか、やがて表情を緩めた。
「……殊勝なことだ。珍しい子だな」
最初は遠目に眺めるだけだった。二度目で警戒され、三度目でようやく近くで見せてもらえた。
(嘘だ。帳面を読みたいんだ。この嘘だけが、今の僕の唯一の入り口だ)
声に出して読んでくれた文字と音を対応させていく。麦、水、日、地。生活に近い言葉から覚えていく。
だが問題があった。聖典の文字と、グリュンの帳面で見た字が微妙に違う。同じ字のはずなのに、別の字に見える。書き手が違うだけで、形がこんなに崩れるのか。
数字の方がまだ早かった。だが翌朝には、三と五の区別がもう怪しくなっていた。紙がないから、繰り返し見返すこともできない。
「……ありがとうございます。また来てもよろしいですか」
「来なさい。信仰心のある若者は、いつでも歓迎する」
——口が裂けても言えなかった。信仰心で通しておけ。
教会通いが軌道に乗った頃、畑にグリュンが現れた。
帳面を片手に、僕の実験区画の前に立っている。刈り取ったあとの畝と、まだ残っている穂を見下ろしていた。
「ムーア」
名前で呼ばれた。グリュンが名前を出すのは、ろくなことがない時だ。
「端の畑が育ったか。なら取り分も増える。伯さまの帳面に書く」
——来た。
掌が、冷たくなった。
余剰を出した瞬間に、(搾取が追いかけてくる)。芽が実る前から、取り分の計算だけは先に完成している。実りより先に帳面が届くのだ。
「まだ全部は——」
「全部で何束だ」
グリュンが帳面を開いた。
背筋に冷たいものが走った。僕は反射的に目を走らせた。教会で覚えた文字と照合する。
品名の欄は——追えない。聖典の字と帳面の字が違う。同じ字のはずなのに、書き手の癖で角が崩れている。
グリュンが親指で紙の端を押さえ直した。
数字の列は三つ目まで追えたが、四つ目の記号は聖典にはなかった。帳面独自の略記か。
追えたのは一部だけだった。
グリュンが帳面を閉じた。脇に抱え直して、目だけがこちらを向いた。
「何を見ている」
「……何も」
「字が読めるわけがないだろう。余計な真似はするな」
グリュンの目が、一瞬だけ鋭くなった気がした。
鍬の柄を掌に握り直した。汗で木がぬめる。
数字を握る者が取り分を決める。読めない側は、黙って受け取るしかない。
「勝手に仕組みを変えるな。何をしたか知らんが、取り分が足りなければ叱られるのは俺だ」
「俺が叱られる」。その一言だけで、あの男もまた別の帳面に縛られているのだと分かった。
喉が、かすかに渇いていた。
「グリュン、一つだけ。取り分の割合は、誰が——」
「お前が知る必要はない。畑を耕せ」
それだけ言って帳面を閉じ、去っていった。
去り際に畝を一瞥する目は、穂を見る目ではなかった。数字を見る目だった。
だが、ここで立ち止まっている暇はない。帳面を読めなければ、取り分の交渉すらできない。
鍬の柄を握り直した。あの老人の石割りのことも、まだ答えは出ていない。それでも、一つずつやるしかない。
夜。小屋に戻ると、鍋から粥の匂いが漂っていた。いつもより少しだけ、濃い。
イェニーが声を落とした。
「ムーア、少しだけ先に取っておいたよ」
「先に?」
「粥に入れる分。収穫から、ほんの少しだけ。全部出したら全部持っていかれるでしょう」
イェニーは当然のことのように言った。
理論は知らない。だが、余剰を全部見せたら取られるということは、体で知っている。
「母さん、それは——」
口が動きかけた。やめた。言ったら伝わらない上に、粥が冷める。
「……ありがとう。助かるよ」
「ばれたら、鞭だけどね」
イェニーは鍋に目を戻した。声は低かったが、手は迷いなく動いている。
粥を椀に受けて、すすった。確かにいつもより濃い。舌に麦の粒が当たる。噛むと、ほんのりと甘みがした。自分の畑から採れた麦の味だ。
椀を両手で包んで、考えた。
全部出せば取られる。だが、隠すだけでは先に進まない。外へ出す道がなければ、この麦もただ減っていくだけだ。
椀の熱が、掌にゆっくり伝わってくる。
行商人バスティアの顔が浮かんだ。秋の終わりに来ると聞いた。あと少しだ。
だが、麦だけでは弱い。重いし、嵩張る。もっと軽くて、この村でしか出せないものが要る。
「母さん。ローザの糸って、まだ紡いでるかな」
「あの子はずっと紡いでるよ。暇さえあれば」
翌朝、畑道でローザとすれ違った。
腰に括った麻袋から、糸の束が覗いている。前より少しだけ大きくなっていた。
目が合った。朝の冷気が、すれ違う一瞬だけ途切れた。
ローザは何も言わなかった。僕も何も言わなかった。
——行商人が来るまでに、やることがある。
帳面を読めない農奴が、自分の取り分をどう守るか。数字を握る者が勝つ仕組みの中で、読める側に回るしかない。
小屋の床下から石を取り出した。教会で覚えた文字。グリュンの帳面から盗み見た数字。
小石を握り、平らな面に一字ずつ刻む。硬い。何度もこすらないと溝にならない。指先が痛む。だが、一字ずつなら刻める。
紙がないなら、石が帳面だ。読めないままでは、実った分まで向こうの数字になる。
明日も教会に行く。覚えた文字を、一つでも増やす。
ちょっとずつPV増えてきました。感想など是非お願いします。




